2008年04月06日

もののあわれについて195


うたがはじ なほ恨みじと 思ふとも 心に心 かなはざりけり

御返り


恨むらむ 心は絶ゆな かぎりなく 頼む君をぞ われもうたがふ

と聞こえてあるほどに、暮れぬればおはしましたり。宮「なほ人の言ふことのあれば、よもとは思ひながら聞こえしに、かかること言はれじとおぼさば、いざたまへかし」などのたまはせて、明けぬれば出でさせたまひぬ。



うたがはじ なほうらみじと おもふとも こころにこころ かなはざりけり

疑わない、恨まないと、思いつつ、なお、心に素直に、従えないのです。
心に心 かなはざりけり
心に心が、沿わないのである。

お返し


うらむらむ こころはたゆな かぎりなく たのむきみをぞ われもうふがふ

私のことを、恨む心は、絶えずにいてください。
私も、宮様のことを、頼りにしていますが、疑うことが、あるのですから。

と、申し上げます。
そのうちに、日も暮れてきました。
宮様は、お出でになられました。
「やはり、人は、あなたの噂を、あれこれ、申します。よもや、とは、思いましたが、お便りいたしました。このようなことを、言われたくないなら、さあ、早く、邸に、お出でください」などと、仰せになり、夜が明けますと、お帰りに、なられました。


現代でも男と、女の、噂話は、絶えない。
芸能人は、毎日、その噂話に、晒されている。

噂に、翻弄される者、噂を、超えて行く者。
男と女の、関係は、いつも、新しいのである。

性懲りも無く、続けて行くのであろう。

その、千年単位の、噂話が、この、物語である。
この、物語から、噂話は、抜け出ていないのである。

最新の、心理学では、人間の、自由意志というものは、無いという。
自由恋愛というが、実は、自由でも、我の意思でも無いというのである。

錯覚。
自由であるという、錯覚。
意志。
意志であるという、錯覚。

ヒトの雌は、子育てをする間、雄を、留めておくために、性的エネルギーを全開にする。
その前に、恋をする。
セックスである。
恋とは、セックスであった。

セックスを、恋という言葉で、曖昧にするほど、前頭葉が、発達した。

万葉時代は、女が、男に、名を名乗ると、それは、セックス承諾の、合図となった。

その、発情の、きっかけは、自由意志だと、思われていたが、ここに来て、自由意志ではないと、言われる。
それでは、何が、ヒトを、発情させるのか。

脳が、指令を、下す前に、すでに、手が動くという、実験を通して、脳ではない、何か、別のものが、指令を出していると、解ったのだ。

意志を、脳の働きだと、考えていた科学者は、まさか、と、呆然としたという。
意志の指令を、脳が、発していないとすると、指令は、どこから、出るのか。
人間の自由意志とは、何か。

次の、科学のテーマになるだろう。

さて、物語も、終わりに、近い。
いよいよ、宮様の、願いに、従い、宮廷入りする、和泉式部である。

簡単に言えば、宮廷に入り、宮様の、妾になるということである。
正妻ではない。妾、めかけ、つま、とも、読む。

恋愛の、手引きとしても、面白い、古典文学であった。

私は、もののあわれ、というものを、知る、べくして、この、物語を、読んだ。
日記全体に、もののあわれ、というものが、ある。

もののあわれ、というものは、こうして、表現されるということだ。

本居宣長が、源氏物語の、端々から、もののあわれ、の、様を、探し出した。
それも、一つの手である。
彼は、源氏物語の、価値は、もののあわれ、であると、言い切るのである。

だが、私は言う。
万葉集から、日本文学は、もののあわれ、というものに、貫かれていると。

書き表せないもの、もののあわれ、を、書くために、日本文学がある。それを、意識する、しないに、関わらずである。
というような、読み方も、あって、いいと、思う。

こんなもの、人間の、生き死ににあっては、お話である。

こんなもの、人間の、生き死にを、もののあわれ、として、観た、日本人を、私は、誇りに思う。

こんなものである。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 65

サム・ハリスが「キリスト教国への手紙」に載せている次のデーターは、相関を示す決定的な証明にはなっていないが、それにもかかわらず衝撃的である。

米国における党派関係は、宗教性の完璧な指標ではないが、「赤い(共和党の)州」はもっぱら保守的なキリスト教徒が圧倒的な政治的影響力をもっているおかげで赤いのである。もし、キリスト教保守主義と社会的健全性のあいだに強い相関があるならば、その何らかの徴候を赤い州のアメリカに見ることができると予想していいだろう。しかし見つからない。暴力犯罪の発生率がもっとも低い二十五州のうち、六十二パーセントは「青い」民主党の州にあり、三十八パーセントが「赤い」共和党の州にある。もっとも危険な二十五の都市のうち、七六パーセントは赤い州にあり、二十四パーセントは青い州にある。実際に、米国でもっとも危険な五つの都市のうちの三つは敬虔なテキサス州にある。押し込み強盗のもっとも高い発生率をもつ十二州はどれも赤である。窃盗の発生率がもっとも高い二十九州のうち二十四州が赤である。もっとも高い殺人の発生率をもつ二十二州のうちで十七州が赤である。

ドーキンス

「あなたが本気で、自分が善人であろうとつとめる唯一の理由が神の賛同と褒美を得ること、あるいは非難や罰を避けることだとおっしゃるのですか? そんなものは道徳ではなく、単なるご機嫌取りかゴマすりであり、空にある巨大な監視カメラを肩越しにうかがったり、あるいはあなたの頭のなかにあって、あなたのあらゆる動きを、あらゆる卑しい考えさえ監視している小さくて静かな盗聴器を気にしているだけのことじゃあないですか」

もしあなたが、神が不在であれば自分は「泥棒、強姦、殺人」を犯すだろうということに同意するのなら、あなたは自分が不道徳なことを暴露しているのであり、「それはいうことを聞いたから、私たちは、あなたのことを大きくよけて通らせていただく」。反対に、もしあなたが、たとえ神の監視のもとになくとも自分は善人でありつづけると認めるのであれば、私たちが善人であるためには神が必要だというあなたの主張は、致命的に突き崩されてしまったことになる。私は思うのだが、非常に多くの信仰心のある人間が、自らを善人たらしめるように衝き動かしているのが宗教だと本気で考えているのではないか。個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
以上、ドーキンス

ただ今、ドフトエフスキーの、新訳が出て、多く読まれているという。
読むことは、いいことだが、あれを理解することは、日本人には、やや不可能ではないのかと、思っている。

キリスト教的、神の存在というものを、知らなければ、理解するのは、難しい。
文学としては、非常に評価出来るが、罪と罰、カラマーゾフの兄弟に、代表されるように、神の存在という、忌まわしいものの中で、七転八倒しているような、人間を描いている。
要するに、妄想の神と、一人相撲をしている人間の、七転八倒を、読んでいるのである。

トルストイも、そうであるが、彼らは、神観念の中から、抜け出せないでいる。
それも、嘘の聖書を、母体にして、何やら考えているのてあるから、ご苦労さんである。

ロシアには、伝統というものがない。
極めて、悲しいことに、ロシア正教があるのみ。

ロシアほど、悲劇的な国はない。
帝国ロシア、そして、共産主義による、革命である。その中で、細々と、ロシア正教が、流れていた。それは、共に、領土拡大、つまり、侵略を、国是としてきた国である。それ以外のものは皆無である。

