2008年04月01日

もののあわれ190

かくて二三日おともさせたまはず、頼もしげにのたまはせしことも、いかになりぬるにかと思ひつづくるに、いもねられず、目もさまして寝たるに、夜やうやうふけぬらむかしと思ふに、門をうちたたく、あなおぼえなと思へど、問はすれば、宮の御文なりけり。

そうして、二三日、何の音沙汰もなく、過ぎました。
頼もしそうに、仰せになったお言葉も、いったい、どうしてしまったのかと、思い続けていますと、眠ることも、できません。
目を覚まして、臥していると、夜も、ようやく、更けたと思う時、門をたたくものがありました。
誰であろうかと、思い、取次ぎの者に、問わせますと、宮様からの、御文でした。


思ひかけぬほどなるを、「心や行きて」とあはれにおぼえて、つま戸押し開けて見れば、


見るや君 さ夜うちふけて 山の端に くまなくすめる 秋の夜の月

うちながめられて、つねよりもあはれにおぼゆ。門も開けねば、御使待ち遠にや思ふらむとて、御返し、


ふけぬらむと 思ふものから 寝られねど なかなかなれば 月はしも見ず

とあるを、おしたがへたるここちして、「なほ口をしくはあらずかし、いかで近くて、かかるはかなしごとも言はせて聞かむ」とおぼし立つ。


思いがけぬ時間でした。
「心が、通じたものか」と、嬉しく思い、妻戸を開けて、読みますと、


みるやきみ さようちふけて やまのはに くまなくすめる あきのよのつき

御覧になっていますか。
夜が更けて、山の端に、澄み渡る秋の夜の月を。

宮様の、歌にひかれて、思わず、月を眺めました。いつもより、いっそう、あはれに感じられました。
門を、開けていませんでしので、御使いも、待ち遠しくなると思い、お返しの、歌を、差し上げました。


ふけぬらむと おもふものから ねられねど なかなかなれば つきはしもみず

夜が更けても、眠られません。
しかも、月は、まだ、見ないことにしています。
月を見ますと、思いが、募ります。

と、詠んでありましたので、宮様は、不意を突かれた思いがして、「やはり、口惜しい女ではありません。何とかして、身近に置いて、このように、慰めの、歌を詠ませて、聞きたいものだ」と、決意を、持たれました。

「心や行きて」とあはれにおぼえて

つねよりもあはれにおぼゆ

心が通じて、あはれ、に、思う。
常よりも、あはれ、に、思う。

何事かに、感じる心の、様を、また、あはれ、という言葉に、置くのである。

心が通じて、嬉しいという、感情を、あはれ、とみる。
常よりも、あはれ、とは、いつもより、一層、感慨深いということである。

喜怒哀楽、そして、様々な心象風景が、あはれ、なのである。

心に感ずることの、すべてを、あはれ、で、表現する様を、何と、説明するのか。

この、あはれ、という、感覚を、いつから、日本人は、培ったのか。
再度、万葉集を、読むべきである。
心の、動きにある、本質的なものを、あはれ、と、表現するようになる、過程にある、日本人の精神の成長である。
漢語では、表現、し尽くせないものが、あった。
ひらがな、により、始めて、そのように、本質的な、心模様を、書き表すことが、出来たのである。それには、その発生過程がある。

天真爛漫な、万葉の人々の歌、言葉から、心を、捉えて、更に、推し進めると、その、表情の裏に、静かに、眠っていた、あはれ、という、翳りのような、感覚、心象風景である。

ようやく、一音に意味ある、日本語の、表現が、ひらがなによって、成ったといえる。

つまり、一音の意味が、あったといえる。
ただ、書き伝えなかったのである。
当たり前すぎて、書き伝える必要がなかった。

書かれたものがあるということは、書かれなかったものも、あるということである。
その、書かれなかったものを、探る行為を、学問という。

それでは、現在言われる、学問とは、書かれたものが、ある、ということが、前提である。

学問を、ものならう、と、読んだ。
ならう、とは、現在の、習うではない。
ならう、とは、思いを込めることなのである。

つまり、書かれなかったものを、思い詰めることである。
感受性である。

推論、想像、妄想を、超えて、探る行為である。
それは、日本人であれば、こそ、通じる心象風景である。

言葉というものの、心象風景である。

あはれ、とは、日本人の心の本質を、言う。
それは、一人の人間を、表現するのに、一言葉では、表せないように、あはれ、というものも、一言葉ではなく、様々な、形で、所作で、言葉で、現すものなのである。

万葉集から、源氏物語に、貫く道、そして、源氏物語から、現在にまで、貫く道、それが、もののあわれ、であるということ。

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神仏は妄想である 60

煉獄の教義は、神学的精神がどのようにしてはたらくかについて、馬鹿馬鹿しい事実を暴露してくれる。煉獄は、神の国において一種のエリス島(ニューヨークにあり、かつての移民局がここに存在し、移民を希望する入国者はここで選別を受けた)のような役割を果たす。地獄に送られるほどの悪い罪を犯していない死んだ魂が行く、黄泉の国への待合室である。しかし罪人のいない天国に入ることを許されるまでには、もう少しばかり矯正的な審査と浄化が必要である。中世においては、教会はよく金で買える「免債」を発行していた。これは、煉獄にいる日数を何日か免じてもらうために金を払うのであり、教会は文字通り(私は僭越にもほどがあると言いたい)購入された減刑日数を書き込んだ署名入りの証明証「免罪符」を発行した。こうした不正利益のために「不浄」という表現が発明されたのではないかと思われるのが、ローマ・カトリックという組織である。金を稼ぐためのあらゆる詐欺行為のなかでも、免罪符の販売こそ、ちまがいなく歴史上、最高に位置するペテンであり、ナイジェリア・インターネット詐欺の中世版に相当するが、こちらのほうが、はるかに成功をおさめた。
ドーキンス

上記、恐るべし、宗教というものの、正体である。

皆々、宗教とは、上記のような、金集めをするのである。
問答無用に、そうである。

何という、馬鹿馬鹿しいことをと、思っても、信じる者は、騙されるのである。
喜んで、金を払うという、愚かさ。

日本の宗教も、同じく、家計が苦しいから、ご供養に、金を出すことを言うのである。
生活が、苦しいほど、献金をする。そうすれば、福がもたらされる。
このように、説いて、信者から、金を集める宗教は、数限りない。

更に悪いのは、信者から集めた金の、数パーセントを使い、慈善事業をしているように、見せかけるという、あくどさである。
信者も、社会も、それに、騙されるのである。

どうしようもない、罪人、それが、宗教組織である。

宗教と、名のつくもの、すべてが、そうであると、言っても、間違いではない。

凶悪事件を、起こす宗教のみならず、精神的凶悪事件を、皆々、起こしているのである。
どんなに、立派な宗教であると、言えども、そこから、のがれることは、出来ない。
つまり、宗教を作るということは、詐欺組織を作るということと、同じなのである。

カトリック教会は、日本にて、学校、福祉施設、病院等々の、社会的活動をする。
キリスト教精神に則って、活動する。
その金は、どこから、出るのか。
世界中の信者の金から出る。

