2008年04月02日

もののあわれ191

二日ばかりありて、女車のさまにてやをらおはしましぬ。昼などはまだ、御覧ぜねば、はづかしけれど、あさましうはぢ隠るべきにもあらず。またのたまふさまにもあらば、はぢきこえさせてやはあらむずるとて、いざり出でぬ、日ごろのおぼつかなさなど語らはせたまひて、しばしうち臥せさせたまひて、宮「この聞こえさせしさまに、はやおぼし立て、かかる歩のつねにうひうひしうおぼゆるに、さりとて参らぬはおぼつかなければ、はかなき世の中に苦し」とのたまはすれば、女「ともかくものたまはせむままにと思ひたまふるに、「見ても嘆く」といふことにこそ思ひたまへほづらひぬれ」と聞こゆれば、宮「よし見たまへ、「塩焼き衣」にてぞあらむ」とのたまはせて、出でさせたまひぬ。


二日ほど、経ち、宮様は、女車のいでたちで、密かに、お出でになりました。
昼間に、お逢いしていませんので、気恥ずかしく思いましたが、みっともなく、恥ずかしがって、隠れることも、出来ません。
宮様が、仰せのように、邸にでも、移ることになれば、このように、恥ずかしがってもいられません。
にじり出ました。
宮様は、常日頃の、ご無沙汰のことなどを、お話になって、しばらく、お臥せになりました。
宮様は、「私が申し上げるように、早く決心を、なさい。このような、忍び歩きは、日頃は、心重く、かといって、お訪ねしないのは、なお、気がかりです。頼りない、あなたとの、愛に、苦しんでいます」と、仰せになります。
女は、「ともかくも、おおせの通りに、従いたいと思いますが、「見ても嘆く」ということが、ありますので、思い煩っています」

見てもなお またも見まくの ほしければ 馴るるを人は 厭ふべらなり
古今集 読み人知らず
「見ても嘆く」とは、上記の、歌を、踏まえたもの。

と、申し上げますと、「よし、見ておいでなさい。「塩焼き衣」のように、逢い馴れてくると、人は、恋しくなるものです」と、仰せになって、部屋を、出て行きました。

伊勢のあまの 塩焼き衣 馴れてこそ 人の恋しき ことも知らるめ
古今集 
上記の歌を、踏まえたもの。


前近き透垣のもとに、をかしげなる檀の紅葉のすこしもみぢたるを、折らせたまひて、高欄におしかがらせたまひて、
宮「言の葉ふかくなりにけるかな」とのたまはすれば、
女「白露のはかなくおくと見しほどに」と聞こえさするさま、なさけなからずをかしとおぼす。宮の御さまいとめでたし、御直衣に、えならぬ御衣、出たしうちぎにしたまへる、あらまほしう見ゆ。目さへあだあだしきにやとまでおぼゆ。

庭先の、透垣のそばに、美しい、まゆみの紅葉が色づいています。
それを、宮様は、お折りになられて、欄干に、寄りかかり、「愛にかわす言葉も、紅葉のように、色深くなりました」と、仰せになりました。
それを、受けて、「白露が、はかなく、置きますよう、かりそめの愛と思って、いましたのに」と、申し上げる、女の様子は、心の趣を、添えていて、見事だと、思われました。
宮様の、ご様子は、実に、ご立派でありました。
御直衣を、お召しになり、その下に、素晴らしく、何とも言えぬ、お召し物を、うちぎに、着られているのが、見事です。
女は、自分の目が、色っぽくなっているのではと、思えるほどです。


またの日、宮「昨日の御気色のあさましうおぼいたりしこそ、心憂きもののあはれなりしか」とのたまはせたれば、


葛城の 神もさこそは 思ふらめ 久米路にわたす はしたなきまで

わりなくこそ思ひたまふらるれ」と聞こえたれば、たち返り、


おこなひの しるしもあらば 葛城の はしたなしとて さてややみなむ

など言ひて、ありしより時々おはしましなどすれば、こよなくつれづれも慰むここちす。


また次の日、宮様は、「昨日は、あなたが、情けなく思われていた様子。切なく思われました。しかし、しんみりとした、もののあはれを、思う気持ちになりました」と、仰せになりました。


かつらぎの かみもさこそは おもふらめ くめじにわたす はしたなきまで

葛城の神様も、私と、同じように、思われたでしょう。昼間、久米路に橋をかけるのは、見苦しいことだと。醜い私は、何と、はしたなく、見えたでしょう。実に、恥ずかしく思いしまた」と、申し上げますと、折り返して


おこなひの しるしもあらば かつらぎの はしたなしとて さてややみなむ

役の行者のような、力が、私にありましたら、葛城の神のように、昼間を、恥じているあなたを、そのままには、しておきません。

などと、仰せられて、今までよりも、しばしば、お出に、なります。
ことさら、つれづれの、慰めが、満たされる心地がします。


宮の言葉に、心憂きもののあはれなりしか、という言葉がある。
ここでは、心憂きことが、もののあはれ、という。
実に、複雑な心境になっている。

それは、相手の姿、様子に、そのように、思うのである。
あなたの、様子に、心憂きもののあはれ、というものを、感じたのである。

すでに、もものあわれ、というものを、観ていたのである。

この日記の、様々な、場面で、あはれ、というものを、見てきた。
あはれ、に託す心模様に、あはれ、と、実体を観るのである。

心、そのものが、もののあわれ、なのである。
揺れ動く、心の、機微に、もののあわれ、というものを、感じ取ったのである。

それが、所作になって、現れる。
それが、歌になって、現れる。
更に、それが、心となって、現れるのである。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 61