支配者のための国である。
市民の伝統など、生まれる訳が無い。

個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
と、ドーキンスは、言う。
すべての、宗教は、そうである。

神仏の名に置いて、信者を、脅し、透かし、支配する。
勿論、支配者は、悪行の限りを尽くすという、オマケである。

信者には、質素倹約を教え、献金、布施、寄付を、求めて、上層部は、たらふく食べて飲んで、更には、贅沢三昧である。

人に前では、修行者のような面をして、顔付きだけは、一人前、いや、三人前である。

偽善の、傲慢ぶりは、甚だしい。

本堂より、庫裏の方が立派な、寺院は多い。
仏の住まいより、僧侶の住まいの方が、立派だということである。

さて、宗教による、道徳は、実に、不健全である。
神仏の罰が当たると、平然として言う。

キーワードは、神仏の罰である。
無いものが、罰を下す訳が無いが、信じる者は、騙される。

道徳心とは、信仰に支えられるものではなく、人間の知性に支えられ、理性によって、行為される。
そして、感性によって、満たされるものである。
それが、真っ当な、道徳感覚である。

科学者である、ドーキンスは、実に、高尚な切り口で、それを、語る。

日本語の、道徳とは、特に至る道である。
その、徳を、儒教的、徳として、考えていた時期が、長い。
その、原点は、孔子の論語である。

孔子は、平面思想である。
神鬼を、語らずという、冷静さである。
それは、十分に、真っ当である。
しかし、日本にては、垂直思考により、それが、実行された。

簡単に言う。
孔子は、目に見える世界のみに、語る。
日本には、目に見えない、もののあわれ、という、情感がある。
カミの世界である。つまり、自然の核にある、恐れ多く、賢いもの。
畏れ多くも、畏くもである。
おそれおおくも、かしこくも。
畏れ、という、字は、畏敬である。

孔子の、徳は、日本にて、完成したといえる。

日本の道徳感情は、細々しく、相手のことを、思う行為にある。
その、根本は、もののあわれ、あはれ、という、感覚である。
つまり、極悪な、行為を犯す、罪意識というものではない。
ゆえに、罪を憎んで人を、憎まず、という、言葉が、出来たほどである。

人間は、罪を、犯すようなものではないという、根本的考え方があったのである。
もっと、言えば、欧米で言う、罪という意識はなかった。

日本で、ツミとは、恵みのものである。
海神、わだつみ、山神、やまつみ、とは、海の恵み、山の恵みである。
それを、カミと、称した。

これはついては、まだまだ、説明が必要である。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月07日

神仏は妄想である 66

私たちが道徳的であるために神を必要とするということが、たとえ真実であったとしても、それで神が存在する可能性がより高くなるわけではなく、単に望ましくなるだけのことにすぎない( 多くの人はこの違いがわからない) 。しかし、それはここで論じる問題ではない。私の想像上の宗教擁護者は、神様へのゴマすりが善行をおこなうための宗教的動機であることを認める必要をまったく感じなていないようである。むしろ彼の主張は、善人であることへの動機がどこから来るにせよ、神なしでは、何が善であるかを判断する基準が存在しないだろうということだ。私たちはそれぞれが善についての自分の判断をつくり、それに従って行動することができる。宗教のみにもとづく道徳原理( たとえば「黄金律」「あなたが人にしてもらいたいと思うようなことを人にもしてあげなさい」というように説く宗教上の教え) のように、しばしば宗教と結び付けられるが、ほかからも由来しうる原理に対立するものとして) は、絶対論的であるということができよう。善は善、悪は悪であり、特定の場合に、たとえば誰かが苦しむかどうかによって、判断に手間取ったりはしない。私の想像上の宗教擁護者ならば、宗教だけが、何か善であるかの根拠を提出することができると主張するだろ。
ドーキンス

哲学者は、神ではなく、人間の義務としての、道徳を考えた。
例えば、カントである。
「普遍的な法則となるべきことをあなた自身が同時に望むことができるような格率(基準)に従ってのみ行動せよ」

ところが、ドーキンスは、これにも、誤りがあると言う。

更に、読み進めると、宗教、特に、旧約聖書に基づく、道徳観念についての、検証は、見事である。
全く、道徳などない、逆に、人間の悪の様を見せ付ける、聖書の悪行、つまり、聖書の神の悪行を、炙り出すという。

一部の哲学者、とりわけカントは、非宗教的な源泉から絶対的道徳を導こうと試みた。彼自身は、その時代の人間にはほとんど避けがたいこととして、宗教的な人間であったが、道徳の根拠を、神のための義務ではなく義務のための義務に求めようと試みた。かれの有名な至上命令(定言命法)は、私たちに「普遍的な法則となるべきことをあなた自身が同時に望むことができるような格率(基準)にしたがってのみ行動せよ」と命じる。これは、たとえば嘘をつくという例についてはみごとにうまくいく。嘘をつくのが善いことで、しかも道徳的なことだとされていて、原則的に嘘をつくような人々から成る世界というものを想像してみてほしい。もしそのような世界があれば、嘘をつくことそのものが無意味になるだろう。嘘は、まさにその定義のゆえに、真実を仮定する必要がある。もし道徳的な原理というものが、すべての人間がそれに従うとみなしてよいものであれば、嘘をつくことは道徳上の原理になりえない。なぜなら、この原理そのものが意味を失い、機能しなくなるからである。
ドーキンス

カントも、キリスト教の、神絶対主義から、逃れられなかったといえる。
普遍的という言葉自体に、神観念が、まとわりつくのである。

義務のための義務という言葉も、おかしい。
義務を、宗教的絶対主義と、置き換えれば、宗教と、なんら変わらないのである。

すべての絶対論が宗教に由来するわけではない。にもかかわらず、絶対論的な道徳が正当であると弁護したいなら、宗教的なもの以外に根拠を見いだすのはかなりむずかしい。・・・ドーキンス

日本の場合は、儒教が、最も道徳に対する観念となったが、それ以前を、みると、人の道ということで、おのずからなるもの、おのずから発するものと、なっている。
それは、自然を観て、自然の有様から、学んだ、生き方の方法である。
道徳は、自然から、自然発生的に、起こったものである。

仁義礼知忠信孝悌とは、人倫の道の、順番だった。
しかし、それは、儒教の言葉の世界である。

日本人には、それ以前に、自然の様から、たゆたう、という心的状態にある、思いに、人の道の有り様を学んだ。
つまり、絶対というもののない、状態である。
絶対という状態に陥ると、それを、穢れとして、清め祓いをしたのである。

いつも、事は、流れている、動いている。
ある場面では、善いことだが、違う場面では、悪しきことである。
臨機応変に、対応するという、たゆたう、心の状態を、善しとした。

そして、それの基準というものを、もののあわれ、というものに置いたゆえに、定義も、無い。言葉で、明確にすることもなかった。
ここが、欧米の思想との、最大の相違である。