それが、評価出来るということではない。その程度で、人や社会は、騙されるということである。

ドーキンスは、それらの実に、馬鹿馬鹿しい、証拠を書くが、省略する。

煉獄の教義が私を本当に魅了するのは、神学者がそのためにもちだす証拠である。その証拠は目を見張るほど薄弱なものなので、それが断言している空虚な確信をさらに滑稽なものに感じさせてしまう。「カトリック百科事典」の煉獄の項目には、「証拠」と題する節がある。煉獄の存在を示す基本的な証拠は次のようなものである。もし死者が、現世における罪をもとにして単純に天国または地獄に行くのであれば、彼らのために祈る必要が無いということである。「もし、神の眼差しをまだ注がれていない者たちに施しを与える力を祈りがもっていると信じないのであれば、何の理由で死者のために祈るのか」。だが私たちは実際に、死者のために祈っている。そうでしょう? 証明終わり。冗談抜きに、これが神学を扱う専門家たちのあいだで理屈として通用しているものの一例なのである。

実は、私も、少年の頃、教会で、煉獄にいる、霊のためにと、祈っていた。
そう、教えられた。

日本のお盆に、当たる、死者の月が、10月である。
その月には、ロザリオの祈りを、煉獄の霊のために、毎日のように、祈るのである。
ロザリオの祈りとは、聖母マリアに対する祈りである。
聖母マリアに、取り成してもらう、祈りが、ロザリオの祈りという。

聖母出現の土地では、更に、ロザリオの祈りが大切にされる。

その、出現の聖母が、プロテスタントの信者を、カトリックに改宗させる、メッセージを発するという、面白いことを言う。

勿論、誰も、それを、聖母であるとは、知らない。
悪霊の場合もある、と、言っておく。

カトリック信者の中でも、あれは、良い聖母、あちらは、間違った聖母などいう、話がある。ローマ法王庁が、認定しないと、駄目である。

その際は、特に、奇跡の認定が、決め手になる。
その最大の特徴は、病が、癒えるというものである。

ご多分に漏れず、宗教の宣伝文句は、病が癒えるである。

イエス・キリストも、病を癒すのである。
単純明快である。

そして、最大の奇跡は、死後の復活である。

このような、奇想天外のお話を、信じることによって、キリスト教徒となる。

イエスは、雲に乗って、天に上がられたのである。
そして、いつか、雲に乗って、この世に、来るという、妄想。

雲に乗るのは、日本の神々であるが、違うらしい。
冗談です。

この驚くべき不合理な推論がさらにスケールアップされた上で、もう一つの一般的な神の存在証明である。(慰めからの論証)の展開に反映されている。神は存在するにちがいないと、この議論は進む。なぜなら、もし存在しないならば人生は空しく、無駄で、不毛で、無意味で取るに足りないことばかりの砂漠になってしまうだろう。この論理が最初の障害物で破綻していることを、わざわざ指摘する必要がどうしてあるのだろうか? ひよっとしたら人生は空しいかもしれない。ひよっとしたら私たちの死者への祈りは無駄かもしれない。そうではないと仮定するのは、証明しようとしている結論が真実だと仮定することである。この三段論法と称するものは、見え見えの循環論法である。・・・

自分が息災であるのはほかの誰かのおかげにちがいなく、もし自分が怪我をすれば、ほかの誰かが非難されなければならない。神なるものを求める「欲求」の背後に本当に横たわっているのは、このような幼児性ではないだろうか? ・・・

誠に、私は言う。
幼児性である。

思考法には、三段階がある。
外省、がいせい、思考である。
事が起こるのを、すべて、他のせいにして、考える思考法である。

そして、反省思考である。
通常の成長をすれば、反省思考になるのだが、今は、実に、少ない。
私も、悪かったし、相手にも、誤りがある、注意しょうと考える。

次に、内省、ないせい、思考である。
この事態は、私に、何を教えるのであろうかと、考える思考法である。

宗教は、残念ながら、外省思考である。
すべて、神仏に、帰納する。

実に、幼児性である。

超えられない苦しみを、神は、与えたもうはずがない。
誰も、苦しみなど、与えていない。
自業自得であろう。
しかし、敬虔なクリスチャンになると、特に、そう言うのである。

自分が、種を蒔いたことでも、神のせいにするという、アホ、馬鹿である。

幼児性と、妄想性による、撹乱を、起こす。
その名を、宗教と、呼ぶ。


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2008年04月02日

神仏は妄想である 61

私は「虹の解体」で、DNAの文字の組合せによって潜在的に生れ落ちることができたはずの膨大な数の人間が実際には生まれないということを考えると、私たちが生きているということがどれほど幸運であるかを伝えようと試みた。その一環として、ここに存在するだけで幸運な私たちのために、巨大な時間の定規の上をゆっくりと進むレーザー光線のスポットライトを思い浮かべることで、人生の相対的はかなさを描いた。スポットライトの前あるいは後ろにあるすべてのものは、死せる過去の闇、あるいは未知の闇に包まれている。私たちは、このスポットライトのなかに自分がいると知るだけで途方もない幸運である。
ドーキンス

これは、神は妄想である、の、最後の章の、最終である。

科学者が、総力を上げて、人生の相対的、はかなさを、描いたという。

生きているという、スポットライトの中にいるということが、途方もない幸運であると、いう。

たゆみない、知性と、感性の、磨き、そして、理性によって、人間は、自立した、人間になるのである。

私たちが太陽のもとにいられる時間がどんなに短くとも、もし、その一秒でも無駄にすること、あるいはそれが退屈だとか、不毛だとか、あるいは(子供のように)つまらないとか不平を言うのは、そもそも生命を与えられることさえなかった無数の生まれなかった者たちへの、無神経きわまる侮辱ではないだろうか?

科学者の、謙虚さを、十分に知る、文章である。
さらに続けて

多くの無神論者が私よりももっとうまく言ってきたように、私たちがたった一つの命しかもたないという知識は、命をいっそう貴重なものにするはずだ。無神論者のこの見方は、人生の肯定という態度に通じるものだが、同時に、生命はこの私に何か借りがあるはずだと感じている者たちの、自己欺瞞、希望的観測、あるいは自己憐ぴんの泣き言には染まっていない。

自己欺瞞、希望的観測、そして、自己憐ぴん、とは、宗教のことである。

知識ということの、本当の意味は、上記のことを言う。
妄想の、教義、教理、教学による、知識ではない。
それは、知識とは、呼ばないのである。

知識とは、裏付けられるものである。

もし、神の消滅が隙間を残すのであれば、それぞれの人がちがったやり方でそこを埋めるだろう。私の選ぶやり方には、科学をふんだんに用いた、現実世界についての真実を見つけだすための誠実かつ体系的な営みが欠かせない。

