2008年02月11日

タイ・ラオスへ 11

タイ・ラオスへ 11

14日、ゲストハウスを後にして、ウドーン・ターニ行きのミニバスが出る場所に着いた。

私は、夏大島を着た。更に、単の紺の大島の、羽織である。
全くの日本人である。
夏大島は、白であるから、目立つ。
ゲストハウスの、清掃のおばさんが、すぐに見つけて、近づき、オー、オーと、声を上げていた。

この地に、着物で来る日本人は、いないだろう。

ミニバスだと、思っていたが、普通の乗用車であった。
お客が、三人であるからだろう。
私たちの他には、黒人のおじさんが一人だった。

Pm3:15に、出発した。
それが、また、早い。スピードを出すのである。
15分程走ると、検問のようなものがあり、車が、止められた。
警官もいる。
女の子といえるような、年齢の子が、何かを運転手に話ている。
運転者が、それに、答えた。
意味は、全く、解らない。
すぐに終わり、再び走り出した。

それが、きっかけで、皆で話合うようになった。
野中が、どうしたんですかと、訊いた。少し、タイ語が解るが、内容まで、解らなかったのである。
運転手が、一ヶ月の給料を、訊かれたと言う。
私が、エッーと、声を上げて、英語で、いくらですかと、尋ねた。
6000バーツだった。約、2万円である。

今度は、黒人の携帯電話が鳴った。
その会話を聞いて、私は、野中に、何語なのだろうと、言うと、フランス語かなーと、言う。そして、私に、訊いてみたら、と言う。
それにしても、フランス語の語感が、感じられない。

私は、英語で、どちらからですか、と尋ねた。
すると、黒人は、コートボワールというではないか。アフリカである。
エッー、私は、声を上げた。

黒人の方は、私に、ジャパンと、訊く。
イエスと言うと、握手を求められた。
英語で、話出した。
日本にも行く、これから、中国に行きますと。
私は、どんな仕事をしているのですか、と、中学二年生程度の英語で、訊く。

彼は、何と、商人である。
中国でも、商売をしていて、色々と見て周り、新しいビジネスを、探していると、言う。
ヘェー、私は、声を上げた。
そして、更に、英語で話し出した。
よく解らないから、野中にバトンタッチである。

半年後に、日本に行くので、私に、電話番号を教えて欲しいと言う。
野中が、すぐに、携帯の電話番号を書いて渡した。

その内に、彼の電話が鳴る。
話の内容から、相手は、女ではないかと思えた。
さらに、また、電話である。
英語や、母国語、色々と、混じる。
続けて、電話が多かった。

今夜は、バンコクに泊まるということが、解った。そして、女と会うことも、解った。
私たちは、日本語で、色々、女いるね、と話した。
中には、家族からではないかと、思える電話もあった。

それにしても、身軽である。
小さな、バッグ一つである。
野中の分析は、要するに、ビップなのだという。ホテルも一流に泊まり、余計な物を、持ち歩かないのだと。
携帯電話は、二つある。

私は、とんでもない人に、会ったのかもしれないと、思えた。

車は、猛スピードで、道路を走る。高速道路並みである。

対向車線の、間にあるスペースには、一定間隔で、国旗と、王旗が、たなびく。
本当に、タイの国は、その、旗を多く見る。
至る所に、掲げてあるのだ。

王室のマークも、覚えてしまった。
王様の、Tシャツを着ている人も、ひと目で解る。
さすがに、ノーン・カーイでは、他の土地より少ないが、着ている人がいた。

私は、国旗と、王旗を見るたびに、いつも、タイ国民の心意気を感じるのだ。
私たちは、タイ国民ですという、意思表示である。

国民の、95パーセントが、国王支持であるから、驚く。

現在の、プーミポン国王は、ラッタンナコーシン朝の第9代の国王である。
ラーマ九世とも、呼ばれる。
2006年六月に、在位60周年を迎えた。
その式典の日に、私は、バンコクにいた。
人々が、皆、国王の黄色のTシャツを着て、バンコクが、黄色に染まっていたことを、思い出す。

