2008年04月01日

神仏は妄想である 60

煉獄の教義は、神学的精神がどのようにしてはたらくかについて、馬鹿馬鹿しい事実を暴露してくれる。煉獄は、神の国において一種のエリス島(ニューヨークにあり、かつての移民局がここに存在し、移民を希望する入国者はここで選別を受けた)のような役割を果たす。地獄に送られるほどの悪い罪を犯していない死んだ魂が行く、黄泉の国への待合室である。しかし罪人のいない天国に入ることを許されるまでには、もう少しばかり矯正的な審査と浄化が必要である。中世においては、教会はよく金で買える「免債」を発行していた。これは、煉獄にいる日数を何日か免じてもらうために金を払うのであり、教会は文字通り(私は僭越にもほどがあると言いたい)購入された減刑日数を書き込んだ署名入りの証明証「免罪符」を発行した。こうした不正利益のために「不浄」という表現が発明されたのではないかと思われるのが、ローマ・カトリックという組織である。金を稼ぐためのあらゆる詐欺行為のなかでも、免罪符の販売こそ、ちまがいなく歴史上、最高に位置するペテンであり、ナイジェリア・インターネット詐欺の中世版に相当するが、こちらのほうが、はるかに成功をおさめた。
ドーキンス

上記、恐るべし、宗教というものの、正体である。

皆々、宗教とは、上記のような、金集めをするのである。
問答無用に、そうである。

何という、馬鹿馬鹿しいことをと、思っても、信じる者は、騙されるのである。
喜んで、金を払うという、愚かさ。

日本の宗教も、同じく、家計が苦しいから、ご供養に、金を出すことを言うのである。
生活が、苦しいほど、献金をする。そうすれば、福がもたらされる。
このように、説いて、信者から、金を集める宗教は、数限りない。

更に悪いのは、信者から集めた金の、数パーセントを使い、慈善事業をしているように、見せかけるという、あくどさである。
信者も、社会も、それに、騙されるのである。

どうしようもない、罪人、それが、宗教組織である。

宗教と、名のつくもの、すべてが、そうであると、言っても、間違いではない。

凶悪事件を、起こす宗教のみならず、精神的凶悪事件を、皆々、起こしているのである。
どんなに、立派な宗教であると、言えども、そこから、のがれることは、出来ない。
つまり、宗教を作るということは、詐欺組織を作るということと、同じなのである。

カトリック教会は、日本にて、学校、福祉施設、病院等々の、社会的活動をする。
キリスト教精神に則って、活動する。
その金は、どこから、出るのか。
世界中の信者の金から出る。

それが、評価出来るということではない。その程度で、人や社会は、騙されるということである。

ドーキンスは、それらの実に、馬鹿馬鹿しい、証拠を書くが、省略する。

煉獄の教義が私を本当に魅了するのは、神学者がそのためにもちだす証拠である。その証拠は目を見張るほど薄弱なものなので、それが断言している空虚な確信をさらに滑稽なものに感じさせてしまう。「カトリック百科事典」の煉獄の項目には、「証拠」と題する節がある。煉獄の存在を示す基本的な証拠は次のようなものである。もし死者が、現世における罪をもとにして単純に天国または地獄に行くのであれば、彼らのために祈る必要が無いということである。「もし、神の眼差しをまだ注がれていない者たちに施しを与える力を祈りがもっていると信じないのであれば、何の理由で死者のために祈るのか」。だが私たちは実際に、死者のために祈っている。そうでしょう? 証明終わり。冗談抜きに、これが神学を扱う専門家たちのあいだで理屈として通用しているものの一例なのである。

実は、私も、少年の頃、教会で、煉獄にいる、霊のためにと、祈っていた。
そう、教えられた。

日本のお盆に、当たる、死者の月が、10月である。
その月には、ロザリオの祈りを、煉獄の霊のために、毎日のように、祈るのである。
ロザリオの祈りとは、聖母マリアに対する祈りである。
聖母マリアに、取り成してもらう、祈りが、ロザリオの祈りという。