実に、説得力のある言葉である。
まったくもって、宗教には、無い、言葉の数々である。

私は、宇宙を理解しようとする人間の努力を、モデル形成の試みとして見ている。私たちの一人一人は、自分の頭のなかに、自分がいる世界のモデルを築き上げる。世界の最小モデルは、私たちの祖先がそのなかで生きのびるのに必要なモデルである。このシュミレーション・プログラムは自然淘汰によって構築され、修正されたもので、アフリカのサヴァンナにすんでいた私たちの祖先が慣れ親しんでいた世界、すなわち、中くらいの大きさの物体が、互いに中くらいの相対速度で動いている三次元の世界に、もっとも熟達したものである。予想外のおまけとして、私たちの脳は実は、祖先が生き残るために必要とした凡庸な功利主義的モデルよりも、はるかに豊かな世界モデルを収容できるほど強力なものであった。芸術と科学は、このおまけの暴走がもたらす現われである。

芸術と、科学である。
決して、宗教とは、言わない。

私は、宗教は、芸術の変形、あるいは、逸脱、あるいは、狂いと、観るものである。
芸術的情熱と、宗教的狂信は、非常に近い。

さて、ドーキンスは、量子論についても、書く。
それは、多宇宙についてである。

実は、私は、多次元の世界の証明を、量子論に、期待していた。
しかし、事情は、違った。

それは、次に書く。

ここで、言いたいことは、宗教や、神学等々の、虚妄であるとうことだ。
頭で、考えたことは、単に、それだけのことであり、何の、根拠も、証明も、出来ず、客観性も無いということである。

創造性とは、芸術である。
よって、宗教の、ものの考え方は、創造性の、何物でもない。

人間が、作り出した、ものである。

神も、仏もである。
人間が、創造したもの、それが、神であり、仏である。
ゆえに、神仏は妄想である。

知らないことの、隙間を、埋めるための、神仏の創造は、限りなく、不毛である。

その、根拠を、埋めるための、奇跡というものは、科学で、解明される。
知らないだけである。

キリスト教宣教師が、未分化な、土地に行き、細心の、発見により、持つ、科学的道具により、未開の人を、撹乱させた。
それは、未開の人が、知らないことだったからである。

知ってしまえず、当たり前のことである。

宗教の妄想も、知ることで、妄想であることは、明白である。

ゆえに、私は、神仏は妄想であると、言う。


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もののあわれ191

二日ばかりありて、女車のさまにてやをらおはしましぬ。昼などはまだ、御覧ぜねば、はづかしけれど、あさましうはぢ隠るべきにもあらず。またのたまふさまにもあらば、はぢきこえさせてやはあらむずるとて、いざり出でぬ、日ごろのおぼつかなさなど語らはせたまひて、しばしうち臥せさせたまひて、宮「この聞こえさせしさまに、はやおぼし立て、かかる歩のつねにうひうひしうおぼゆるに、さりとて参らぬはおぼつかなければ、はかなき世の中に苦し」とのたまはすれば、女「ともかくものたまはせむままにと思ひたまふるに、「見ても嘆く」といふことにこそ思ひたまへほづらひぬれ」と聞こゆれば、宮「よし見たまへ、「塩焼き衣」にてぞあらむ」とのたまはせて、出でさせたまひぬ。


二日ほど、経ち、宮様は、女車のいでたちで、密かに、お出でになりました。
昼間に、お逢いしていませんので、気恥ずかしく思いましたが、みっともなく、恥ずかしがって、隠れることも、出来ません。
宮様が、仰せのように、邸にでも、移ることになれば、このように、恥ずかしがってもいられません。
にじり出ました。
宮様は、常日頃の、ご無沙汰のことなどを、お話になって、しばらく、お臥せになりました。
宮様は、「私が申し上げるように、早く決心を、なさい。このような、忍び歩きは、日頃は、心重く、かといって、お訪ねしないのは、なお、気がかりです。頼りない、あなたとの、愛に、苦しんでいます」と、仰せになります。
女は、「ともかくも、おおせの通りに、従いたいと思いますが、「見ても嘆く」ということが、ありますので、思い煩っています」

見てもなお またも見まくの ほしければ 馴るるを人は 厭ふべらなり
古今集 読み人知らず
「見ても嘆く」とは、上記の、歌を、踏まえたもの。

と、申し上げますと、「よし、見ておいでなさい。「塩焼き衣」のように、逢い馴れてくると、人は、恋しくなるものです」と、仰せになって、部屋を、出て行きました。

伊勢のあまの 塩焼き衣 馴れてこそ 人の恋しき ことも知らるめ
古今集 
上記の歌を、踏まえたもの。


前近き透垣のもとに、をかしげなる檀の紅葉のすこしもみぢたるを、折らせたまひて、高欄におしかがらせたまひて、
宮「言の葉ふかくなりにけるかな」とのたまはすれば、
女「白露のはかなくおくと見しほどに」と聞こえさするさま、なさけなからずをかしとおぼす。宮の御さまいとめでたし、御直衣に、えならぬ御衣、出たしうちぎにしたまへる、あらまほしう見ゆ。目さへあだあだしきにやとまでおぼゆ。

庭先の、透垣のそばに、美しい、まゆみの紅葉が色づいています。
それを、宮様は、お折りになられて、欄干に、寄りかかり、「愛にかわす言葉も、紅葉のように、色深くなりました」と、仰せになりました。
それを、受けて、「白露が、はかなく、置きますよう、かりそめの愛と思って、いましたのに」と、申し上げる、女の様子は、心の趣を、添えていて、見事だと、思われました。
宮様の、ご様子は、実に、ご立派でありました。
御直衣を、お召しになり、その下に、素晴らしく、何とも言えぬ、お召し物を、うちぎに、着られているのが、見事です。
女は、自分の目が、色っぽくなっているのではと、思えるほどです。


またの日、宮「昨日の御気色のあさましうおぼいたりしこそ、心憂きもののあはれなりしか」とのたまはせたれば、


葛城の 神もさこそは 思ふらめ 久米路にわたす はしたなきまで

わりなくこそ思ひたまふらるれ」と聞こえたれば、たち返り、


おこなひの しるしもあらば 葛城の はしたなしとて さてややみなむ

など言ひて、ありしより時々おはしましなどすれば、こよなくつれづれも慰むここちす。


また次の日、宮様は、「昨日は、あなたが、情けなく思われていた様子。切なく思われました。しかし、しんみりとした、もののあはれを、思う気持ちになりました」と、仰せになりました。


かつらぎの かみもさこそは おもふらめ くめじにわたす はしたなきまで

葛城の神様も、私と、同じように、思われたでしょう。昼間、久米路に橋をかけるのは、見苦しいことだと。醜い私は、何と、はしたなく、見えたでしょう。実に、恥ずかしく思いしまた」と、申し上げますと、折り返して