空港に着いて、飛行機が、三時間遅れであることを知り、愕然として、空港の中を、ブラブラして、私は、外に出て、タバコをふかし、出入り禁止の扉から、出入りしていた。
警備の男たちと、仲良くなったせいもあり、誰も、咎めないのである。

空港に入るのに、検査があり、出たら、再度、入り口から入るのである。が、私は、出口から、出入りしていた。
タイでは、禁煙政策が取られて、実に厳しい。

一人の、警備の若者に、ユー、ナイスガイ、本日は、バレンタインデーである。沢山、チョコレートを貰うだろうと、話しかけた。相手は、少しだけ、英語が出来るのが幸いした。
それで、色々とやり取りした。すると、警備員が、集ってきた。
兎に角、何でもいいから、話し掛けることである。

こちらから、飛び込んで行けば、相手も、胸襟を開く。特に、タイの人は、優しい。

一人の警備員が、俺は、一人もいない、という。ガールフレンドだ。
悲しいと、涙を流すまねをするので、私が、タバコを一箱上げた。
喜んだ。すると、色々と自分のことを、話す。この付近に住んでいるだの、家族のこと。ありったけの、英語で喋る。
よく解った。

ちなみに、タイでも、バレンタインデーは、お祭りである。
新聞には、この日の、男女間のセックス相談員の記事が載っている程である。

警備員とは、それで、仲良くなり、出口から、出入りして、時間を潰していた。

さて、搭乗時間、一時間前になり、私たちは、待合ロビーに入った。
その前で、検査がある。
ビーと、鳴る。
着物の袖のものを、すべて出す。
ペットボトルは、駄目なはずだが、検査官が、いいよと言う。
ビーと鳴る。
ああ、またかと、思った。
しかし、検査官は、丁寧に、私の体に、棒を当てて、検査した。何でもない。
オッケーである。

私が、特に書きたかったのは、ここからである。
待合ロビーには、テレビが何台か、つけてある。
六時になった。
その時。どこかで、聞いたことのある、メロディーが流れた。
すると、ロビーの雰囲気が、変わったと気づく。
それでも、私は、椅子に腰掛けていた。すると、野中が、私に、起立だよと言う。
はっとして、すぐに、起立した。
見ると、向こうの欧米人も、起立している。
国王の歌が、流れたのである。

ロビーにいた人々が、全員起立した。
国籍、関係なくである。

欧米人たちも、国家意識が強いから、こういう、作法を、当然だと思うだろう。
日本人は、私たち、二人のみである。

もし、ここに、日本の若者がいたら、何のことか、解らない。解っても、関係なと思い、平然として、腰掛ていたかもしれない。そういう、教育が、されないからだ。

タイでは、僧侶と、国王に対しては、特別の敬意を払うのが、当たり前である。
旅人でも、である。

国王に対する、不敬は、国民が許さないだろう。

日本の天皇に対する、作法が、こうでないことが、有り難いし、また、ある意味不幸なことである。国家意識の、希薄である。
国家の意識を持てないでいる、子供たちから、若者である。勿論、今では、中年、老年に至るまで。
ホント、幸せなことである。

国王は、タイの、民主化を推し進めて、象徴たろうとしている。
日本の天皇は、憲法で、象徴である。
タイの国王の歴史は、200年ほどである。日本は、2668年である。
世界に冠たる、天皇の歴史である。

大陸にあり、多くの国との、軋轢等々により、国家意識を、強く持つことで、歴史を作ってきたのである。当然の帰結で、国王を国として、置き換えて、敬意を払う。
真っ当な感覚である。

国家幻想の、一番良い方法なのではないかと、私は、考えている。
軍事政権の将軍より、遥かに良い。
ネパールのように、国民に、退位を迫られた国王もいる。余程、愚かだったのだろう。
国家幻想に、象徴がある方が、安定するのである。

物ではなく、人間が、介在した方が良い。

遅れていた飛行機の時間だが、その時間より、40も早く、機内に入ることが、出来た。
私は、座席に座り、そのまま、寝てしまった。
目覚めると、もうすぐ、バンコクだった。


posted by 天山 at 12:26| H20.02 タイ・ラオスへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 24