私は「虹の解体」で、DNAの文字の組合せによって潜在的に生れ落ちることができたはずの膨大な数の人間が実際には生まれないということを考えると、私たちが生きているということがどれほど幸運であるかを伝えようと試みた。その一環として、ここに存在するだけで幸運な私たちのために、巨大な時間の定規の上をゆっくりと進むレーザー光線のスポットライトを思い浮かべることで、人生の相対的はかなさを描いた。スポットライトの前あるいは後ろにあるすべてのものは、死せる過去の闇、あるいは未知の闇に包まれている。私たちは、このスポットライトのなかに自分がいると知るだけで途方もない幸運である。
ドーキンス

これは、神は妄想である、の、最後の章の、最終である。

科学者が、総力を上げて、人生の相対的、はかなさを、描いたという。

生きているという、スポットライトの中にいるということが、途方もない幸運であると、いう。

たゆみない、知性と、感性の、磨き、そして、理性によって、人間は、自立した、人間になるのである。

私たちが太陽のもとにいられる時間がどんなに短くとも、もし、その一秒でも無駄にすること、あるいはそれが退屈だとか、不毛だとか、あるいは(子供のように)つまらないとか不平を言うのは、そもそも生命を与えられることさえなかった無数の生まれなかった者たちへの、無神経きわまる侮辱ではないだろうか?

科学者の、謙虚さを、十分に知る、文章である。
さらに続けて

多くの無神論者が私よりももっとうまく言ってきたように、私たちがたった一つの命しかもたないという知識は、命をいっそう貴重なものにするはずだ。無神論者のこの見方は、人生の肯定という態度に通じるものだが、同時に、生命はこの私に何か借りがあるはずだと感じている者たちの、自己欺瞞、希望的観測、あるいは自己憐ぴんの泣き言には染まっていない。

自己欺瞞、希望的観測、そして、自己憐ぴん、とは、宗教のことである。

知識ということの、本当の意味は、上記のことを言う。
妄想の、教義、教理、教学による、知識ではない。
それは、知識とは、呼ばないのである。

知識とは、裏付けられるものである。

もし、神の消滅が隙間を残すのであれば、それぞれの人がちがったやり方でそこを埋めるだろう。私の選ぶやり方には、科学をふんだんに用いた、現実世界についての真実を見つけだすための誠実かつ体系的な営みが欠かせない。

実に、説得力のある言葉である。
まったくもって、宗教には、無い、言葉の数々である。

私は、宇宙を理解しようとする人間の努力を、モデル形成の試みとして見ている。私たちの一人一人は、自分の頭のなかに、自分がいる世界のモデルを築き上げる。世界の最小モデルは、私たちの祖先がそのなかで生きのびるのに必要なモデルである。このシュミレーション・プログラムは自然淘汰によって構築され、修正されたもので、アフリカのサヴァンナにすんでいた私たちの祖先が慣れ親しんでいた世界、すなわち、中くらいの大きさの物体が、互いに中くらいの相対速度で動いている三次元の世界に、もっとも熟達したものである。予想外のおまけとして、私たちの脳は実は、祖先が生き残るために必要とした凡庸な功利主義的モデルよりも、はるかに豊かな世界モデルを収容できるほど強力なものであった。芸術と科学は、このおまけの暴走がもたらす現われである。

芸術と、科学である。
決して、宗教とは、言わない。

私は、宗教は、芸術の変形、あるいは、逸脱、あるいは、狂いと、観るものである。
芸術的情熱と、宗教的狂信は、非常に近い。

さて、ドーキンスは、量子論についても、書く。
それは、多宇宙についてである。

実は、私は、多次元の世界の証明を、量子論に、期待していた。
しかし、事情は、違った。

それは、次に書く。

ここで、言いたいことは、宗教や、神学等々の、虚妄であるとうことだ。
頭で、考えたことは、単に、それだけのことであり、何の、根拠も、証明も、出来ず、客観性も無いということである。

創造性とは、芸術である。
よって、宗教の、ものの考え方は、創造性の、何物でもない。

人間が、作り出した、ものである。

神も、仏もである。
人間が、創造したもの、それが、神であり、仏である。
ゆえに、神仏は妄想である。

知らないことの、隙間を、埋めるための、神仏の創造は、限りなく、不毛である。

その、根拠を、埋めるための、奇跡というものは、科学で、解明される。
知らないだけである。

キリスト教宣教師が、未分化な、土地に行き、細心の、発見により、持つ、科学的道具により、未開の人を、撹乱させた。
それは、未開の人が、知らないことだったからである。

知ってしまえず、当たり前のことである。

宗教の妄想も、知ることで、妄想であることは、明白である。

ゆえに、私は、神仏は妄想であると、言う。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。