おこなひの しるしもあらば かつらぎの はしたなしとて さてややみなむ

役の行者のような、力が、私にありましたら、葛城の神のように、昼間を、恥じているあなたを、そのままには、しておきません。

などと、仰せられて、今までよりも、しばしば、お出に、なります。
ことさら、つれづれの、慰めが、満たされる心地がします。


宮の言葉に、心憂きもののあはれなりしか、という言葉がある。
ここでは、心憂きことが、もののあはれ、という。
実に、複雑な心境になっている。

それは、相手の姿、様子に、そのように、思うのである。
あなたの、様子に、心憂きもののあはれ、というものを、感じたのである。

すでに、もものあわれ、というものを、観ていたのである。

この日記の、様々な、場面で、あはれ、というものを、見てきた。
あはれ、に託す心模様に、あはれ、と、実体を観るのである。

心、そのものが、もののあわれ、なのである。
揺れ動く、心の、機微に、もののあわれ、というものを、感じ取ったのである。

それが、所作になって、現れる。
それが、歌になって、現れる。
更に、それが、心となって、現れるのである。


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2008年04月03日

もののあわれについて192

かくてあるほどに、またよからぬ人々文おこせ、またみづからもたちさまよふにつけても、よしなきことの出で来るに、参りやしなましと思へど、なほつつましうてすがすがしうも思ひ立たず、霜いと白きつとめて、


わが上は 千鳥もつげじ 大鳥の はねにも霜は さやはおきする

と聞こえさせたれば、


月も見で 寝にきと言ひし 人の上に おきしもせじを 大鳥のごと

とのたまはせて、やがて暮におはしましたり。

そのようにしている、うちに、また、よくない男たちが、文を、よこします。
また、男たちが、うろついて、まとう様も、良くないことなので、宮様の、邸に、参ろうかと、思いましたが、やはり、遠慮があり、中々、決心が、つきません。
霜が、大変、白く置いた朝に、


わがうえは ちどりもつげじ おおとりの はねにもしもは さやはおきける

私のことを、千鳥は、宮さまに、告げますか。
起き明かして、袖に、霜がおきましたことを。
大鳥で、いらっしゃる、宮様の羽にも、霜はおきましたか。

と、申し上げますと、


つきもみで ねにきといひし ひとのうえに おきしもせじを おおとりのごと

月も見ずに、寝てしまったと言われますが、そのように、起き明かすことのない人の上に、霜は、おくわけは、ありません。大鳥のようには。

と、お詠みになられて、すぐに、夕方、お見えになりました。

宮「このごろの山の紅葉はいかにをかしからむ。いざたまへ、見む」とのたまえば、女「いとよくはべるなり」と聞こえて、その日になりて、女「今日は物忌」と聞こえてとどまりたれば、宮「あなくちをし。これ過ぐしてはかならず」とあるに、その夜の時雨、つねよりも木々の葉残りありげもなく聞こゆるに、目をさまして、「風の前なる」などひとりごちて、「みな散りぬらむかし。昨日見で」とくちをしう思ひ明かして、つとめて、宮より


神無月 世にふりにたる 時雨とや 今日のながめは わかずふるらむ

さてはくちをしくこそ」とのたまはせたり。

宮様は、「この頃の、山の紅葉は、どんなに、美しいでしょう。さあ、見に行きましょう」と、仰せになります。
女は「たいそう、よい話です」と、申し上げます
当日になって、「今日は、物忌みですので」と申し上げて、家に留まりました。
それで、宮様から、「残念です。物忌みが、終わりましたら、行きましょう」と、御文がありました。
その夜、時雨が、いつもより、強く降り、木々の葉が、残りそうになく、聞こえました。
宮様は、目覚められて、「風の前なる」などと、独り言を仰せになり、「紅葉は、散ってしまったでしょう。昨日見ておかないで、大変、口惜しい」と、残念に思い、夜を明かしました。
その朝、宮様から、


かんなづき よにふりにたる しぐれとや きょうのながめは わかずふるなむ

十月に、昔から降る、時雨と言われますのに、区別もなしに、今日の、長雨は、降るのでしょうか。
あなたは、長雨を、時雨と思い、私の、涙の雨とは、思わないでしょう。

本当に、口惜しい気持ちです。
と、御文がありました。



時雨かも なにに濡れたる たもとぞと 定めかねてぞ われもながむる
とて、女「まことや、


もみぢ葉は 夜半の時雨に あらじかし 昨夜山べを 見たらしかば

とあるを、御覧じて、


そよやそよ などて山べを 見ざりけむ 今朝は悔ゆれど なにのかひなし

とて、端に、


あらじとは 思ふものから もみぢ葉の 散りや残れる いざ行きて見む

とのたまはせたれば、


うつろはぬ 常磐の山も もみぢせば いざかし行きて 問ふ問ふも見む

不覚なることにぞはべらむかし」。一日おはしましたりしに、、女「さはることありて聞こえさせぬぞ」と申ししをおぼし出でで。



しぐれかな なににぬれたる たもとぞと さだめかねてぞ われもながむる

時雨に濡れたのかどうか、わかりませんが、私の袂は、濡れています。
何に濡れたのかと、物思いしています。

と、女は詠み、さらに


もみぢばは よはのしぐれに あらじかし きのうやまべを みたらましかば

紅葉は、夜半の時雨に打たれて、残ってはいませんでしょう。
昨日、見ておけば、良かったと、思います。

と、お返事差し上げたのを、見て、


そよやそよ などてやまべを みざりけむ けさはくゆれど なにのかひなし

そうです、そうです。どうして、紅葉を見に、行かなかったのでしょう。
今朝になって、後悔して、どうしようもありません。

と、お書きになり、その、端に

あらじとは おもふものから もみぢばの ちりやのこれる いざいきてみむ

もう、紅葉は、落ちているでしょうが、もしや、まだ、残っているかもしれません。
さあ、見て来ましょう。

と、仰せになりましたので


うつろはぬ ときわのやまも もみぢせば いざかしゆきて とふとふもみむ

色が変わることがないという、常盤の木々が、紅葉になると、いうのであれば、さあ、出掛けて、見ることにしましょう。

お忘れに、なられたのでしょうね。と、申し上げました。
この間、宮様が、お越しの時に、「差し支えがあって、お逢いできません」と、申し上げたのを、思い出しくださらない。

さはり、とは、物忌み、それは、女性の、月のものを、言う場合もある。


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神仏は妄想である 62

量子力学が、霊界の存在、あるいは、多宇宙について、画期的な、存在の様を、証明するのではないかと、私は、期待していた。
ところが、トーキンスに言わせると、そうでもないらしいのである。

量子論があまりにも奇妙なのか、物理学者たちは何らかの矛盾した「解釈」に頼ろうとする。
ドーキンス

「多宇宙」解釈によれば、ある宇宙ではネコは死んでおり、別の宇宙では生きているということになる。どちらの解釈も、人間の常識や直感を満足させるものではない。しかし、力技の得意な物理学者たちは気にしない。問題は、その数学がうまく機能し、予測が実験によって達成されることである。私たちのほとんどが、彼らのやっていることをフォローすらできないのは、ふがいないことだ。結局、私たちは、「現実に」起こっていることについて、何らかの連鎖の視覚化というものがともなわなければどうにもならないらしい。
ドーキンス

連鎖の視覚化という。
つまり、はやい話が、目に見えない物である。目に見えない物でなければ、どうにもならないという。
科学的姿勢とは、そういうものである。
何の、違和感も無い。