あくまでも人間の全体が生きているところに、人間性の深みが存在する。そして、人間の全体とは、しゃばに生きている人間の現実の生活の全体以外の何ものでもない。「人間性の深み」が虚妄になるのは、それを特別に担当する部門として宗教が立ち現れる時である。(宗教でなくても、精神でも道徳でも、あるいは文学でも、ことは同じである)。「人間性の深み」を特別に担当する部門が作られれば、「深み」が人間性そのものから切り離されて、虚妄になる。

田川氏の、これを、読むと、如何に現実が絶望的であるかが、解る。
宗教は、糞の役にも立たない言葉を、妄想を語って、平然としている様、明らかである。

しかし、それに、気づかないのである。

現実から、遊離したところで、生きるということを、語る。神や仏という、手品のような、存在を利用してである。

小児科医、産婦人科医が、減少して、精神科医が多くなっている。何故か。
楽して、金になるからである。
心療内科などは、初診の際に、それなりに、話は聞くが、以後は、薬を処方するだけである。処方で、金になる。
治癒などしないから、いつまでも、患者は、良い客である。

医者が、人を助けるという、奉仕の精神から離れて、金儲けとしての、商売になったのである。
医療が、商売に堕落すると、本当に、人間は救われない。

このような、精神的状態を作り出したものは、何か。
誰の、教育か。

さらに、教師の精神疾患である。休職する、教師の半分が、精神疾患である。

現実である。

文部科学省も、日教組も、何の手を打てないのである。
スローガンだけは、一人前である。
支配層に入ると、皆々、このようになる。

事件は、現場で、起きている。
まだまだ、例はある。
しかし、省略する。

人間の全体とは、しゃばに生きている人間の生活の全体以外の何ものでもない。
田川氏の、言うとおりである。

マスコミ等々も、それを報道して、のうのうとして、犯人探しをする、程度で終わる。

環境破壊についても、そうである。
テレビ朝日は、古館という、アホを前面にして、このままでいいのか。一人一人の自覚と、環境に対する云々というが、その、古館が、どんな生活をしているのか、何も、言わない。こういう、偽善が、まかり通るのである。

虚妄である。

更に、虚妄なのは、宗教である。
実は、田川氏が言うより、宗教の実体は、酷いのである。

虚妄ならば、まだいい。詐欺である。

鎌倉、鶴岡八幡宮という、神社がある。
あれは、昔、寺であった。源頼朝は、鶴岡八幡宮寺として、建立した。
明治に、神社となった。

私の知り合いが、子供の祈願をお願いした。
五千円、八千円、一万円の、お祓いコースがある。
一番、安いコースにした。すると、裏にいた、神主が、舌打ちをした。なんだ、五千円かと。
こういう、ことである。
それで、神職というから、笑う。

あすこに、降りる神は、いない。
それならば、その横にある、正一位の、稲荷の方が、まだ、ましである。

鎌倉に住み、私は、深夜、八幡宮の前に行き、祝詞を唱えて、その、神の様を感じようとした。
虚無である。

太鼓持ちの、霊能者もどきが、神の波動の強い神社の一つというが、大嘘である。

御祓いに、コースをつけるという、虚無である。
巫女に、尋ねた。何が違うのと。
お渡しする物が、違いますと言う。

全く、商売ではないか。

あそこで、清め祓いしたものに、神気など、宿るわけが無い。
程度が知れた。

寺だった場所が、無理やり、神社にされたのである。
私は、二度と、拍手を打つことがない。

実に、解りやすい例を上げてみた。

日本人の潜在的信仰心を、利用しての、商売であるから、最も、罪が重い。
高天原霊界とは、勿論、富士霊界とも、何の関わりが無い。
あの、神社の上空に、精々神の世界を創造しているのみである。
そんな者が、感応しては、具合が悪くなるだけである。

