最澄の修行方法のうちに、念仏行も、行われていた。
源信が、往生要集を書く以前に、貴族、知識階級の一部に、念仏は、徐々に広がっていた。
平安期の、王朝文化、および、文学を、理解するには、それを、知っておく必要がある。
空也のように、民間に念仏を広めた者もいる。
法然の、専修念仏は、後のことである。
私見を抜きに、この頃の、仏教を見渡すと、矢張り、宗教に、特異の罪と罰、地獄の思想が、表れる。
さらに、死後の裁きである。
それらは、新しい思想である。
罪と罰の思想、さらに、地獄の、観念、穢土と、極楽の観念、そして、末法という観念である。
末法とは、仏陀滅後、仏陀の教えが、伝えられない、壊滅するという、考え方である。
仏に、救いを、求めるしか、方法がないというところまで、追い詰めた思想が、平安期を、覆ったのである。
王朝の危機感は、女房文学の場合、主として無常感、宿世の思い、念仏の心として描かれるだけである。地獄の和風的表現などみあたにない。色好みから生ずる罪の自覚はあるが、刀葉林のような強烈であくどい描写を好まず、また罪をあのようなかたちで確認することへの嫌悪があつたのだろう。或いは「神ながら」の「祓」の形式が、なお根強く存在し、仏教的罪悪感のなかに混在していたことも考えられる。
亀井勝一郎 日本人の精神史研究
外国、特に、中国からの、多種多様な、書物が伝来しての、観念の洪水のような、精神状態の中で、知的困惑は、甚だしかったといえる。
更に、この頃から、顕著化するのは、出家である。
夫を亡くした、女房が、夫を弔うために、出家するという。それは、江戸時代まで、続く。
日本にて、出家するという意味が、変化するのである。
仏門に入るということは、修行者になるということであるが、そういう意識ではない。出家は、未亡人の、当然の帰結という姿になる。
勿論、男性の出家の場合も、僧になるというより、その精神的覚悟という方が、強く作用した。
万葉集には、厭離穢土という、この世を、穢れた所という意識は無い。皆無である。
何故、仏教は、この世を、厭離として、忌み嫌うようになるのか。
死後の世界にも、地獄、極楽、天国などという、観念はない。
死者の魂は、肉体を離れて、山に帰る。さらに、山から空へ飛ぶ。あるいは、海原に流れて消える。それらは、皆、隠れると、表現した。
死と、死後の世界について、深く思索することはなかったが、する必要がなかったともいえる。それは、自然の中に、隠れるということで、解決していたからである。
死を悲しむ、挽歌を多く詠んだ、万葉集であるが、それ以上のものは、無い。
仏教により、死と、死後の世界を考える観念が表れると、挽歌を詠むことも、なくなってゆくのがわかる。
ここで、私見を挟むと、誠に、迷惑な、観念であった。
文学的思索としては、価値があるが、宗教、信仰としての、価値は、無い。単なる、観念まみれである。
仏陀滅後、様々な観念を生み出してきた、仏教、諸派の解釈による、観念である。
教義としての、観念である。
知的遊戯としての、教義であると、私は言う。
さて、そんな中での、和泉式部日記である。
和泉式部も、出家を考える。また、石山詣でもある。
彼女も、当時の仏教に帰依する姿がある。しかし、それも、一つの、当時の、流行のようなものであると、私は、考えている。
浄土教の、影響は、当時の人々に、特に、厭世観というものを、植え付けたことは、否めない。
それが、更に、中世へと、受け継がれていく。
救いというものを、作り出されていった、過程における、精神史である。
この世を、厭離穢土としての、そこからの救いであり、更に、仏への、救いという、恐ろしく、曖昧なものへの、救いである。