更に、目に見えない物も、目に見える方法によって、目に見えるようにするのが、科学の姿勢である。それで、多くの、目に見えない細菌等々を、発見し、人類に貢献した。

私の立場である。
私は、霊学を、持つものである。
つまり、目に見えない世界というものを、考える立場である。
それは、多く、心理的状態によって、知る得るものであり、それは、心理学の分野で、おおよそ、解決される。
しかし、どうしても、それでは、解決できない問題もある。

だが、ギリギリのところまで、私は、ドーキンスを支持する。

私たちが進化した限られた世界では、小さな物体のほうが大きな物体よりも動いている可能性が大きく、大きいほうは動く際の背景と見られる。世界が回転するにつれて、近くにあるために大きく見える物体―――山、樹木、建物、そして地面そのものーーーは、太陽や恒星のような天体との比較で、互いにまったく同調して、観察者とも同調して動く。私たちの進化によって生じた脳は、前景にある山や樹木よりも、そうした天体のほうが動いているという幻影をつくりだすのである。
ドーキンス

ここに、重大な問題が、隠されている。
奇跡の、問題である。
互いに同調して、観察者とも、同調して動く、という。

つまり世界がなぜいま見えているように見えるのか、そして多くの事柄は直感的に把握しやすいのに、別の事柄は把握しにくいのはなぜか、といったことがあるのは、私たちの脳それ自体が進化によってつくられた器官だからという点をさらに突っ込んでみたいと思う。私たちの脳は、世界で私たちが生き残るのを手助けするために進化した搭載型コンピューターであり、その世界―――私はミドル世界という名を使うつもりであるーーーでは、私たちの生存にかかわる物体は極端に小さいことも、極端に大きいこともない。そこでは事物はじっとして立っているが、光速に比べればゆっくりとした速度で動いているかである。そしてそこでは、非常にありえなさそうなことは、起こりえないこととして処理しても問題はない。私たちの精神的なブルカの窓が狭いのは、私たちの祖先が生き残るのを助ける上で、それを広げる必要がなかったからなのである。

ブルカというのは、イスラム教徒の女性が、かぶる顔を覆う布のことである。
つまり、私たちの、ブルカの窓とは、視野のことである。

私たちの脳は、その体が自分の動き回る規模での世界の様子を知るのを助けるように進化してきた。私たちは、原子の世界を動きまわるようにはけっして進化してこなかった。
ドーキンス

ミドル世界で進化した私たちは、「一人の将校が、将校たちや他のミドル世界の物体が動く中程度の速度で動いていくとき、壁のような別のミドル世界の固い物体と衝突すれば、彼の前進は、苦痛をともなって阻まれる」といった事柄なら、直感的に、容易に把握できる。しかし、私たちの脳は、ニュートリノが壁を、つまりその壁を「現実に」構成している広大な瞬間の中を、どんなふうに通り抜けるかを想像できるようにはつくられていない。また私たちには、ものが光速に近い速さで動くとき起こる事態にうまく対処する知覚能力も備わっていないのだ。

ドーキンスは、実に、重大な、人間の認識能力について、語るのである。

これ以上の、引用は、避けることにする。

私は、ここで、ドーキンスが、最後に、最後の章で、奇跡の、有り得なさについて言う言葉を、聞く。

ありえなさの一方の極には、私たちが不可能と呼ぶまだ起こっていない出来事がある。軌跡とは極度にありえないような出来事である。マリア像が私たちに向かって手を振るということはありうる。結晶構造をつくっている原子はすべて前後に振動している。原子はあまりにもたくさんあり、その動きには一致して好まれる方向がないため、ミドル世界で私たちが目にする手は、石のようにじっと動かない。しかし、手の揺れ動く原子のすべてが、たまたま同時に同じ方向に動くということはありえる。またしても、何度でも言うが、・・・この場合、手は動くだろうし、私たちに向かって手が振られることを見ることになるだろう。それは起こりうるが、それが起こらない確率は非常に大きく、もしあなたが宇宙の起源からその数を書き始めたとしても、現在でもまだ依然としてゼロを書き終わっていないだろう。そのような確率を計算する能力―――ほとんどありえないことを、あきらめて両手を上げずに計算する力―――は、人間精神の解放のために科学が授けてくれる恩恵の、もう一つの例である。

奇跡には、すべて、裏がある。
そして、奇跡として、認識するものは、撹乱である。

ドーキンスは、進化生物学者として、渾身の力を込めて、神は妄想である、と言う。

私は、霊学として、神仏は妄想である、と言う。

新約聖書に、書かれる、イエスの奇跡は、悪霊祓いと、病気治しである。
更に、教祖と言われる人々は、多く、病気治しの奇跡を、行った。人は、それで、信じるようになる。

私の、知る、奇跡の例を、上げると、ある、拝み屋に行き、腰痛が、全快したということである。
そのカラクリは、簡単である。
その、拝み屋の、狂いの精神波動、つまり、ヒステリーの、力によるものである。
境界例という、精神疾患がある。
多くは、精神疾患による、狂いの、エネルギーが、痛みを取り、病を、癒すかのように、働く。

心理学で、解決される。
それは、多くの世界的、奇跡の場においてもである。
名医は、言葉によって、患者を癒す。
それは、心理学である。

霊的現象により、病や、奇跡を、起こすことを、私は、魔界関与という。
前世の因縁により、あなたの、足が、痛むということで、その因縁を消滅させることによって、痛みを取るという場合も、心理学が、有効である。

想像力は、病を、癒すのである。

何故、仏陀が、人生を、生老病死という、苦しみにあると、言うのか。
仏陀は、合理主義者であり、現実認識の、主である。
人生は、生老病死にあると、見抜いたこと、それが、端的に、それを、現すのである。

更に、因果の法を説いた。
原因が結果を、もたらし、また、結果が、原因になり、それが、死ぬまで、終わることが無い。

更に、オリジナルとして、仏という、人間の完成した、姿を描いた。

しかし、仏陀もまた、生老病死に、死んだのである。

もし、前世の因縁消滅によって、痛みや、病が、治るものであれば、因縁消滅しなくても、治るのである。

実相世界を、説く、宗教は多い。この世は、仮の世界であり、実相世界は、痛みも、病も無いという。更に、人は神の子であり、仏である。この世の姿は、肉体という、借り物を、着ている状態であると。

それは、実に、感性的である。
しかし、知性と、理性に関しては、論外である。

感受性の強い人は、それを、文字通り受け入れて、自らを、癒す。

この現実を、仮のものとして、思い込み、実は、よく解らない、死後の世界を、実相、真実の世界として、信じ込むことでの、詐欺行為により、撹乱させる。

霊学として、言う。
この世の、現実を、実相世界と、感じないで、よく解らない死後の世界を、実相世界、あるいは、神や、仏の世界として、信じ込ませるもの、それは、罪悪である。

仏陀は、すべては、心の、在りかたであると、観た。
心とは、想念の場所、想像の場所である。
思えば、在る世界である。
その、思えば、在る世界に、宗教は、目に見えない世界を、作り上げて、心を撹乱させる。

例えば、死後の世界で、苦しむ霊の、波動を、キャッチして、同じように、その箇所が、病むという。ゆえに、その霊に、悟ってもらい、それにより、病を癒すという。
もっともらしくの、想像力である。
しかし、それは、心理学が、出来ることである。