倫理学者たちは、善悪について考えるということにかけては、プロである。ロバート・ハイドンが簡潔に述べているように、「道徳的教えは、かならずしも理性によって構築されているわけではないが、理性によって弁護できる」ということで、彼らのあいだの意見は一致している。彼らは自らをさまざまなやり方で分類するが、現代用語では、大別して「義務論者」(カントのような)と「帰結主義者」(ジェレミー・ベンサムのような「功利主義者」を含む)の二派があるようだ。義務論というのは、道徳が規則に従うことから構成されるとていう信念につけられた名である。それは文字通りには義務の科学という意味で、「縛りつけられたもの」を意味するギリシャ語に由来する。義務論は道徳絶対論とまったく同じものではないが、宗教について書かれた本では、その目的からしては、この区別にこだわる必要はほとんどない。それに対して、絶対的な善と悪、その正さが結果とまったくかかわりがない命令(義務)が存在すると考えるのが絶対論者だ。帰結主義は、より現実主義的に、一つの行為の道徳的性はその結果によって判断されるべきだと考える。帰結主義のバリエーションの一つが、ベンサム、彼の友人のジェヘムズ・ミル、およびその息子のジョン・スチュワート・ミルらが説いた功利主義である。功利主義はしばしば、「最大多数の最大幸福が道徳と法の基礎である」という、ベンサムの残念ながら不正確なキャッチフレーズに要約される。
ドーキンス


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2008年04月09日

神仏は妄想である 67

神仏は妄想である、を、書いている。

イージス艦と、衝突した、清徳丸の、親子の捜索が、打ち切られて、つまり、親子は、海を漂流しているということである。

防衛省は、大量の人員を、罰したというが、そんなものは、どうでもいい。

二人の親子が、海に漂流していることを、言う。

私の、故郷は、北海道の、漁村である。
漁師の生き方を、見て育った。
海は、恵みの海であり、命を落とす、危険な海でもあった。
特に、冬の海は、命懸けである。
こうした、漁師の漁によって、食生活が、出来る。

生長の家の、初代総裁の書くものに、突然の死、大量の死に対して、それを、浄化と言うのである。
すでに、使命を終わり、速やかに、霊界入りすべくの、神の計らいという。
戦争の死もそうである。
原爆の死も、そうである。
しかし、実に、矛盾していることも書く。
何とでも、書ける。

突然の急激なる打撃(例えば不慮の災禍)で肉体が死に、霊界へ移転する霊魂は、急激に、その人の霊魂が今までの業を離脱して急速に浄化向上するための摂理です。地球の一周期の終わりに世界的な大戦争や、大々的な天変地異などで多数の人類が大量死滅することもあるのも、地球の一周期の終わりには、地球上の人類のうちの或る周期に他の天体から移動して来た霊魂の総決算期が近づいているので、浄化すべき霊は、速やかに浄化して置かなければならないからであります。

上記、全く、主観である。客観的なものは、一つも無い。
そして、旧約聖書、新約聖書、多くの仏典等々を、持って、それらを、証明するという、驚きである。
それらが、嘘八百の書き物だとは、知らないとは、正に驚きである。

この人の、書物は、多くの人の、気の病などを軽くしたが、あまりの、誇大妄想に、愕然とするのである。

突然の災禍で肉体が死に、霊魂が肉体を抜け出す時には、急に大急ぎでその家から住む人が何物もとりあえずに飛び出すのと同じように、その人の霊魂は自分の身についた業を持たずに、謂わば丸裸で肉体を飛び出すので、その人の業が速やかに潔められるので、その人の霊魂にとって寧ろ祝福さるべきことなのです。

それを、そのまま、信じれば、ある特定の人は、安心するのであろう。

この人が、物を書く時を、霊視したという信者は、その背後に、神のごとき、霊人が、立っていたという。
つまり、その霊人の、情報である。

人間は”神の像”に創造されたと「創世記」にある通り、その実相は完全であり、「全て善し」と神によって宣言せられ、全てを支配する権能を与えられているのだけれども、その完全なる神の像の上に、もっとも、素晴らしい先生の油絵の上に、弟子が再び絵具を塗って拙い絵を描いたために、先生の折角立派に描いた絵が覆い隠されてしまっているのと同じように、神の真創造なる世界が、人間の迷妄心によって覆い隠されてしまっているのである。このことを「創世記」第二章には、「霧たちのぼりて・・・」という風に書かれている。迷いの霧を晴らしてしまわなければ実相の完全な相を見ることはできないのである。

創世記の、神が、如何なるものであるかを、知らないようである。

創世記にある通りと、聖書を根拠にするのである。

あらゆる、経典を、使用し、混濁した、考え方を、述べる。
果たして、それが、本当なのか、嘘なのか。なんとも、判断できないのである。
更に、交霊術による、証拠を、持ち出すのである。

人のことならば、何とでも言える。
私は、イージス艦と、衝突して、未だに、海を漂うであろう、二人の親子の、死を悲しむ者である。
私の、親兄弟だと思うと、悲しみは、更に深い。

悲しみを、軽減するために、方便として、教えるというなら、少しは、理解する。

それは決して神罰ではなく愛ふかき神の摂理です。魂の発達の傾向があまりに方法が外れているときは、不慮の災禍で肉体が死に、魂がとるものも取り合えず「肉の宮」を飛び出すために、今までの業(即ち心の習慣性)を霊界へもって出るひまが無く魂が浄められるように摂理の手が導いているのです。

随分と、都合の良い、話である。
仏教の業について、様々に、論じるのだが、ここにきて、いきなり、神の摂理によって、業を、霊界にもって出るひまがなく、という。

こうして、手品のような、論述を、繰り返すのである。
つまり、何とでも、言えるということである。

ところが、信者は、騙されるから、病が消えたと、大声で、喧伝するという、有様。

治らなかった、病が、癒えるという、宣伝は、多くの人を動かす。
魔法のようであるが、心理学である。

霊学から、言えば、その教団の背後霊団である。

さて、私は、清徳丸の、親子の、冥福を祈る。
すでに、亡くなっている。
この時期の海で、生存するのは、無理である。

因縁による、業を、神の摂理で、無きものにするなど、有り得ない。
一体、何を根拠にしているのか。
単なる、主観であり、一切の、客観性は、無い。

信じることである。
信じることで、救われるという、ご存知、宗教の、手口である。

信じるという、妄想に身を入れて、病が癒えても、問題の解決には、ならない。

催眠術の、一時的な効果である。
それが、来世に、持ち込まれることを、何故言わないのか。

あちらの、物には、こう書かれている。こちらの、物には、こう書かれてある。だから、こうである。
その、書かれた物が、妄想のものであれば、どうする。

実に、書かれた物は、妄想である。

仏陀も、イエスも、書き物を、一つも、残さなかった。
お解りか。
何故、書き物を、残さないか。
このような、者が、大勢出て、書き物を、根拠に、あること、無いことを、喧伝するからである。

更に、後々に、書き続けることにする。

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2008年04月10日

神仏は妄想である 68

すべての絶対論が宗教に由来するわけではない。にもかかわらず、絶対論的な道徳が正当であると弁護したいなら、宗教的なもの以外に根拠を見いだすのはかなりむずかしい。私が思いつくことができる唯一の対抗馬は愛国心、とくに戦時における愛国心である。スペインの高名な映画監督であるルイス・ブニュエルは、「神と国は無敵のチームだ。抑圧と虐殺のあらゆる記録が、彼らによって破られる」と言った。徴兵制は、狙いをつけた若者の愛国的義務感に強く訴える。
ドーキンス

