2008年04月04日

神仏は妄想である 63

多くの信仰篤い人々は、宗教がなければ、人がどうして善良でいられるのか、あるいは善良でありたいと望むことができるのか、想像し難いと感じている。

道徳とは何の実際的な関連ももたない他の話題に対する宗教的な態度の背後に道徳的な動機が潜んでいることがあるからだ。進化論を教えるなと主張する人々は、実は進化論そのもの、あるいは科学的な事柄とは何の関連もなく、道徳上の憤慨によって煽り立てられていることが多い。
ドーキンス  第6章 道徳の根源 なぜ私たちは善良なのか ? より


宗教信者は、宗教より、道徳というものが、生まれると、信じている。
しかし、彼らが、他宗教、他宗派に対する時、そこには、道徳的、かけらも無いほどの、行動をするのである。

それを、彼らは、知ることがない。

宗教から、出る、道徳とは、完全無欠に、紛い物である。
要するに、偽物である。

ダーウィン主義の論理によれば、自然淘汰のふるいの目をくぐった生き延び伝えられる、生命の階層秩序のなかで、自分と同じレベルにいるライバァルを犠牲にして生きのびることに成功したものである。厳密にはそれこそが、この文脈で利己的という言葉が意味するものである。問題は、その作用の舞台となるレベルはどこか、ということだ。力点を正しく、後ろのほうの単語(遺伝子)に置いた、利己的な遺伝子という考えの趣旨は、自然淘汰の単位(つまり利己主義の単位)は利己的な個体ではなく、利己的な集団でも、利己的な種でも、あるいは利己的な生態系でもなく、利己的な遺伝子だということにある。情報という形で、多数の世代にわたって生き残るか、残らないかというのは遺伝子なのである。
ドーキンス

それは、利己性の、単位としての意味における、利己的な遺伝子である。

つまり、利己的な遺伝子という、ドーキンスの、道徳に対する考え方に、利己的という、言葉が、先行して、道徳を、考える際に、利己的という言葉が、僭越するということである。それに、対する、誤解を説く。

いわゆる利他行動のうち、それを支えるダーウィン主義的な理論的根拠についてよく解明がなされているもう一つの主要なタイプは、互恵的利他行動「ぼくの背中を掻いておくれ、そしたら、お返しに掻いてあげるから」である。
ドーキンス

一体、宗教が言うところの、道徳から発する、考え方は、何であろうか。
利他行動というものを、宗教では、愛の行為、布施等々を言うが、すべて、布教活動の一環となる。

やたらに、親切に接してくると、思ったら、宗教だったということは、多々ある。

それならば、愛は地球を救うという、気持ちの悪いテレビ番組の方が、まだ、救いはある。
あれは、イベントであり、教えの、強制はない。

実際にそれは、大幅に異なった種のメンバー間でもまったく同じように、おそらくはそれ以上にさえ機能するのであり、その場合は共生と呼ばれることが多い。この原理は、人間のあらゆる交易や物々交換の基礎でもある。
ドーキンス

科学者の、考え方の方が、真っ当である。

道徳の基本は、生きるための、最低限の基礎なのである。

生物界には、そのような相互扶助的な関係がどっさりある。と、ドーキンスは、言う。

自然淘汰は、必要と機会の非対称的な関係において、自分から与えることのできるときには与え、できないときにはくれるようにせがむようにさせるような資質を個体にもたせる遺伝子を選択する。義務を記憶し、恨みを抱き、交換的な関係を監視し、もらうだけでお返しの番がきたときに与えないごまかし屋を罰し、といった傾向も選択され、生き延びる。
ドーキンス

長年に、渡って、人類が築いてきた、利他行為、互恵的利他行為、そして、多種との、共生。
道徳の基礎は、ここにあり、宗教の教えの、云々には、何ら関係ないのである。

更に、ドーキンスは、それらの、誤作動に関して、記述する。

人間は、万物の霊長であるという、勝手な解釈は、何の役にも立たない。
生き延びるために、経てきた、積み重ねた、経験というものが、重要である。

さて、日本では、道徳といえば、孔子である。
論語から、道徳という観念が生まれた。
更に、江戸時代になると、朱子学である。
まあ、中国の書物から、多くを学んだので、儒教、道教、そして、中国仏教である。

教えられる、道徳である。
しかし、人間の心の、発露としての、行為は、古代からある。当たり前である。
その、古代からの行為こそ、ドーキンスが言う、利他行為である。互恵的利他行為、更に、共生というものである。

万葉集を、読めば、すべて、理解できるのである。

親孝行などは、万葉集では、孝行を超えている。
親に対する、恋心である。
親乞う心である。

宗教により、人間が善になるという、考え方は、無い。
宗教が、教えるものは、例えば、仏教だと、来世とか、死後の世界の、地獄、極楽である。
要するに、脅しの、言葉による、道徳的行為を、強要する。
勿論、道徳というものの、何物も無い。
単なる、教義としての、道徳的行為の、推奨である。

