2008年02月13日

タイ・ラオスへ 帰国してから

矢張り、胃腸の調子が、悪く、一週間ほどは、下痢を繰り返した。
帰国した、翌日は、熱も出たほどだ。

あれが、悪かったという、一つの食べ物ではなく、複合的なものだったと、思う。

水で洗った、生野菜、店先で焼いている肉など、そして、スープの水である。暫くの、沸騰だといいが、ある程度の、沸騰だと、菌が殺せない。
腸内細菌の、有り様が、あちらの食べ物に、負けるのだ。

長期滞在だと、それも、しょうがない。
あちらの、菌に慣れるのみ。

ただ、鳥インフルエンザが、人に、そして、人から人にと、新型インフルエンザが、世界的に広がるという、話である。
また、新しい病気が、増えた。

ただ、私は、バリ島や、タイで、放し飼いで、飼っている、鶏などを見ている。その命を、いただいて、命を繋ぐ。そういう、命の、交換の、有り様を見る。
子供たちも、生き物を食べて、生きるという、学びをする。日本には、無い、教育である。

放し飼い 鶏つぶし 食べるのは 命の教育 極まれるなり

生き物を 食べて命を 繋ぐなり それを忘れし 人は愚かと

その鳥から、異常な菌が出るとは、何とも、複雑な思いである。

そして、ラオスのことである。
見ないと、思い、入らなかったが、矢張り、支援をしたいと、次は、直接ラオス入りしょうと思う。
子供服のリサイクルである。

野中が、渡したという、皆々の写真を見て、矢張り、やろうと、決めた。
資金は、何とかなると、思うのみ。

原油高は、貧しい人を、益々、貧しくする。
ノーン・カーイでは、普通の店先に、ウイスキーの瓶に詰めた、ガソリンを売っていた。それも、半分程の量である。
走る分量だけ、入れるのだろう。

ラオスでは、廃車となる車を乗っているという。
さらに、酷い状況である。
車を使う度に、バッテリーに電気を入れるという。

勿論、それぞれの国のことは、その国の、政治の問題であり、関与できないことである。
ただ、言えることは、主義など、どこ吹く風である。
政治家は、支配者層に入り、一人勝ちである。
共産、社会主義も、幹部になれば、良い生活が出来る。
社会体制など、ナンボのものでもない。

兎に角、国民、民が、幸せであること。
広く、富が分配されること、これが、理想である。
しかし、それが、歴史のテーマでもあった。未だに、解決するような、思想は、生まれない。

富を独り占めする者たちとの、戦いである。

生き物の化石の、石油で、溢れるはがりに、金を得ている人々がいる。
ドバイを聞くが、どれほど、持つだろう。
石油の権利を有する者、王だというから、呆れる。

アラブの金持ちに、憧れることはない。

地獄とは、この世のことである。
格差甚だしく、世界の七割が、飢える。

GMP二位の日本が、十二位になった。
貧しいインドも、日本より、長者が多い。

誰も、日本の貧しい子供たちのためにと、世界から、ボランティアに来ることはない。
しかし、インドの貧しい子供たちのためにと、日本人が、ボランティア活動をしている。
矛盾である。

格差といえば、インドの格差は、天文学的格差である。
最も、ヒンドゥーは、金持ちに生まれるのは、前世の行いが良かったからであり、貧しいのは、前世の行いが、悪かったと、単純に考える。
だから、貧しい人を見ても、平然としている。

インド独立の、ガンジーは、立派な人であるが、彼は、また、仏教徒を、最低最悪の、環境に置いた。
カーストにも、入らないという、最悪の身分を得ている。

マザーテレサも、尊敬される、行動を起こしたが、何一つ、インドの考え方に、影響を与えなかった。
キリスト教世界に、大きな影響を与えたが、それならば、詮無いことである。

マザーテレサが、宗教ではなく、人道として、人類愛の行為として、語れば、もう少し、世界に影響を与えた。
神様のために、素晴らしいことをと、言い、逃げてしまった。
キリスト無くして、彼女の行動は無い。

どんな理由であれ、良いことをするのだから、いいのだと言えば、それで、終わりである。

NPOヤクザというものがいる。
善を成しているという、前提の元に、私腹を肥やすという、輩だ。
どんな理由であれ、良いことをするのだから、いいとは言えない。

寄付商売というものがある。
それは、また、乞食商売とも、言う。

説明するまでもない。
私も、その一人である。
その自覚を、持っている。
支援を受けて、行動する。
自分を律する力が必要である。ゆえに、私は、法人を取らない。あくまで、個人活動である。興味があれば、私と、一緒に行動すれば、いいのだ。