私は、戦争犠牲者の、追悼慰霊を、始めてから、それを、とみに考えるようになった。
愛国心というものである。
それは、状況によっては、絶対的なものになる。

敗戦で、終わった太平洋戦争の時には、とんでもない、愛国心が、国民に伝播した。勿論、軍部と、大本営の、喧伝である。

現人神と、天皇を、祭り上げて、若者を、戦場に送り出し、果ては、特攻として、死ぬことを命じたのである。
絶対主義である。

もし、本当に、天皇を、奉じていたならば、また、国民が天皇の子であるというならば、国民を、もっと、大切に扱ったであろう。

アメリカの、ブッシュは、イラクで、どれだけの若者の、命を、捨てたか。
あれは、愛国心か。
キリスト教原理主義と、その、愛の思想等々、すべてに、矛盾する様、それは、病気というしかない。

愛国心が、絶対主義に陥る時、それは、宗教の絶対主義と、変わらなくなる。
私は、愛国心の、教育は、必要だと思うが、絶対主義の愛国心は、病であるとみるから、漢語での、愛国心ではなく、国を愛する心としての、大和言葉にある、国を思うことの、情操教育を言う。
しかし、これだけでは、説明不十分である。
いずれ、書く。

人々は良心的徴兵拒否を、たとえ敵国の人間であっても軽蔑した。なぜなら、愛国心は絶対的な美徳であるとみなされていたからである。将来いつの日かあなたが敵と呼ぶことを選ぶかもしれない政治家を誰であっても殺すことに加担させるスローガンとして、職業軍人の「善かろうが悪かろうがわが祖国」よりも絶対的なものを探すのはむずかしい。帰結主義者の推論は戦争に向かう政治的決断には影響を与えるかもしれないが、ひとたび戦争が宣言されると、絶対論的な愛国心が、宗教以外では見られないような暴力と権力をもって、すべてを支配する。
ドーキンス

宗教以外では、見られないと、トーキンスは言う。

しかし、その、戦争は、何によって起こるのかという時、そこに、宗教の匂い、あるいは、宗教の浄化という、命題がある。
民族浄化は、宗教浄化の、別名である。
特に、欧米の戦争は、宗教戦争であった。勿論、アラブもである。

絶対主義の、宗教と、絶対主義の愛国心との、相乗効果抜群の、絶対主義である。
ホント、やってられないのである。

倫理学に関する本章の議論のたたき台は、神がなければ道徳は相対的で恣意的なものになってしまうという、宗教の側から出されることを想定した、仮想上の主張であった。カントやその他の倫理学者は別にして、また愛国的情熱をしかるべく評価した上で、絶対論的な道徳をよしとする素地をつくるのはふつう、歴史が正当化できる限度をはるかに超える権威をもつと考えられている、いわば聖典の類である。実際、聖典の権威の信奉者は、彼らの聖典の(ふつうはきわめて疑わしい)歴史的な起源について、悲しくなるほどわずかな好奇心しか示さない。
ドーキンス

聖典の、信奉者は、無知蒙昧であるということである。
その証拠に、ドーキンスは、旧約聖書を、徹底的に、検証するのである。

実際、私も、長年、旧約聖書を、読み続けてきたが、改めて、その、偏狭さに、気付かされた。
洗脳によって、聖書の神に対する、絶対服従を、強いられていたのである。

何故、疑問を、持たずに、聖書という、権威に、従っていたのか、よく解らないのである。
要するに、信じてしまえば、簡単さ、ということである。
兎に角、信じ込んでしまえば、簡単なのである。

ステンドグラスの、教会の聖堂で、祈ることが、兎も角、心地よいのである。つまり、ムードの信仰である。
そこで、聖人ぶった、偽善者である、司祭や、牧師から、説教されて、何やら、その気になって、神を仰ぐという、偽善に気付かない、偽善である。

主よ、
今日、ここに、集まれる、あなたを求める人々の祈りを、
聞き入れたまえ。
あなたの、愛の光に、包まれて、私たちは、明日も、よりよく生きられますように。
主よ。
更に、本日、ここに、来られなかった多くの、罪人、迷える人にも、光を、お与えください。
一時も、早く、罪人なる人々が、悔い改めて、あなたの愛を受け入れますように。

と、いう具合に、何とでも、言えるというのが、特徴である。
延々と、ゴタゴタと、祈りの言葉を、続けることが出来る。
常日頃使用する、話し言葉での、祈りであるから、延々と、愚痴のように、続けることが出来る。

初めて、古神道の、祈りを、知り、言挙げせずという、祈りを、知った。
言の葉である。
口にだして言うことは、成る、というものであり、多くを語ることを、戒めるものである。

偏狭な、宗教や、行者と言われる者の、祈りではない。
日を拝する。
太陽を拝する。
そして、黙祷である。

日本人は、所作の中に、祈りを、取り入れた民族である。
作法の中に、祈りを、取り入れた民族である。

私は、しないが、食事の前に、手を合わせて、「いただきます」と言う。
宗教信者が、神仏に、祈りを、捧げるという、偽善ではない。
「いただきます」と、言葉にすることが、祈りになるのである。
更に、食事後は、「ごちそうさまでした」という。
所作の中に、祈りがある。

グッバイ、とは、神と共に、である。
さようなら、とは、左様である。そのようである、という意味であり、別れというものを、そのあるようにと、言う。
それは、徹底した、実存である。

神の朝、神の昼、神の夜。
すべて、妄想の神の名を語る語源とは、全く違う。

お早う、今日は、今晩は。
すべて、実存である。
以下省略。

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2008年04月11日

神仏は妄想である 69

聖書が道徳ないし生き方のルールに関する典拠となる道筋は二つ考えられる。一つは、たとえば十戒を通して、直接に指令することによってで、アメリカの後進地域で繰り広げられる文化戦争において、きわめて激しい争いの主題である。もう一つは、お手本として、すなわち、神あるいは聖書に出てくる誰か他の人物がーーー現代風の業界用語を使えばーーー役割モデルをつとめるのである。この聖書を生き方の指針とする二つの「道」を、もし宗教的に(この副詞は、比喩的な意味で用いられているが、その起源を視野に入れている)たどっていくならばどちらも、宗教を信じているかいないかを問わず文明化されたあらゆる現代人が、醜悪―――これ以上に穏当な言い方を私はできないーーーと感じるような道徳体系を推奨することになるだろう。
ドーキンス

さて、そこで、キリスト教では、聖書を、どのように、捉えるか。
1965年11月18日のバチカン公会議で可決承認された「神の啓示に関する教義憲章」11章でこういっている。

聖書に含まれ、かつ示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものである。・・・
神は、聖書の著作にあたって、固有の能力と素質をもった人間を選んで、これを使用した。それは神が彼らの内に、また彼らによって働く間に、彼らは、神が臨むことをすべて、そしてそれだけを、真の作者として書くためである。・・・したがって、聖書は、神がわれわれの救いのために書かれることを望んだ真理を堅く、忠実に、誤りなく教えるものと言わなければならない。

まず、誰が、可決承認すれば、それが、正しくなるのだろうか。
神の言葉を、可決承認するという、傲慢であろうが、気付かない。

そして、憲章の言葉にある、聖霊の霊感によって・・・カトリックは、それらを、悪魔の仕業として、承認したではないのか。
聖霊の、云々を、誰が、承認するのであるのか。
聖霊の仕業であると、承認するという、傲慢である。