何故宗教では近代合理主義の「知」を克服できないか。暴力的な技術の発達を知性の勝利と呼び、資本の論理に見合う合理性のみを合理性と呼んできた近代合理主義は、その結果生じるさまざまなゆがみ、ひずみの応急手当を宗教の手にゆだねた。近代になって滅びるかと思われた宗教は、こうしてむしろ近代にこそ自分独自の居場所を見つけることができて喜んだ。近代合理主義からこぼれ落ちる非合理の側面にこそ宗教の真理があると思った。けれども、近代合理主義が暴力的につっ走るからこそ、ゆがみひずみ痛む部分が生じるのであって、近代の「宗教」がその部分を非合理の真理として珍重している限りは、近代合理主義を克服することを目指しているようでありながら、実はそのおこぼれにあずかっているにすぎないのである。

ここまで、言われても、宗教は、何も言えない。
そんな、問題意識もないにも無い。
相変わらず、天国、地獄や、極楽等々の、荒唐無稽のお話に、始終する。
そして、ご供養とか、念仏三昧、題目によって、宿命転換をと、大嘘を言う。

カトリック教会では、信者は、教会の中では、平和の祈りをあげて、平和を演じするが、外に出ると、鬼になるという驚き。
キリスト教カルト集団は、おたく、のように、引き篭もり、その仲間と共に、妄想の中に浸りきるという、仰天。
どこから、出てきたのか、千年王国などという、アホのような話に、大の大人が、傾倒するという、狂いである。
自分たちだけは、神の国に入ると、信じる。勿論、神の国ではなく、悪魔の住まいに入るのであるが、そこを、神の国だと、信じるきるという。ホント、哀れである。

大乗経典の、嘘八百の経典を持って、仏陀の最高の教えであると、声高々に言うアホども。仏陀は、一言も、そんなことは、言わないということを、知らない。
実に、世の中が、無明なのではなく、その本人が、無明であるとこを、知らないのである。

宗教信仰も、今の世の中の「知」のあり方はどうもおかしいと感じ、それを克服しなければならないと願う初発の力になることができる。その意味では近代における宗教信仰の意味を評価する必要もあろう。けれども、初発の力にとどまっていては先に進めない。宗教は初発の力を生み出すが、初発の力を越えて先に進むことを妨げる。
無知に居直っても、知性の荒廃は救えないのだ。いま必要なことは、そこらあたりにころがっている「知」をはるかにこえる深く鋭い洞察力を全人間的に、かつ全世界的なつながりをもって、養うことではないのか。

無知に居直ると、田川氏は、言う。
宗教は、無知に居直っているのである。そして、堂々として、無知に居直るというのが、また、宗教である。

鋭い見識は、また、初発の力を越えて先に進むことを妨げると、言う。

信者を支配することが、出来るという、傲慢が、そうさせる。
信者は、アホだから、どうにでもなると思うのである。
信じる者は、一度信じると、いくらでも騙せると、信じる。

織田信長が、比叡山を焼き討ちした。
非情な命を下した。
女子供に至るまで、皆殺しにせよ、である。
その先頭に立った、秀吉は、女子供を殺すのに、忍びないと、逃す。
しかし、ほぼ全域を、焼き討ちした。

僧たちの、堕落極まりない所業を見ての、信長の怒りである。
その当時、信長は、キリスト教宣教師の、命がけの、宣教の様に、驚いていた。
この教えに、何かあると、見抜いた。
宣教師と、僧侶との、対決も、目の前で見た。

焼き討ちするしかないと、決断した。

それは、それで、一理ある。
しかし、その後、秀吉は、政治家の勘で、宣教師の本質を見抜いた。
植民地政策の、変形したものであると。
彼らの教えに、従うと、日本国の、根幹が、揺らぎ、果ては、日本国が崩壊し、キリスト教国の、植民地になると、察した。
キリシタン禁制である。