私が、何をしているのか、その目で、見ればいい。

何を言うのかではなく、何をしているか、それが、問題である。

ラオスに、野中一人を送り、支援の子供服を、配らせた。
野中が言う。
偽善的行為のように、思えて、本当に、勇気がいたと。
しかし、それをして、皆の顔を見て、偽善的行為でも、何でもいい、皆が、喜んだ。そして、それは、日本の、皆から、貰ったものである。
単に、自分は、橋渡しをしているだけだ。
更に、村の人々が、野中を仲間のように、扱ってくれた。
村を案内された。
友人になった。
私は、それで、いいと、思う。その他に、望むことはない。

布教でも、主義でも、主張でもない。
ただ、友人としての行為である。それで、いい。

偽善か、否かは、私の心一つの、問題である。

ある有名、カトリック作家は、ヤクザからでも、寄付を貰うと、言った。お金は、使い方であると。
あえて、カトリック作家というのは、彼女が、それを望むだろうと、思うからである。

善と偽善の間にあるものは、私一人の心の、問題である。

野中は、以前の自分ならば、鼻で笑った行動であったという。

つまり、多くの人は、鼻で笑うのであろうと、思う。
しかし、やらないより、私は、やるのである。それは、私だからである。

追悼慰霊行為というのは、誰も、理解できない行為である。
つまり、それは、目に見えない世界を扱うからである。
そして、理解されることは、皆無に近い。
そのついでに、私は、支援活動を行うのである。

その程度の行為である。

恥ずかしき その行為でも やらぬより やることを取る それ私ゆえ

中学三年の冬、私は、募金活動をしていた。
突然、その時、顔から、火の出るような、恥ずかしい思いに、とらえられた。
それから、ボランティア活動を止めた。

ただし、頼まれると、引き受けていたが、私が積極的にすることはなかった。

ボランティアは、ラテン語の、ボルンタスという語から出た。
意味は、生きる意味意識である。

その行為は、生きる意味意識を得ることなのである。

それでは、人生、ボルンタスである。
すべてが、それである。

私は、精々、殺されぬ、程度の行動を、心がけて、やることだと、思っている。

勿論、後は野となれ山となれ、野垂れ死にを、希望の人生であるから、どうでも、いいのだが、まあ、その程度だと、言う、つもりである。

それにして、日本は、良い国である。
安心して、水道の水を飲める。
水を飲んで死ぬことがない。

水は、命である。


posted by 天山 at 12:28| H20.02 タイ・ラオスへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 25

宗教は大いに必要とされる断絶を埋めるのだろうか?脳には、神によってつくられた満たされるべき隙間があるということがよく言われる。つまり、私たちは神―架空の友、父、兄、懺悔を聴いてくれる人間、秘密を打ち明けられる人間―を求める心理学的欲求をもち、神が実際に存在しようとしまいと、その欲求は満足させられなければならないというのだ。しかし神は、私たちがほかの何かで満たしたほうがいいような隙間をふさぐ邪魔物であるということはないのだろうか?隙間を埋めるべきものは何だろう? 科学?芸術?人間の友情?人道主義? 死後のあの世の人生を信じずに、この世の人生を愛すること?自然への愛、あるいは偉大な昆虫学者E・O・ウィルソンがバイオフィリアと呼んだものか。

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第10章より。

いつのころからか、宗教は人間の生活において四つの主要な役割、ちなわち説明、訓戒、慰め、霊感を満たすものと考えられてきた。歴史的には、宗教は私たちが存在する理由や私たちのいる宇宙の性質にかんする説明役たらんとしてきた。この役割は、現在では完全に科学に取って代わられおり、・・・・

メソポタミアで、星の観測をしていた、ゲイたちによって、占星術と、天文学が、生まれた。それが、歴史を経て、明確に区分けされた。
今では、占星術と、天文学は、同席しない。
唯一、心理学の分野において、ユングから始まるが、人間の心理に影響するものとして、一目、置かれている。
ユング研究所では、東洋の、易も、研究されて、身につける、学ぶことが、出来る。
共時性の法則を、確認するためである。

科学は、宗教の役割を、大幅におっているのが、現代である。
そして、それは、証明される。

天動説を主にしていた、カトリック教会も、地動説を唱えたガリレオを、許す以外になくなった。証明されたからだ。
そういう、事項は、多々ある。有り過ぎる程ある。

宗教が、掲げる教えは、すべて、人間の頭の中で、肥大化した、妄想を掲げてきた。
しかし、もう、その限界は、とうに、過ぎた。それでも、宗教が、こうして続いているというのは、何か。
単なる、惰性である。