宗教家というものは、勝手な解釈の、大好きなものであるから、何とでも言う。
これに、解説として、日本の司祭が、付け加える。

人はただ神のオルガノン(道具)となって、神のみことばを聖霊の導きのままに文字で表現し、それを編集したにすぎません。霊感とは、神がまず編集者の心を動かして執筆の意欲を起こさせ、次に編者の知覚や心や知恵を照らして、ご自分が伝えようとお望みになることを知らせ、最後にこれを忠実に書きとめさせ、書いているうちにまちがわないように絶えず筆の動きを導いたという一種のインスピレーションであります。

上記、支離滅裂なものである。

要するに、信じなさいと、言うのである。
信じてしまえば、それで、よし。

何とでも言える、典型である。

更に、本当に旧約聖書を、読んでいるのかと、思わせる、記述である。

また慈悲深い神は、全人類の救いを切に望んで、これを計画かつ準備し、アブラハムやモイゼを通して神の民と契約を結び、ことばとわざをもって、ご自分を啓示し、人びとを約束の地に導き、保護したのです。

慈悲深い神。
聖書の神は、全く、慈悲深くない。
全人類の救いとは、何か。
約束の地に、導きというが、未だに、そんなことは、無い。

完璧に、頭を、やられている。
架空の、お話より、悪いのである。
妄想。
信じ込むと、このように、無明になる。

すべての、宗教に言えるのである。
例えば、日本、仏教の、お話。
極楽に、いらっしゃる、お釈迦様。
霊界に、極楽などないのである。
適当に、言うのである。

言う、自分たちも、よく解らない、地獄、極楽を、説教して、成仏するかしないか、解らないが、信者には、成仏を、解くのである。

更に、悪いことは、開祖を、拝む。
開祖が、霊界の、どこにいるかを、知らず、拝むという、愚行である。

もっと悪いことは、何一つ、根拠がない。
経典に書かれてあるとの、一点のみ。その、経典さえ、真面目に、読んでいないという、仰天である。
そして、経典が、嘘であることを、知らない。

ここでも、要するに、信じてしまえば、よし、なのである。

馬鹿は、死んでも、治らない、とは、本当である。
死んでも、馬鹿のままである。

ご苦労なことに、このようにまで、書く。

なお聖書の宇宙創造は科学的にどうか、聖書の内容は現実性があるのかどうか、いろいろ問題があるでしょうが、とにかく聖書は、聖パウロもいうように「われわれの教訓のために書かれた」ものですから、聖書の中に救いに関する神のご計画を読み取り、宗教的な教訓をわが身にあてはめ、実行にうつすように努力しなければなりません。

そんなことを、しては、いつも、人を殺していなければならないのである。と、知らない。
本当に、聖書を、読んでいるのであろうかと、疑う。

要するに、信じてしまいなさい、ということである。

とにかく聖書は、聖パウロもいうように・・・
どうして、ここで、聖パウロが、出るのか。
パウロが、正しいのか。何故、パウロが、正しいのか。

カトリック教義は、イエスの、教義ではなく、パウロの教義である。
強迫的、キリスト教を、作り上げた人物が、パウロである。
要するに、彼の好みを、教義にしたのである。

問題があるでしょうが、と、言うが、それが、もっとも、問題であろう。

こういうのを、薄ら馬鹿という。

宗教とは、皆々、そのようである。
日本仏教の、お話は、妄想、想像を、更に、飛躍させて、支離滅裂である。
更に、言うことと、やることが、全く違う。
一々例を上げないが、僧たちを、見ていれば、よく解る。

本人も、解っていないことを言うから、どうしようもない。
聖書が、終われば、それらを、徹底検証することにする。

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2008年04月12日

神仏は妄想である 70

公正のために言えば、聖書に書かれたことのほとんどが首尾一貫して悪いものだ、というわけではない。しかし、私たちには縁がなく、お互い同士も交流のない何百人という無名の著者、編集者、書写生によって九世紀にわたって編纂、改訂、翻訳、歪曲および「改善」されてきた支離滅裂な文書を、雑然と寄せ集めてこしらえ上げた集成であることから予想される通り、聖書は奇妙としか形容のしようがない書物なのである。こうした来歴を考え合わせればたしかに、聖書の純然たる奇妙さのいくつかは説明できるかもしれない。しかし遺憾なことに、熱狂的な宗教信者が私たちの道徳と生き方のルールにかんするまちがいのない典拠として掲げるのが、この同じ奇妙な書物なのだ。
ドーキンス

ところが、カトリック司祭の、書くことは、以下の通り。

キリスト教と他宗教との著しい相違点は、聖書が神の啓示であるという点にあります。人間の知恵では、はかり知れない神の奥義の一部分、すなわち神のみ心の感じ方、神の考え方、行動の仕方などが聖書を通して人間に明らかに示されたのです。

勝手な解釈、勝手な想像であることは、間違いなし。
コーラン、仏典は、それでは、何かということになる。
皆、それぞれが、勝手な解釈、勝手な妄想で、何やら言う。

他宗教との著しい相違点は・・・
とんでもない、誇大妄想である。

他の、経典は、神のものではない。
当然である。
聖書の神は、キリスト教、中でも、カトリックのみに、与えられたと、解釈する、支離滅裂である。

彼は、聖書の民は、教会であると言う。
つまり、教会が、神に選ばれた、民であるというのである。

こうして、自己催眠、自己陶酔して、どっぷりと、妄想に漬かり、更に、人に、それを、説くという、傲慢である。

彼らが、神というモノ、どんな、モノなのかを、聖書を検証してみる。
案内は、ドーキンスである。
まず「創世記」の非常に好まれているノアの物語から始めよう。この話はバビロニアのウトナピシュチィム神話に由来し、いくつかのさらに古い神話でも知られている。動物が二頭ずつ箱舟に乗せられるという伝説は魅力的だが、ノアの物語に込められた教訓は唖然とさせられるものだ。神は人間をあまりよく思っておらず、そこで(一家族だけを例外にして)子供を含めた多数の人間を溺死させた、というのだから。
ドーキンス

いずれにせよ、学識ある神学者の善意にもかかわらず、驚くほど多くの人間がいまでもなお、ノアの物語を含めて聖書を文字通りに受け取っている。・・・
また、2004年のスマトラ沖地震による津波が、地殻プレート運動のせいではなく、バーで酒を飲んだりダンスをしたりしたことから馬鹿げた安息日の規則を破ることにまでいたる人類の罪のせいだと非難したアジアの聖職者たちの多くも、そうであるのは疑いない。ノアの物語が頭に染み付き、聖書以外の知識をまったく知らなければ、誰が彼らを非難できよう? 彼らの受けた教育全体が、自然災害を、プレートテクトニクスのような非人格的なものよりもむしろ、人間界の出来事と密接に結びついたもの、たとえば人間の品行不良の報いとみなすように仕向けられてきたのである。

更に、続けて

ついでながら、神(あるいは地殻プレート) が起こすような規模で地球を揺すぶるような出来事が、つねに人間と結びついていなければならないと信じるというのは、なんという思い上がった自己中心性だろう。創造と未来のことを気にかけている神が、なぜ、ちっぽけな人間の不品行などという些細なことを心配しなければならないのだ? 私たちは、人間だからこそ、たとえ宇宙的な意義のレベルではないほんの小さな「罪」でしかなくとも、そんなに大袈裟にもったいぶるのだ !