霊というものを、確実に、説明する、科学的根拠は無い。

だが、科学が、すべてを、知るかとえば、知ることは出来ない。

私の、霊学も、私の妄想である。

その、妄想を、いかに逞しくしても、神仏は妄想である。
霊界には、神仏は、無い。
霊は、在る。

そして、空とか、無という、状態も、宇宙を出ると、在る。

霊界は、宇宙の中にあり、未だ、空や無という、空間は、無い。
ブラックホールという、暗黒物質の世界は、あるが、それは、空でも、無でも無い。在るのだから、だ。
在るものを、空とか、無とは、言わない。

すべて、人の頭で、捏ね繰り回された、言葉の世界である。

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2008年04月04日

もののあわれについて193


高瀬舟 はやこぎ出でよ さはること さしかへりにし 蘆間わけたり

と聞こえたるを、おぼし忘れたるにや、


山べにも 車に乗りて 行くべきに 高瀬の舟は いかがよすべき

とあれば、


もみぢ葉の 見にくるまでも 散らざらば 高瀬の舟に なにかこがれむ

とて、その日も暮れぬればおはしまして、こなたのふたがれば、忍びていておはします。



たかせぶね はやこぎいでよ さはること さしかへりにし あしまわけたり

高瀬舟を、早く漕いで、お越しください。差し支えがありました、蘆の間は、取り片付けています。

と、申し上げ、宮様は、お忘れになったのでしょうか。


やまべにも くるまにのりて ゆくべきに たかせのふねに なにかこがれむ

山の紅葉を見に行きますのも、車で行きますのに、高瀬舟と、言われても、山に近づけるには、どうすれば、いいのでしょう。

と、詠んでこられたので、


もみぢばの みにくるまでも ちらさらば たかせのふねに なにかこがれむ

山の紅葉が、散らずに待っているならば、ともかく、どうして、紅葉を恋焦がれましょうか。高瀬舟で、行くなど、できません。
焦がれている、私の元に、お出でください。

と、お返事しますと、その日の、夕暮れに、お出でになり、女の家が、方、塞がりなので、女を、外に連れ出しました。

方塞、かたふたがり、とは、方位が、悪いという意味。
女の家が、その日は、悪い方位に当たる。
当時は、方違、かたたがい、という、悪い方位を、吉に変えるために、別な方角に、一度行き、そこから、相手先に、向かうという、方法もあった。


このごろは四十五日の忌みたがへせさせたまふとて、御いとこの三位の家におはします。例ならぬ所にさへあれば、女「見苦し」と聞こゆれど、しひていておはしまして、御車ながら人も見ぬ車宿に引き立てて、人らせたまひぬれば、おそろしく思ふ、人しづまりてぞおはしまして、御車にたてまつりて、よろづのことをのたまはせ契る。

このごろは、宮様が、四十五日の、方違をなさるということで、御いとこの、三位の家に、おいでになりました。
いつもの所と、違う場所であり、女は「見苦しゅうございます」と、言った。
宮様は、無理に、女を、人目のつかない、車宿に、連れました。
宮様は、一人で、御宅に入り、女は、恐ろしく思いました。
人が、寝静まってから、宮様は、お出でになり、御車に乗って、色々なことを、話、契りました。


心得ぬ宿直のをのこどもそけめぐり歩く、例の右近の尉、この童とぞ近くさぶらふ。あはれにもののおぼさるるままに、おろかに過ぎし方さへくやしうおぼさるるも、あながちなり、明けぬれば、やがていておはしまして、人の起きぬさきにといそぎ帰らせたまひて、つとめて、


寝ぬる夜の 寝覚の夢に ならひてぞ ふしみの里を 今朝は起きける

御返し


その夜より わが身の上は 知られねば すずろにあらぬ 旅寝をぞする

と聞こゆ。


様子のわからない、宿直の、男たちが、歩いています。
例のように、右近の尉と、童が、車の近くで、お仕えしていました。
宮様は、あはれにもののおぼさるるままに、
しみじみとした、思いに誘われる女に対して、いい加減に、接してきたことを、悔やまれました。また、そう思うことすら、勝手なものだと、思われます。

夜が明けますと、宮様は、女の家まで送ります。
お邸の方が、起きないうちにと、急いで帰られました。
朝のうちに


ねぬるよの ねざめのゆめに ならひてぞ ふしみのさとを けさはおきける

共寝をした夜以来、寝覚めがちな、夢に慣れてしまいました。伏見の里ですが、今朝は、臥すことなく、起きてしまいました。

お返し


そのよより わがみのうえは しられねば すずろにあらぬ たびねをぞする

お逢いしました、その夜から、私の身の上は、どうなることか、解らなくなりました。
まさか、とんでもない、外泊をするなどとは、思いませんでした。

と、申し上げました。

あはれにもののおぼさるるままに
あはれ、に、ものの、おぼさるる、ままに
憐れに、物を、覚えるが、如く、となる。
心に深く、思うこと、感じる、ことなのである。

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神仏は妄想である 63

多くの信仰篤い人々は、宗教がなければ、人がどうして善良でいられるのか、あるいは善良でありたいと望むことができるのか、想像し難いと感じている。

道徳とは何の実際的な関連ももたない他の話題に対する宗教的な態度の背後に道徳的な動機が潜んでいることがあるからだ。進化論を教えるなと主張する人々は、実は進化論そのもの、あるいは科学的な事柄とは何の関連もなく、道徳上の憤慨によって煽り立てられていることが多い。
ドーキンス  第6章 道徳の根源 なぜ私たちは善良なのか ? より


宗教信者は、宗教より、道徳というものが、生まれると、信じている。
しかし、彼らが、他宗教、他宗派に対する時、そこには、道徳的、かけらも無いほどの、行動をするのである。

それを、彼らは、知ることがない。

宗教から、出る、道徳とは、完全無欠に、紛い物である。
要するに、偽物である。

ダーウィン主義の論理によれば、自然淘汰のふるいの目をくぐった生き延び伝えられる、生命の階層秩序のなかで、自分と同じレベルにいるライバァルを犠牲にして生きのびることに成功したものである。厳密にはそれこそが、この文脈で利己的という言葉が意味するものである。問題は、その作用の舞台となるレベルはどこか、ということだ。力点を正しく、後ろのほうの単語(遺伝子)に置いた、利己的な遺伝子という考えの趣旨は、自然淘汰の単位(つまり利己主義の単位)は利己的な個体ではなく、利己的な集団でも、利己的な種でも、あるいは利己的な生態系でもなく、利己的な遺伝子だということにある。情報という形で、多数の世代にわたって生き残るか、残らないかというのは遺伝子なのである。
ドーキンス

それは、利己性の、単位としての意味における、利己的な遺伝子である。

つまり、利己的な遺伝子という、ドーキンスの、道徳に対する考え方に、利己的という、言葉が、先行して、道徳を、考える際に、利己的という言葉が、僭越するということである。それに、対する、誤解を説く。