宗教によって、潜在意識までも、占領され、略奪されたのである。そして、それが、集合意識までに至る。


ドーキンスは、アメリカの心理学者ジュンアン・ジェインズの、神々の沈黙を取り上げる。

ジェインズは、多くの人間が自分自身の思考過程を、頭のなかにおける「自己」ともう一人の主張者の一種の対話として知覚していると書いている。――もし、理解していなければ精神異常者として扱われる。これは、短期間ながら実際にイーヴリン・ウォーに起きたことだ。率直にものを言うたちのウォーは、友達にこう語った。「私はあなたに長いことお目にかかっていませんが、でもそのころは私はほとんど人に会っていなかったのです。なぜならーご存知だったでしょうか?――私は頭がおかしくなっていたのです」回復してのち、ウォーは小説「ギルバート・ビンフォールドの世界」を書いたが、この本は彼の幻覚期のことと、彼が聞いた声について書かれている。

人間は、幼児期に、現実のような、幻覚を見る。
それは、学童期まで、続く。
年を取るに従って、それが、消えるか、もしくは、見なくなる。

ドーキンスは、幼形進化という言葉を取り上げている。
それは、子供の形質が、成体に持ち込まれることである。

結論を言えば、精神の幼形進化が、宗教のもの、宗教の妄想を、支えると、私は、解釈した。

幼児期に思い描いた、人間ではないものを、成人してからも、精神に影響するということである。
それが、安らぎを与え、慰めを与えてくれる。
要するに、自分を褒めて、慰める、もう一人の自己であり、幼児期に、幻覚で見た、懐かしい、ある、物である。

私の知り合いに、二人程、幼児期の、それらの、記憶がある人がいる。

一人は、男であり、幼児期から、大柄な西洋人に似た男が、語り掛けるというものである。
もう一人は、女で、お風呂に入っている時に、排水溝から、小人たちが、数人上がってきて、会話したという。
忘れていた頃に、大柄な西洋人のような男が、再び、語り掛けてきたという。その時、彼は、人生の最大の危機、辛い苦しい時期を生きていた。
彼には、宗教は無い。

西行が、伊勢神宮に、お参りした時に、歌う。
なにごとの おわしますをば しらねども かたじめなさに なみだこぼるる

何事が、いるのか、解らないが、何かの存在感を感じて、有り難く、涙が出るというものである。
これは、精神の、幼形進化であろう。
それは、否定するなにものもない。

幼児期は、あらゆるものに、畏敬の念を起こすのである。
宗教体験というならば、それの、原型である。

これ、以上に私の言葉を書き進めると、情になってゆくので、ドーキンスに戻る。

いよいよ、神が私たちを慰めるさいに果たす重要な役割と、もし神がいないとすれば、何をその代わりにおくべきかという人道的な難題に直面するときだ。神などおそらく存在しないし、人は神がいなくとも道徳心を発揮するだろうと認める人は少なくないのに、それでもなお、これは奥の手だとばかり、「やっぱり人は神に対して、心理的・情緒的欲求をおぼえるものではないか」と反論される。もしあなたが宗教を取り上げるとしたなら、その空いた隙間を代わりに何でふさいでくれるのだろうと、食ってかかるのである。死にかけている両親に、身内に先立たれて泣いている人に、神がたった一人の友達だった孤独なエリーナー・リグビー(ビートルズの同題の曲で歌われている身寄りのない老婆で、架空の神父と会話する)たちに、代わりに何をあてがうというのか、と。

そう思わせておけと、人は言う。
それも、正しい。
幻想の中にいることは、幸せなことである。

痴呆という、状態は、完全に、我の中に入って、他は無いのである。
本人は、実に、幸せである。宗教を信じる者、それに、似る。
その程度で、いいのである。

ただ、困るのは、痴呆の人が、痴呆ではない人に、痴呆に、なれと強制する時である。それは、大変に、迷惑である。

布教、宣教、折伏という、宗教行為である。

一人で、遊んでいるうちは、何の問題も無い。しかし、それを、人にも、強制するようになると、穏やかではなくなる。まして、それが、正しいというのである。

誠の神の教えなど、どこにもない。
皆々、人間が、想像した、教えである。また、勘違い、妄想である。
例えば、理論的に、納得するような、神の教えであっても、人に強制するのは、完全に誤りである。

それは、人間の本来持つ、自由を侵害する行為であり、それこそ、大罪である。

何故、自分の信じる神仏を、人に、布教するのかは、信仰に、不安だからである。
信仰とは、完全、自己完結のものである。

自己完結していない人は、不安で、仲間を募ろうとする。それが、布教であり、宣教である。

イエスキリストは、地の果てまで行き、伝えよと言うが、あれは、創作である。イエスキリストは、そんなことを言っていないのである。
イエスキリストは、あくまでも、ユダヤ人に対する、神の教えを、説いたのである。
パウロの、教えが、地の果てまでである。故に、あれは、パウロ教団である。
現在の、キリスト教の大半は、パウロ教と言っていい。

パウロについては、いずれ書く。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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