聖母出現の土地では、更に、ロザリオの祈りが大切にされる。

その、出現の聖母が、プロテスタントの信者を、カトリックに改宗させる、メッセージを発するという、面白いことを言う。

勿論、誰も、それを、聖母であるとは、知らない。
悪霊の場合もある、と、言っておく。

カトリック信者の中でも、あれは、良い聖母、あちらは、間違った聖母などいう、話がある。ローマ法王庁が、認定しないと、駄目である。

その際は、特に、奇跡の認定が、決め手になる。
その最大の特徴は、病が、癒えるというものである。

ご多分に漏れず、宗教の宣伝文句は、病が癒えるである。

イエス・キリストも、病を癒すのである。
単純明快である。

そして、最大の奇跡は、死後の復活である。

このような、奇想天外のお話を、信じることによって、キリスト教徒となる。

イエスは、雲に乗って、天に上がられたのである。
そして、いつか、雲に乗って、この世に、来るという、妄想。

雲に乗るのは、日本の神々であるが、違うらしい。
冗談です。

この驚くべき不合理な推論がさらにスケールアップされた上で、もう一つの一般的な神の存在証明である。(慰めからの論証)の展開に反映されている。神は存在するにちがいないと、この議論は進む。なぜなら、もし存在しないならば人生は空しく、無駄で、不毛で、無意味で取るに足りないことばかりの砂漠になってしまうだろう。この論理が最初の障害物で破綻していることを、わざわざ指摘する必要がどうしてあるのだろうか? ひよっとしたら人生は空しいかもしれない。ひよっとしたら私たちの死者への祈りは無駄かもしれない。そうではないと仮定するのは、証明しようとしている結論が真実だと仮定することである。この三段論法と称するものは、見え見えの循環論法である。・・・

自分が息災であるのはほかの誰かのおかげにちがいなく、もし自分が怪我をすれば、ほかの誰かが非難されなければならない。神なるものを求める「欲求」の背後に本当に横たわっているのは、このような幼児性ではないだろうか? ・・・

誠に、私は言う。
幼児性である。

思考法には、三段階がある。
外省、がいせい、思考である。
事が起こるのを、すべて、他のせいにして、考える思考法である。

そして、反省思考である。
通常の成長をすれば、反省思考になるのだが、今は、実に、少ない。
私も、悪かったし、相手にも、誤りがある、注意しょうと考える。

次に、内省、ないせい、思考である。
この事態は、私に、何を教えるのであろうかと、考える思考法である。

宗教は、残念ながら、外省思考である。
すべて、神仏に、帰納する。

実に、幼児性である。

超えられない苦しみを、神は、与えたもうはずがない。
誰も、苦しみなど、与えていない。
自業自得であろう。
しかし、敬虔なクリスチャンになると、特に、そう言うのである。

自分が、種を蒔いたことでも、神のせいにするという、アホ、馬鹿である。

幼児性と、妄想性による、撹乱を、起こす。
その名を、宗教と、呼ぶ。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ190

かくて二三日おともさせたまはず、頼もしげにのたまはせしことも、いかになりぬるにかと思ひつづくるに、いもねられず、目もさまして寝たるに、夜やうやうふけぬらむかしと思ふに、門をうちたたく、あなおぼえなと思へど、問はすれば、宮の御文なりけり。

そうして、二三日、何の音沙汰もなく、過ぎました。
頼もしそうに、仰せになったお言葉も、いったい、どうしてしまったのかと、思い続けていますと、眠ることも、できません。
目を覚まして、臥していると、夜も、ようやく、更けたと思う時、門をたたくものがありました。
誰であろうかと、思い、取次ぎの者に、問わせますと、宮様からの、御文でした。