いわゆる利他行動のうち、それを支えるダーウィン主義的な理論的根拠についてよく解明がなされているもう一つの主要なタイプは、互恵的利他行動「ぼくの背中を掻いておくれ、そしたら、お返しに掻いてあげるから」である。
ドーキンス

一体、宗教が言うところの、道徳から発する、考え方は、何であろうか。
利他行動というものを、宗教では、愛の行為、布施等々を言うが、すべて、布教活動の一環となる。

やたらに、親切に接してくると、思ったら、宗教だったということは、多々ある。

それならば、愛は地球を救うという、気持ちの悪いテレビ番組の方が、まだ、救いはある。
あれは、イベントであり、教えの、強制はない。

実際にそれは、大幅に異なった種のメンバー間でもまったく同じように、おそらくはそれ以上にさえ機能するのであり、その場合は共生と呼ばれることが多い。この原理は、人間のあらゆる交易や物々交換の基礎でもある。
ドーキンス

科学者の、考え方の方が、真っ当である。

道徳の基本は、生きるための、最低限の基礎なのである。

生物界には、そのような相互扶助的な関係がどっさりある。と、ドーキンスは、言う。

自然淘汰は、必要と機会の非対称的な関係において、自分から与えることのできるときには与え、できないときにはくれるようにせがむようにさせるような資質を個体にもたせる遺伝子を選択する。義務を記憶し、恨みを抱き、交換的な関係を監視し、もらうだけでお返しの番がきたときに与えないごまかし屋を罰し、といった傾向も選択され、生き延びる。
ドーキンス

長年に、渡って、人類が築いてきた、利他行為、互恵的利他行為、そして、多種との、共生。
道徳の基礎は、ここにあり、宗教の教えの、云々には、何ら関係ないのである。

更に、ドーキンスは、それらの、誤作動に関して、記述する。

人間は、万物の霊長であるという、勝手な解釈は、何の役にも立たない。
生き延びるために、経てきた、積み重ねた、経験というものが、重要である。

さて、日本では、道徳といえば、孔子である。
論語から、道徳という観念が生まれた。
更に、江戸時代になると、朱子学である。
まあ、中国の書物から、多くを学んだので、儒教、道教、そして、中国仏教である。

教えられる、道徳である。
しかし、人間の心の、発露としての、行為は、古代からある。当たり前である。
その、古代からの行為こそ、ドーキンスが言う、利他行為である。互恵的利他行為、更に、共生というものである。

万葉集を、読めば、すべて、理解できるのである。

親孝行などは、万葉集では、孝行を超えている。
親に対する、恋心である。
親乞う心である。

宗教により、人間が善になるという、考え方は、無い。
宗教が、教えるものは、例えば、仏教だと、来世とか、死後の世界の、地獄、極楽である。
要するに、脅しの、言葉による、道徳的行為を、強要する。
勿論、道徳というものの、何物も無い。
単なる、教義としての、道徳的行為の、推奨である。

それは、実に、計算高いものであり、人間を、取引させる。
一神教になると、それは、実に、甚だしい。

新約聖書で言われる、善きマサリア人の話は、有名であるが、あの土地によって成る、お話である。
イエスの、隣人愛というものも、実に、あの地域性による。
汝の敵と、敵を、最初に想定するという、土地柄である。

別の神を、拝む民を、排斥する地域にあっての、隣人愛を、イエスは、押し広げて、教えた。
というより、それは、イエスの教えというより、セクト教団の教えである。
祖先の時代、私たちは利他行動を近親者と潜在的なお返し屋にのみ向けるような暮らしをしていた。
ドーキンス

イエスの言葉は、それを、押し広げたのである。
つまり、近親者のみではなく、出会う人に、広げたのである。

しかし、それは、画期的なことではあった。


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2008年04月05日

神仏は妄想である 64

性的な情熱(情欲)は、人間の野心のや闘争心の相当大きな部分の背後にある原動力であり、その発露の多くは人間のメカニズムの誤作動の結果である。気前の良さや同情への情熱についても、もしそれが、田舎暮らしをしていた祖先の生き方が誤作動を起こした結果であるとすれば、同じことがあてはまってはならない理由は存在しない。祖先の時代に、自然淘汰が私たちの中にこれら二つの情熱を築きあげるには、脳に経験則をインストールするのが最善の方策であった。そうした規則は現在でも私たちに影響を与えており、もともと機能にとって不適切な効果をもたらす状況においてさえ、この仕組みは変わらない。
ドーキンス

科学者は、実に、冷静に分析するものである。
人間が経てきた、道のり、つまり、ドーキンスは、進化であるが、それが、実によく理解できるというものだ。
この地に、生きるために、人は、学び続けてきたということである。

更に、性欲というものを、このように、分析するという、冷静さは、科学者の面目である。

何度も言うが、日本の伝統では、欲望、性欲も含めて、生きるための、欲望を、恵みと、捉えてきた。

これが、宗教に言わせると、罪になるという、驚きである。
人間の欲望を、支配しての、人間把握であるから、実に、偏りがある。
ただし、支配者が、それを、罪を、避けて生きるということはない。
被支配者には、命ずるが、自分たちは、のうのうとして、欲望の限りを尽くすのである。実に、子供騙しをする。

宗教家を、見よ。皆々、そうである。


そのような経験則は、カルヴァンの予定説で言うごとき決定論的なやり方ではなく、文学や習俗、法律や伝統―――そしてもちろん宗教―――のもつ開明的な影響のフィルターを通じて、現在でも私たちに影響を与えている。性的情熱という原始的な脳の規則が、文明のフィルターを通過して「ロミオとジュリエット」に描かれたラヴ・シーンとして具現化するのとまったく同じように、身内かよそものかを区別する原始的な脳の規則は、キャピュレット家とモンタギュー家の長年にわたる争いという形をとって現れる。やがて、利他主義と思いやり(共感)の規則が最後に誤作動して、いさかいの罰を受けた両家の者たちが和解するというラストシーンとなって、私たちを感動させるのだ。
ドーキンス

カルヴァンの、予定説とは、救いにある者は、すでに決定しているというものである。実に、都合の良い教義である。
要するに、その集団に所属すること、すなわち、救われている者、ということになる。

すべての、宗教は、皆々、そのようである。

偽物の、日本仏教も、最澄の、すべての人に、仏性があるというものである。
悉皆仏性である。
すべての物にも、仏性があるという、耳障りの良い言葉である。

その、仏性に、目覚めることが、悟りであるという。
勿論、仏性が、無い者は、妄想によって、そう思い込むのである。

三蔵法師玄奘は、救われない者もいる、という。
つまり、すべての人に、仏性があるとは、言わなかった。
大乗の教えを網羅し、その、経典を訳した、玄奘である。

最澄の天台宗から、すべて、狂ってしまった。
そして、空海の、密教という、とんでもないモノである。
バラモンの、呪術と、マントラを、真言として扱うという、魔物。
マンダラという、誤魔化しをもって、日本の善人善女を、煙に巻いた。
そして、更に悪いのは、鎌倉仏教といわれる、新興宗教である。