それは、実に、計算高いものであり、人間を、取引させる。
一神教になると、それは、実に、甚だしい。

新約聖書で言われる、善きマサリア人の話は、有名であるが、あの土地によって成る、お話である。
イエスの、隣人愛というものも、実に、あの地域性による。
汝の敵と、敵を、最初に想定するという、土地柄である。

別の神を、拝む民を、排斥する地域にあっての、隣人愛を、イエスは、押し広げて、教えた。
というより、それは、イエスの教えというより、セクト教団の教えである。
祖先の時代、私たちは利他行動を近親者と潜在的なお返し屋にのみ向けるような暮らしをしていた。
ドーキンス

イエスの言葉は、それを、押し広げたのである。
つまり、近親者のみではなく、出会う人に、広げたのである。

しかし、それは、画期的なことではあった。




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もののあわれについて193


高瀬舟 はやこぎ出でよ さはること さしかへりにし 蘆間わけたり

と聞こえたるを、おぼし忘れたるにや、


山べにも 車に乗りて 行くべきに 高瀬の舟は いかがよすべき

とあれば、


もみぢ葉の 見にくるまでも 散らざらば 高瀬の舟に なにかこがれむ

とて、その日も暮れぬればおはしまして、こなたのふたがれば、忍びていておはします。



たかせぶね はやこぎいでよ さはること さしかへりにし あしまわけたり

高瀬舟を、早く漕いで、お越しください。差し支えがありました、蘆の間は、取り片付けています。

と、申し上げ、宮様は、お忘れになったのでしょうか。


やまべにも くるまにのりて ゆくべきに たかせのふねに なにかこがれむ

山の紅葉を見に行きますのも、車で行きますのに、高瀬舟と、言われても、山に近づけるには、どうすれば、いいのでしょう。

と、詠んでこられたので、


もみぢばの みにくるまでも ちらさらば たかせのふねに なにかこがれむ

山の紅葉が、散らずに待っているならば、ともかく、どうして、紅葉を恋焦がれましょうか。高瀬舟で、行くなど、できません。
焦がれている、私の元に、お出でください。

と、お返事しますと、その日の、夕暮れに、お出でになり、女の家が、方、塞がりなので、女を、外に連れ出しました。

方塞、かたふたがり、とは、方位が、悪いという意味。
女の家が、その日は、悪い方位に当たる。
当時は、方違、かたたがい、という、悪い方位を、吉に変えるために、別な方角に、一度行き、そこから、相手先に、向かうという、方法もあった。


このごろは四十五日の忌みたがへせさせたまふとて、御いとこの三位の家におはします。例ならぬ所にさへあれば、女「見苦し」と聞こゆれど、しひていておはしまして、御車ながら人も見ぬ車宿に引き立てて、人らせたまひぬれば、おそろしく思ふ、人しづまりてぞおはしまして、御車にたてまつりて、よろづのことをのたまはせ契る。

このごろは、宮様が、四十五日の、方違をなさるということで、御いとこの、三位の家に、おいでになりました。
いつもの所と、違う場所であり、女は「見苦しゅうございます」と、言った。
宮様は、無理に、女を、人目のつかない、車宿に、連れました。
宮様は、一人で、御宅に入り、女は、恐ろしく思いました。
人が、寝静まってから、宮様は、お出でになり、御車に乗って、色々なことを、話、契りました。


心得ぬ宿直のをのこどもそけめぐり歩く、例の右近の尉、この童とぞ近くさぶらふ。あはれにもののおぼさるるままに、おろかに過ぎし方さへくやしうおぼさるるも、あながちなり、明けぬれば、やがていておはしまして、人の起きぬさきにといそぎ帰らせたまひて、つとめて、


寝ぬる夜の 寝覚の夢に ならひてぞ ふしみの里を 今朝は起きける

御返し


その夜より わが身の上は 知られねば すずろにあらぬ 旅寝をぞする

と聞こゆ。


様子のわからない、宿直の、男たちが、歩いています。
例のように、右近の尉と、童が、車の近くで、お仕えしていました。
宮様は、あはれにもののおぼさるるままに、
しみじみとした、思いに誘われる女に対して、いい加減に、接してきたことを、悔やまれました。また、そう思うことすら、勝手なものだと、思われます。

夜が明けますと、宮様は、女の家まで送ります。
お邸の方が、起きないうちにと、急いで帰られました。
朝のうちに


ねぬるよの ねざめのゆめに ならひてぞ ふしみのさとを けさはおきける

共寝をした夜以来、寝覚めがちな、夢に慣れてしまいました。伏見の里ですが、今朝は、臥すことなく、起きてしまいました。

お返し


そのよより わがみのうえは しられねば すずろにあらぬ たびねをぞする

お逢いしました、その夜から、私の身の上は、どうなることか、解らなくなりました。
まさか、とんでもない、外泊をするなどとは、思いませんでした。

と、申し上げました。

あはれにもののおぼさるるままに
あはれ、に、ものの、おぼさるる、ままに
憐れに、物を、覚えるが、如く、となる。
心に深く、思うこと、感じる、ことなのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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