秀吉は、キリスト教徒に、最も、相応しい、殉教という、僥倖を、皮肉にも、与えた。
長崎の26聖人として、ローマカトリックから、聖人に上げられた者を、生み出した。

九州のキリシタンの資料は、多くあるが、実は、蝦夷地、北海道にも、キリシタンたちは、逃れている。その様は、地獄のようなものである。

教えに生きるという、無知蒙昧は、計り知れない犠牲を生む。

その、淡々とした、人生の様に、意義を見出すのは、至難の業である。しかし、宗教は、そこに、大きな希望と光を与える。
我らは、神の子。ゼウスの元に、集え。

どんな、苦難を受けても、信仰を守るという、人生の目的意義を見出す。
人生とは、何か。
宗教とは、何か。
そして、生きるとは、何か。

それに、宗教は、答えない。
勿論、答えを出すが、それは、知性ではない。まして、感性でもない。
蒙昧であり、無明である。

潜在意識の、広大な世界にある、広大無辺な領域に、一滴の水を垂らすのが、宗教である。
それを、救い、という、妄想に高めるのである。

つまり、潜在意識の、不明に、救いという観念を植え付ける。

目の前で、自分の子供が、無残にも、殺されるのを見る、キリシタンが言う。
どうぞ、殺しくだされ、我らは、ゼウスのハライソに行くのである。
そして、子供に言う。
一時の、苦しみぞ、その後は、ゼウスの国、ハライソに行くのだぞ。

その、キリシタンたちの霊が、未だに、さ迷っている事を、知る、真っ当なキリスト教徒は、いない。
人間とは、愚かなものである。

そして、更に、人間の愚かさを、助長するもの、それは、宗教である。

宗教は、眺めるものである。
必要なことは、信仰である。
観念ではない、信仰である。それは、宗教に似るが、宗教ではない。宗教的ではあるが、宗教ではない。

その対象は、自然である。
宇宙を含む自然への、信仰そこ、大切な、真情である。

人間の想像を超えた、自然に対する、畏敬の思いは、生命の畏敬となる。
生命の畏敬は、わが身の完結である。

命あるもの、すべてに通じる、生命の畏敬こそ、信仰といえる。
拝むものは、太陽、山川草木にある。
そこにしか、生きられないのである。
何によって生きるのかとは、真実である。
自然を離れて、生きる道は無い。
宇宙の外に出て、宗教は、活動すべきである。そこが、相応しい場所である。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 21

田川健三氏の文を続ける。

もしも混雑する階段で誰かがころんで、上から殺到する人の波に踏みつぶされて死んだとすれば、たとえ直接にその人を踏んだのではなくても、はるか上の方で押していただけであっても、その人の死に責任がないとは言えまい。まして、その人がころんだのが偶然ではなく、上からどんどん押してくる人波の力を支え切れずにころんだのだとすれば、はるか上の方であっても、押していた人々はその人の死に責任がある。今の世界はいわばそのような構造になっている。かなりな数の人が押しつぶされて死んでいるのに、圧倒的多数の人々はその上を踏んで走りぬけ、うまく走りぬける者たちが非常に繁栄する。しかもたいていの者は、自分たちが押してつくり出す人波の力が何人もの人を押し倒して殺す力になっているということを全然自覚していない。

強者はよほど深く鋭い洞察力を身につけない限り、正義を知ることはとてもできないのだ。今の日本人に何が求められているのか明らかであろう。

実は、これこそ、宗教家が、提唱することであり、そして、自ら、行為して、世の中に訴えることである。
しかし、見ての通りである。

驚くべき、馬鹿馬鹿しいことがあった。
昨年、12月15日、築地本願寺で開かれた、東京ボーズコレクションである。
ボーズとは、坊主、つまり、僧侶のことである。

天台、真言、浄土、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗の七派が、入り乱れて、僧衣の、ファッシンョンショーを開催。
お経を唱え、総勢50名の僧が、出たというのだ。

知性は、勿論のこと、感性も皆無。
地球の裏側で、餓死する者たちを、知性で感得することも、それにより、感性を磨くこともしない。
更に、ミャンマーで、僧侶たちが、軍事政権に、多数殺害されたことへの、想像力も無いという、有様である。

よくも、ここまで、落ちたものだと言う。
僧侶の価値が無いのは、当然だが、人間としても、死んだ方がマシなのである。
上記の開祖たちの、教えが、いかに大嘘であることが、如実に解るというものである。