妄想の、経典から取り出した、念仏から、経典の、題目に、帰依するという、仰天である。
真っ当な、神経の者なら、決して、触れないものである。

予定説などは、笑うが、念仏、題目は、笑えないのである。
何故か。
日本仏教の大半が、それである。

彼らは、末法という意味が、よく解っていない。
末法とは、仏陀の、教えが、無に帰すということである。
つまり、末法の世に現れたもの、すべては、仏陀の、教えではないということを、知らない。
魔界のものである。

最大の自己矛盾である、末法思想である。

そこには、知性の欠片も無く、感性の鈍さと、理性の、崩壊があるのみ。

末法の、衆生は、気づかないのでしょう、ね。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれについて194

かばかりねんごろにかたじけなき御こころざしを、「見ず知らず心こはきさまにもてなすべき。ことごとはさしもあらず」など思へば、参りなむと思ひ立つ。まめやかなることども、言ふ人々もあれど、耳にも立たず。

これほどまでに、丁寧で、もったいなくも、宮様のお心を、「知らぬふりをして、心無く、振舞っていたでしょうか。ことごとに対する、障害は、大したことではありません」などと、考えていましたので、宮様の、邸に、参ろうと思いました。
真面目に、忠告してくれる人もいますが、今は、耳に入りません。

「心憂き身なれば、宿世にまかせてあらむ」と思ふにも、この宮仕へ本意にもあらず、巌の中こそ住ままほしけれ、また憂きこともあらばいかがせむ。いと心ならぬさまこそ思ひ言はめ。なほかくてや過ぎなまし。

「心、憂き、いとわしい、この身ですから、前世の縁の、ままに、お邸に、上がります」と、思うにつけても、「この、宮仕え、本意ではありません。世の中の、憂きを、逃れて、巌の中にでも、入りたいのですが、そこで、また、憂いごとが、あったらどうしましょう。
さらに、人が、色々と詮索して、言うことでしょう。
やはり、宿世の縁に、任せて、世を過ごしましょう。

近くて親はらからの御有様も見きこえ、また昔のやうにも見ゆる人の上をも見さだめむ」と思ひ立ちにたれば、「あいなし、参らむほどまでに、びんなきこといかで聞こしめされじ。近くてはさりとも御覧じてむ」と思ひて、すきごとせし人々の文をも、「なし」など言はせて、さらに返りごともせず。

近くにいて、親や、姉妹の、様子を見てあげたり、昔の人の、形見の、子供の将来も、見届けてあげたいと」思い立ちましたので、「くだらない。お邸に、参上するまでは、不都合な、おもしろくない、噂は、お耳に、入れたくないものです。
宮様の、お近くに上がれば、私のことは、お解りになります」と、思い、言い寄ってきた男たちの、文にも、「不在」といって、全く、返事を出しませんでした。


宮より御文あり。見れば、「さりともと頼みけるがをこなる」など、多くのことどものたまはせで、「いざ知らず」とばかりあるに、胸うちつぶれて、あさましうおぼゆ。

宮様から、御文がありました。
見ますと、「まさかと、思い、あなたを信じて、愚かでした」などと、多くのことは、お書きにならず、「いざ知らず」と、あり、胸も潰れるほど、驚き、呆れました。


めづらかなるごとどもいと多く出で来れど、「さはれ、ながらむことはいかがせむ」とおぼえて過ぐしつるを、これはまめやかにのたまはせたれば、「思ひ立つことさへほの聞きつる人もあべかめりつるを、をこなるめをも見るべかめるかな」と思ふかなしく、御返聞こえむものともおぼえず、またいかなること聞こしめしたるにかと思ふにはづかしうて御返りも聞こえさせねば、「ありつることをはづかしと思ひつるなめり」とおぼして、「などか御返もはべらぬ、さればよとこそおぼゆれ。


思ってもいない、おかしな、噂が、今までも多くありましたが、「どのように話されても、事実でないことは、どうしようもありません」と、思い、過ごしてきました。
これ、また、宮様が、真剣に仰せになりますので、「私が、邸に、参るという決心を、耳にした、人も、いるでしょう。宮様に、捨てられて、ばかな目に、遭うことになりそうだ」と、思うと、悲しく、お返事を、申し上げる気も、起こりません。
また、どのような噂を、聞かれたのかと、思いますと、気後れして、お返事、申し上げませんでした。
宮様は「先ほどの、私の文に、気後れしているようです」と、思われ、「どうして、お返事を、下さいませんか。はやり、噂は、事実だったのですか。本当に、早くも、心の変わる人ですね。


いととくも変る心かな。人の言ふことありしを、よもとは思ひながら、「思はましかば」とばかりに聞こえしぞ」とあるに、胸すこし開きて、御返気色もゆかしく聞かましくて、「まことにかくもおぼされば、

人が、噂をしていましたことを、まさかと思いましたが、思はましかば、という、気持ちで、申し上げた、だけです」と、お書きになられましたので、女は、ほっと、胸を開いて、宮様の、ご機嫌を、知りたく、思いました。
そして、「まことに、そうお思いならば、

人言は あまの刈る藻に しげくとも 思はましかば よしや世の中
古今集 伊勢の歌



今の間に 君来まさなむ 恋しとて 名もあるものを われ行かむやは

と聞こえたれば、


君はさは 名のたつことを 思ひけり 人からかかる 心とぞ見る



いまのまに きみこまさなむ こいしとて なのあるものを われゆかむやは

今すぐにでも、お越しください、宮様。恋しくても、名のある方の元、私の方からは、行くことが出来ません。

と、申し上げますと、


きみはさは なのたつことを おもひけり ひとからかかる こころとぞみる

あなたは、浮名の立つことを、恐れているのです。
相手によって、そういう、気持ちになられるのです。

人からかかる 心とぞ見る
人から、そのように、見られると、思う心、だと、思います。


これにぞ腹さえ立ちぬる」とぞある。「かくわぶる気色を御覧じて、たはぶれをせさせたまふなめり」とは見れど、なほ苦しうて、女「なほいと苦しうこそ、いかにもありて御覧ぜさせまほしうこそ」と聞こえさせたれば、

名が立つどころか、腹さえ、立ちました」と、御文がありました。
女は、「私が、こんなに、困っていますのに、それを、御覧になって、からかって、いられるのでしょう」と、思いしまたが、それでも、心苦しく、思われ、「やはり、切なく思います。どのようにしても、私の心を、お見せしたいと思います」と、申し上げますと

この物語の、最も、難しい場面である。

二人の噂は、大鏡にも、書かれるほどの、噂だった。
歴史的、噂である。

奔放な女。
亡き夫の、弟と、契る女。
貴族社会の、格好たる、噂である。

恋心と、噂と、二人の立場の、入り乱れた、感覚である。

だが、噂をするのは、男たちである。
女たちは、ひっそりと、耳をそばだてていた。
見苦しきことではあるが、一抹の、開放的、気分を、味わっていたのかもしれない。

男の、気まぐれに、翻弄される女の、時代である。
和泉式部の、やり方は、大胆不敵である。
要するに、恋をリードするのである。
女、だてらに。

この、日記物語の、価値は、もののあわれ、を、飲み込んだことである。
または、もののあわれ、の世界に、身を投じたことである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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