2005年の、カトリーナ台風の時に、ニューオリンズの町が、洪水によって、壊滅的な被害を、受けた。
アメリカで、もっとも、有名な、テレビ伝道師パット・ロバートソン牧師は、この台風を、たまたま、ニューオリンズに住んでいた、レズビアンの、コメディアンのせいだと、非難したという。

この程度の、頭の持ち主が、有名牧師である。

無知蒙昧を、曝け出すが、知らないものは、知るはずがない。
こういう者を、聖書原理主義という。
要するに、聖書しか、知らない。他の、知識と、教養は、何も無い。

更に、驚きは、こういう者が、多くの人に対して、説教を、繰り返しているという、事実である。

そして、更に、驚きは、神に代わって、人を、裁くのである。
何ゆえ、そのような、傲慢な、思い上がりを、持てるのか。
神の側にいるという、妄想である。

寄せ集めの、聖書が、神のお考えであり、教えであるという、神経は、ただ事ではない。

更に、聖霊とまで、言う。
聖霊に導かれた、霊感によると。
霊感を、悪魔のものだと言うのは、誰か。
教会であろう。
しかし、教会の中での、霊感は、聖霊なのである。

私の霊学から、言う。
聖霊の霊感は、魔界の霊の仕業である。
と、こういう、私も、妄想のもの、更に、彼らからは、悪魔のものと、言われる。

ゆえに、私は、霊感という言葉を、使用しないようにした。
感受性という言葉に、置き直す。

支離滅裂な、お話を、神のものであるという、根性は、正に、魔のものであろうが、それを、知ることはない。
信じると、完璧に騙される。
更に、強迫的に、信じる行為に、没頭する。

知性を、持たない、信仰、感性を、磨くこと無い、信仰、そして、理性の行為を、捨てる信仰である。

人間の、すべての、資質を、神という、妄想に、明け渡すのである。
人間の、尊厳とは、何か。
人間性とは、何か。

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2008年04月13日

神仏は妄想である 71

私は二度と人ゆえに大地を呪わない。人の心は若いときから悪に傾いているからである。私は、もう二度とすべての生き物を滅ぼすようなことはしない。地のあるかぎり種まき時と取り入れ時、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜は、やまないであろうろ。

ノアの洪水の後に、神が、彼らに言う言葉である。

大地は、自分が作ったものである。
更に、人は若いときから悪に傾くと、言う。
これが、罪の意識である。

そして、神は、ノアと、その息子たちを祝福して、言う。

生めよ、増えよ、地に満ちよ。野のすべての獣、空のすべての鳥は、地をはうすべてのものと海のすべての魚とともに、おまえたちを恐れおののくだろう。これらはおまえたちの手に渡される。

これが、自然支配の、根拠となる。

自然を支配するという、傲慢は、ここから、きている。

ちなみに、日本の伝統である、自然との、共感、共生という、考え方は、全く、見当たらない。

食べ物、それ自体に感謝する、日本民族と、神に感謝する民族の、大きな違いが、ここにある。

さて、創世記を、ドーキンスと、読んでゆく。

ノアの箱舟に匹敵する大事件といえる、ソドムとゴモラの破壊において、格別に正義漢だという理由で選ばれて家族ともども許されたのが、アブラハムの甥ロトであった。二人の男の使いがソドムに遣わされ、ロトに向かって地獄の業火がやってくるまえに町を出るように警告した。
ドーキンス

ソドムと、ゴモラは、有名な、悪の、罪の人々の、町と言われる。
特に、同性愛に関しての、差別は、ここから、強く始まった。
ソドミーといえば、同性愛者のことを言った。
不品行の町である。

ロトは使いを家に招き入れもてなしたが、ソドムじゅうの男がまわりに集まり、使いの者を強姦してやるから(ソドムだけに当然か?) その男をさしだせ、とロトに迫った。「今夜おまえのところにきた男たちはどこにいるのか? そいつらをここに出せ。われわれはその者を知ることになるだろう」そうなのだ。「知る」というのは欽定訳聖書でいつも使われる歪曲な意味(性交する)をもっており、この文脈では非常に可笑しいものである。ロトがこの要求をはねつける勇気をもっていたことから考えて、彼がソドムでただ一人の善人として神によって選び出されたとき、神は何か知るところがあったのかもしれない。しかし、ロトの勇敢さは彼が要求をはねつけるときにつけた条件で色あせてしまう。
ドーキンス

少しの説明が、必要である。
旧約聖書の、女性観である。
実に、仰天するような、女性観が、至るところに、表れる。

そして、ドーキンスとは、別の見方から、私は、同性愛について言う。
古代、同性愛は、ギリシャのみならず、実に、神聖な行為の、一つであった。
残されている、絵画でも、古代エジプト時代の、男性の交わりが、描かれる。

メソポタミア文明の、担い手も、同性愛者による。
しかし、それで、同性愛者が、優秀だと、誤解されては困る。

まだ、男女に、関する、意識の未分化だった頃の、男女の関係というものを、冷静に、検証して欲しい。
男女は、別物だったのだ。

未開部族では、少年が、一人前の男になるために、年長の男と、一時的に、愛情関係、つまり、性交の関係を持つという、風習がある。
極端なことを、言えば、年長の男の精液を、飲むことで、一人前の男になると、考えた。
それを、野蛮とか、無知とか、言えるものではない。

人類は、試行錯誤を、繰り返して、現在の男女関係をも、築いてきたのである。

アフリカの、一部では、大地と、男が性交して、豊穣を祈るという行為もあった。
大地に、精液を、蒔くのである。

それらに関して、善い悪いという判断は、出来ない。

さて、ロトの話である。

「どうかみなさん、乱暴なことはしないでください。実は私には、まだ男を知らない二人の娘がおります。あなたがたに娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから」

聖書の、女性蔑視の、甚だしいことを、ここで、知る。
このような、記述が多く、真っ当に聖書を、読むと、とんでもない、女性差別を生むのである。

女は、子供を産むための、家畜同然の存在であり、当然、真っ当な感覚での、交わりは、同性愛の行為にあると、考えられるのである。
考えられたと、いってもよい。

現代感覚では、計り知れない、古代感覚である。

この奇妙な物語がほかにどんな意味をもつにせよ、聖書に描かれた著しく宗教的な文化において、女性に払われる敬意について何ごとかも語っていることは確かである。結局のところ、ロトの娘の処女を安売りする必要はなかった。というのは、使いの二人は奇跡の力で打ち据えて男たちの眼をつぶし、襲撃者たちを撃退することに成功したからである。
ドーキンス