思ひかけぬほどなるを、「心や行きて」とあはれにおぼえて、つま戸押し開けて見れば、


見るや君 さ夜うちふけて 山の端に くまなくすめる 秋の夜の月

うちながめられて、つねよりもあはれにおぼゆ。門も開けねば、御使待ち遠にや思ふらむとて、御返し、


ふけぬらむと 思ふものから 寝られねど なかなかなれば 月はしも見ず

とあるを、おしたがへたるここちして、「なほ口をしくはあらずかし、いかで近くて、かかるはかなしごとも言はせて聞かむ」とおぼし立つ。


思いがけぬ時間でした。
「心が、通じたものか」と、嬉しく思い、妻戸を開けて、読みますと、


みるやきみ さようちふけて やまのはに くまなくすめる あきのよのつき

御覧になっていますか。
夜が更けて、山の端に、澄み渡る秋の夜の月を。

宮様の、歌にひかれて、思わず、月を眺めました。いつもより、いっそう、あはれに感じられました。
門を、開けていませんでしので、御使いも、待ち遠しくなると思い、お返しの、歌を、差し上げました。


ふけぬらむと おもふものから ねられねど なかなかなれば つきはしもみず

夜が更けても、眠られません。
しかも、月は、まだ、見ないことにしています。
月を見ますと、思いが、募ります。

と、詠んでありましたので、宮様は、不意を突かれた思いがして、「やはり、口惜しい女ではありません。何とかして、身近に置いて、このように、慰めの、歌を詠ませて、聞きたいものだ」と、決意を、持たれました。

「心や行きて」とあはれにおぼえて

つねよりもあはれにおぼゆ

心が通じて、あはれ、に、思う。
常よりも、あはれ、に、思う。

何事かに、感じる心の、様を、また、あはれ、という言葉に、置くのである。

心が通じて、嬉しいという、感情を、あはれ、とみる。
常よりも、あはれ、とは、いつもより、一層、感慨深いということである。

喜怒哀楽、そして、様々な心象風景が、あはれ、なのである。

心に感ずることの、すべてを、あはれ、で、表現する様を、何と、説明するのか。

この、あはれ、という、感覚を、いつから、日本人は、培ったのか。
再度、万葉集を、読むべきである。
心の、動きにある、本質的なものを、あはれ、と、表現するようになる、過程にある、日本人の精神の成長である。
漢語では、表現、し尽くせないものが、あった。
ひらがな、により、始めて、そのように、本質的な、心模様を、書き表すことが、出来たのである。それには、その発生過程がある。

天真爛漫な、万葉の人々の歌、言葉から、心を、捉えて、更に、推し進めると、その、表情の裏に、静かに、眠っていた、あはれ、という、翳りのような、感覚、心象風景である。

ようやく、一音に意味ある、日本語の、表現が、ひらがなによって、成ったといえる。

つまり、一音の意味が、あったといえる。
ただ、書き伝えなかったのである。
当たり前すぎて、書き伝える必要がなかった。

書かれたものがあるということは、書かれなかったものも、あるということである。
その、書かれなかったものを、探る行為を、学問という。

それでは、現在言われる、学問とは、書かれたものが、ある、ということが、前提である。

学問を、ものならう、と、読んだ。
ならう、とは、現在の、習うではない。
ならう、とは、思いを込めることなのである。

つまり、書かれなかったものを、思い詰めることである。
感受性である。

推論、想像、妄想を、超えて、探る行為である。
それは、日本人であれば、こそ、通じる心象風景である。

言葉というものの、心象風景である。

あはれ、とは、日本人の心の本質を、言う。
それは、一人の人間を、表現するのに、一言葉では、表せないように、あはれ、というものも、一言葉ではなく、様々な、形で、所作で、言葉で、現すものなのである。

万葉集から、源氏物語に、貫く道、そして、源氏物語から、現在にまで、貫く道、それが、もののあわれ、であるということ。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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