あまりに、愚かであり、愚劣といってよいほどの行為である。

彼らの、やるべきことは、寝ずにやるべきこと、多数ある。
少しの、慈悲の思いが、あれば、地球の裏側で起こる悲劇に、行為行動するはずである。

その恥ずべき行為に、自害して果てることが、得策である。
築地本願寺の言い分である。
葬式とか、暗いイメージたでけで仏教をとらえないで、ビジュアルからでも入っていただければ、というのである。
葬式、暗いイメージだからこそ、金儲けが出来るのであろうが。
何を言う。

勿論、葬式も、10年を経ないで、寺など、捨てられるのである。
誰も、僧侶などに、読経をして貰おうなどとは、思わない。
最後の輝きである。
消え入る前の、最後の光を、自ら演じて、幕を引くという。
それで、よし。

さて、続ける。

自分が他者を抑圧している場合は、自分はそれによって直接痛むわけではないから、なかなかそれとは気づかない。だから、感性ばかりに頼って人間性の豊かさが求められると思っていると、自分に加えられる不正に対しては闘うことはできても、ところ変われば、自分は知らずして他人を抑圧する側に立っていながらけろっとしているものである。

田川氏の論調は、宗教が、最高の知とされた時代から、その変転を語り、感性であるとされた、宗教が、知性でも、感性でもなく、霊という、言葉を用いだしたことを言う。
知性や感性を超える霊的存在、霊である。
それを、カトリシズムを作り上げた、パウロの分析からする。
現代のカトリックは、パウロの方法を持って、続けているのである。

だが、キリスト教ヨーロッパの歴史は、キリスト教支配の世界に、そのつど、息吹を吹き込んだのは、霊を重んじる、異端であったという。

西洋の宗教の歴史は、宗教知の支配に対して、それを打破しようとする、熱狂主義が繰り返し出てきては、挫折するというものだった。

宗教は、いつでも、最高知として、君臨しようとした。
しかし、それを、打破しようとする、霊が、感性と、同一視されることは、なかった。

宗教を単純に「知」に対する対立物としてとらえ、あまつさえそれを「感性」と同一視する、などというのは、長い歴史から見れば、近世、それもせいぜい最近一、二世紀の特殊な現象に過ぎない。ということはつまり決して、そこに宗教の本質がある、などというのではないので、むしろ、宗教をそのように作り変えようとしたところに、近・現代の特色がある、ということになる。

ここまでに至ると、日本の宗教家たちは、お手上げになる。
そんなことを、考えてはいないからである。
兎に角、金儲けである。
如何に、信者から、金を巻き上げるかである。
ただ、それのみに、専心して、いつでも、金のためならば、教義も売るのである。
開祖も何も、あったものではない。
しまいに、死後の世界など無い、霊など無いという、始末である。

それでは、何ゆえに、宗教の中いるのかといえば、商売なのである。
僧侶とは、職業であり、志のあるようなものではないのである。

勿論、仏典の徹底的、分析をすれば、迷う。よく、解らないからである。しかし、実際、よく解る仏典などない。
すべて、戯言であるから、分析などしては、商売に専念できないのである。

兎も角、有り難い教えであると、爺、婆を騙していればいいのだ。

もっともらしく、先祖をご供養することで、子孫は、先祖から守られて、幸せになる。
死後は、極楽に行けますと、大嘘を言うのである。
何せ、自分でさえも、極楽に行くのか、どうか、解らないのである。

勿論、霊界に、極楽などという空間は無い。

精々、キンキンきらきらの、僧衣をまとって、信者、信徒を誤魔化す、騙すの、一点にある。だから、演出だけには、拘る。それにより、金の集まり方が、違うからである。

戒名などという、如何わしいものを、与えて、偉い振りをしているという、僧侶は、完全、言語同断に、地獄に落ちる。
勿論、霊界には、地獄などという空間は無い。
ただ、彼らの意識では、地獄と呼ぶに相応しい、場所に行くということである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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