旧約聖書の、女性蔑視を、徹底させているのが、イスラムである。
これで、イスラム圏の、女性たちの、置かれている立場を、理解できる。

女は、家畜と、同じであるから、何人持っても、いいのである。
そして、同性愛は、神が嫌うゆえに、徹底的に、差別し、殺すのである。

ドーキンスは、また、

この、ロトとソドムの人々の物語は、「士師記」第九章において奇妙な形で再現されることになる。こちらの物語では、名の無いレビ人が側女(妾)と一緒にギブアに向かって旅をしている。彼らは親切な老人の家出一夜を過ごした。彼らが夕食を食べているとき、町の人々がやってきて家の戸を叩き、老人にその男の客を渡すことを要求した。「そうすれば、われわれがその者を知るであろう」。老人は、ロトと同じ言葉でいう。「兄弟たちよ、それはいけない。悪いことをしないでください。・・・ここに処女であるわたしの娘と、あの人の側女がいる。この二人を連れ出すから、辱め、思い通りにするがよい。だがあの人には非道なふるまいをしてはならない」。ここでまたしても、女性蔑視的な精神が声高に、明瞭に表明されている。
ドーキンス

何故、男には、相当な敬意を、払えというのか。
聖書で、人を言うときは、男のことである。
人とは、マンなのである。

レビ人は、側女を、差し出し、結果、側女は、強姦され、死ぬ。
更に、レビ人は、実に冷酷に、女を、十二に切り離して、イスラエルの全土に送るという。

寛容の心をもって言うが、これもまた、聖書のいたるところに見せれる奇妙な記述の一つなのだ。この物語はロトの物語とあまりに似ているので、写本のある断片が事故によって、どこかの久しく忘れられてい写字室で、場所をまちがえられてしまったのではないかという疑いを禁じえない。聖典の来歴に一貫性が見られないことの例証である。
ドーキンス

一貫性が、見られないが、最初に男を、要求する。そして、男には敬意を、払い、女を、差し出し、女は、強姦されて死ぬ。
更に、男たちは、男を、知るというのである。
同性愛行為を、求めるが、それが、叶わず、女を殺すほど、犯すという。
何か、ここに、重大な問題と、秘密が隠されてある。

私は、当時、神が嫌いな、男性同性愛行為が、通常にあり、女性に対しては、驚くほどの、蔑視があったと、考える。
これ以上書くと、論旨が、変わるので、省略する。

ドーキンスは、明確な、女性蔑視と、聖書に、一貫性が見られないことを言う。
つまり、聖書は、神からのものではなく、人間ものであり、それも、大きな誤りのあるものであるということだ。
奇妙な物語という言葉は、そのまま、奇妙と、受け取っていい。

簡単に言えば、何故、これが、聖典なのであるのか、ということだ。

しかし、驚くべきことは、これからである。

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2008年04月14日

神仏は妄想である 72

ロトの二人の娘は、この物語で少しだけ再登場する。母親が塩の柱に変えられてしまったあと、二人の娘は山に登って洞穴で父親と一緒に暮らしていた。男に飢えた娘たちは、父親を酔わせて、彼と交接することを決めた。ロトは、姉妹が彼の寝床に入ってくるのも出ていくのにもまったく気付かなかったが、妊娠させることができないほど酔っ払っていたわけではなかった。次の夜、二人の娘は、次は妹の番であることで意見が一致した。今度もまたロトは酔っ払っていて気付かなかったが、妹も妊娠させた。もしこの異常な家族が、徳の手本として選び出しうる最良のソドム人であったとすれば、神と彼がソドムの町に与えた天罰の業火にある種の共感を抱きはじめる人がいるかもしれない。
ドーキンス

母親が、塩の柱になったのは、ソドムから逃げる時に、後ろを振り返るなという、命令に、背いたからである。
それで、主なる神は、彼女を、塩の柱にしたという。
一体、何故。
女だったから ?

後で、出てくるが、女は、異教徒の女でも、いいのである。
処女であれば、生かして、子供を産ませる。
家畜同然であるからだ。

しかし、女は、異教徒の男と、寝るくらいなら、近親相姦をするのである。

だが、

道徳上の正しさに関する霊感源として聖書を引き合いに出す人は、そこに実際に何が書かれていることを少しでも考えたことがあるのだろうか? 「レビ記」第20章によれば、次のような罪を犯したものは死刑に値する。すなわち、両親を呪う者、姦淫する者、義母または義理の娘と寝る者、同性愛者、女とその娘とを一緒に娶る者、獣姦する者(そして、不運な動物のほうも、泣きっ面に蜂のこどく、殺されなければならなかった)である。もちろん、安息日に働いた者も処刑された。この点は「旧約聖書」全編を通して、繰り返し何度も述べられている。
ドーキンス

そのように、何度も、述べられているということは、そういう者が、多数いたということである。

そして、驚くべきことは、その罪の対象は、皆、男であるということ。
女は、無いのである。

ロトの娘たちは、罪を、犯すも何も、数のうちに、入らないのである。

女性蔑視ではない。
女性、無視である。

これ以上、何を語ることが、あるだろうか。

だが、女性蔑視は、何も、ユダヤ、イスラム、キリスト教だけではない。
仏陀も、女人救い難しと、言う。

女は、男より、一段も二段も、三段も、四段も、五段も、限りなく、低い地位にある。
何故だろうか。
仏陀も、王子の頃は、女の体を、味わい尽くしたのである。
選り取り緑、糞緑まで、女を、セックスの道具として、扱ったのである。

そして、人生の無常を感じ、出家する。

実は、これを、いい気なものと、言う。

仏陀の、一族は、皆、滅ぼされるのである。
自業自得であろう。

日本の神道も、女は、穢れたものという意識がある。
唯一、古神道だけは、伊勢神宮の、斎女を見ても、お仕えするのは、女である。

私の知る限り、古神道、民族伝統宗教にのみ、女に対する差別はない。

バリ島ヒンドゥーなどは、生理の時だけ、礼拝を、遠慮する程度である。
タイ、仏教も、然り。
アボリジニの、儀式は、男の儀式、女の儀式と、明確に区分けして、行う。
両方、同じ重要さである。

掟は、何故、作られるのか。
それを、行う者がいるからである。
旧約時代は、実に、上記に書かれている罪を、犯す人がいたということが、理解できる。

同性愛者という時は、男のことに言える。
何故、女蔑視、無視なのに、同性愛を、嫌うのかは、簡単である。
支配者の、都合である。
同性愛を、容認すれば、支配に、支障が出る。
彼らが、団結すれば、とてつもない、勢力を、持つと、知っているのである。

今でも、一神教が、ゲイを、毛嫌いするのは、支配者の都合である。

聖書以前の、古代の、司祭たちの多くは、同性愛者が多い。
何故か。
特別な、存在として、認められていた。
それでは、聖書の神の、支配が、真っ当できないのである。

雁字搦めの、支配をするべくの、同性愛、嫌悪である。
そして、女性の能力の高さを、見抜いた者が、女性を、貶めた。

どこに、旧約聖書に、道徳の原理を、見いだすことが、できるのか。

余談である。
男の、戦闘意識、戦闘能力を、最大限に生かすのは、飢えである。
あらゆる飢えである。
同性愛を、承認すれば、戦闘意識が、薄らぐのである。

満たされぬ、性欲の捌け口を、戦闘能力に、生かすべくの、ゲイに対する嫌悪である。

だが、アレクサンダー大王に、見るように、同性愛によって、団結を、絆を、堅くした集団は、最強にも、なる。
それを、怖れる。

聖書の神とは、人間である。
もっとも、人間の、愚かさと、儚さを、持った、人間を、神とするのである。
ドーキンスに、言わせると、もっと、酷い言葉になる、のだが。

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2008年04月15日

神仏は妄想である 73

ロトのおじのアブラハムは、三つの「偉大な」一神教すべての始祖である。家父長的な地位にあるアブラハムの場合、神に比べていくぶんではあるが役割モデルとして受け止めづらくなっている。しかし、どんな現代の道徳家が彼に従いたいと望むのか? 長い生涯の比較的早い時期に、アブラハムは飢饉を耐え忍ぶために、妻のサライとともにエジプトに行った。彼は妻のように美しい女性はエジプト人が自分のものにしたがり、そのために夫である自分の命が危険にさらされるかもしれないことに気付いた。
ドーキンス

以下、長くなるので、私が、簡潔に書く。

そこで、アブラハムは、妻を、妹として、偽らせる。
サライは、ファラオのハーレムに入り、その結果、アブラハムは、ファラオの寵を受けて、金持ちになる。当然、妻は、女として、扱われた。
神は、その馴れ合いを、許さず、ファラオと、その家に、疫病を与えた。
ドーキンスは、何故、アブラハムにではなく、ファラオにかと、疑問符である。

当然、憤慨したファラオは、何故、嘘をついたのか、訳を知りたいと言う。
サライを、アブラハムの元に返して、二人を、エジプトから追放した。
これは、創世記の、第12章にある。

そして、また、同じことを、ゲラル王アビメレクの時代に、行う。
創世記、第20章にある。

よく似た、記述は、テキストが信用できないものではないかと、ドーキンスは言う。

アブラハムの物語におけるこのような不愉快なエピソードも、彼が自分の息子イサクを犠牲にした悪名高い物語(イスラム教の聖典も、アブラハムの別の息子イシュマエルについて、同じような物語を述べている) に比べれば、ほんの微罪でしかない。神はアブラハムに、久しく待ち望んで生まれた息子を焼き尽くす献げ物として供えるように命じた。アブラハムは祭壇を築き、薪を並べ、イサクを縛って薪の上に載せた。そこへ天の使いが劇的に登場し、土壇場の計画変更の報せをもって割ってはいる。
ドーキンス

この物語は、私が、カトリック教会に、通っていた時に、アブラハムの信仰の深さということで、何度も、毎年、少なくても、一度は、聞かされていた。

太祖の一人としての、アブラハムは、聖人を超えた、神に近い人物の一人だった。
クリスマス前の、待降節という、四週間にわたる、時期の最初の人物が、アブラハムである。

ちなみに、ムハンマド、イスラムの開祖も、このアブラハムの信仰に、回帰することを、掲げて、イスラムを、作った。
私の、イスラムについて、を、参照してください。

結局のところ、神はたわむれにアブラハムを「誘惑」し、彼の信仰を試していただけだった。現代の道徳家なら、子供がそのような心理的トラウマからどうしたら回帰できるのかという危惧を禁じえない。現代の道徳基準では、このような恥ずべき物語は、児童虐待の実例であると同時に、二つの非対称的な力関係の板ばさみとなって起こったイジメの実例でもあり、「私は命令に従っていただけです」というニュンルンベルク裁判の弁護記録に残る、有名な台詞の最古の用例である。なのにこの伝説は、三つの一神教すべてにおいて、偉大な基本神話の一つとされているのである。

・ ・・もう一つは、もし文字通りの事実ではないとしたら、この物語を私たちはどう受け止めるべきなのか、ということだ。寓話として? だとすれば、何のための寓話なのか? 称賛すべきことではないのは確かだ。道徳的教訓として? しかし、この恐るべき物語からいったいどんな種類の教訓が引き出せるというのだ。思い出してもほしいのだが、いまここで私たちが確認しようとしているのはまさしく、事実の問題として、聖書は道徳の根拠や手本ではないということにほかならない。
ドーキンス

そして、もし、聖書の中から、道徳的なものを、取り出すとしたら、何か、独立した基準が必要だという。
その基準は、聖書から、くるのではなく、私たち、すべてが利用できる、規準であろうともいう。

追い討ちをかけるように、ドーキンスは、次の物語を、言う。
士師記、第11章である。

軍隊の指揮官エフタは、もし神がアンモンの人々に対する勝利を、保障するならば、「私が帰ったとき、私の家の戸から出てきて、私を迎えるものは誰であれ」その者を、焼き尽くす捧げ物として、必ず捧げるという誓いをする。
そして、非常に多くの人を、殺して帰った。
出迎えたのは、一人娘だった。
娘は、それを、承諾したが、処女であることを、嘆くために、二ヶ月、山に入ることを願う。そして、二ヵ月後に、父親によって、焼き殺される。

このような、野蛮な物語は、聖書以外に無いと、言ってもよい。

罪の無い者を、生け贄にするという、根性は、どこからのものか。

ここでも、女は、焼き殺されるが、男は、残るということである。
これは、私の見解である。
女は、家畜と同じ扱いなのである。
これが、不思議でしょうがない。

この、神もどきは、女嫌いで、同性愛を、憎むのである。
何故。
心理学では、答えられるはずである。

大量虐殺の話が、あまりに多いのも、気になる。

そのまま、司祭や、牧師の話を信じているうちは、いいが、矢張り、どこか、おかしいと気付く時、それを、宗教家は、信仰の、揺らぎだと言う。また、信仰が、確固たるものになっていないと、言う。

実は、疑問を、持つことが、通常の神経である。
疑問を、持たずにいると、簡単に、テロリストになる。

スペインが、カトリックの名で、南米で殺した人の数は、一億人である。
清教徒が、アメリカインディアンを、殺しつくして、アメリカを、建国した。
大量虐殺が、当たり前なのである。

オーストラリアでは、アボリジニの、先住民族を、無きものにしようとしたが、生き延びている。
漸く、今年、オーストラリア政府は、アボリジニに対して、謝罪した。
謝罪して、許されるものではないが、謝罪した。
何もとりえの無い、オーストラリアは、アボリジニ文化を持って、オーストラリアだといが、現在、アボリジニに対する政策は、実に、みすぼらしいのである。
聖書を、奉ずる民族の有り様を、見る、思いがする。

自戒を込めて、日本の場合を見る。
琉球に対する、薩摩藩の有様は、琉球を、地獄に突き落とした。
沖縄である。
アイヌに対する、和人の有様は、どうだったか。
無情な差別である。
しかし、皆殺しは、なかった。
それでも、対応は、甚だしく、無礼なものだった。

生殺しも、切ないものである。
日本は、謝罪外交で、有名であるが、琉球と、アイヌに対する、謝罪は、聞いたことが無い。

勿論、謝罪して、済むことではない。

沖縄や、アイヌの人が、独立したいと言えば、独立させるべきである。
沖縄と、北海道を、返すといい。

限りなく、不可能ではあるが、その位の、気持ちを、持っていいと、思う。

さて、聖書である。
野蛮極まりない、記述の多い、書物であるということ。
道徳の、規準など、見いだせないということ。

自分の選んだ民がライヴァルの神に気を引かれたときにつねに見せる、神の途方もない激怒は、恋愛における最悪な種類の嫉妬とこれ以上はないというほどよく似ており、現代の道徳家に、これは到底役割モデルにはできないという印象を与えるにちがいない。
ドーキンス

続けて、旧約聖書を、検証してゆく。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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