2008年02月04日

タイ・ラオスへ 4

タイ・ラオスへ 4

東北部、イサーンは、100年前に、タイになった。
それゆえ、そこに住む者は、複雑な心境を持つ。

最初のホテルの時に、レストランの女の子に、タイ人かと、尋ねると、全くのタイ人で、ラオ人ではないと、きっぱりと言った。それ程、タイ人としての、誇りがある。
彼女は、三代目あたりであろう。しかし、生まれながらのタイ人であると、信じる。

私が、ノーン・カーイで、探っていたことは、どうも、タイではないような気がするのは、何かということである。

微笑みの国タイという、イメージは、ここ、イサーンには、全く無い。

笑顔が、極端に少ないのだ。
さらに、言葉遣いである。
早口である。タイ人のように、ほんわかとしているものではない。
まくし立てるといった風である。

こちらが、笑顔で、近づかないと、笑顔にならないのである。
勿論、例外は、ある。ホテルや、ゲストハウスの人である。また、食堂経営の人。それでも、何度目かで、漸く、安心した、笑顔を見る。

警戒心が強いという訳ではない。そういう、体質なのである。
しかし、皆、人は良い。

イサーンから、バンコク、チェンマイに、出稼ぎに出る人が多い。彼らは、イサーン人と、呼ばれる。少しの、蔑称を込めてである。
書きたくないが、売春婦の、産地とも言われる。

無愛想であるということを、体験した。
マッサージは、安い。一時間、150バーツからある。約、400円と少しである。
ある、美容室兼用の、マッサージ店に行った。
タイマッサージを一時間、状況によっては、オイルマッサージを一時間と、決めて行った。

店に入ると、オーナーの女性が、カッテングの最中である。
私が、入ると、挨拶したが、一人の女の子は、入り口のソファーに、座り、動く気配無い。
少し、立っていると、オーナーが、英語で、マッサージと、訊く。
オーナーたけが、英語が出来る。

女の子に、何か言うと、その子は、やっと、立ち上がり、私を二階に案内した。
タイマッサージ、ワンアワーと、言うが、通じない。
時計を指して、二時間を示すのだ。
下手で、二時間もやられては、たまらないと、一時間を示すが、解らない。
その内に、下に戻り、オーナーが、やってきた。オーナーが、時間を確認して、女の子に言う。

漸く、その子の、マッサージが、始まった。
普通は、足から始めるが、彼女は、肩から始めた。
まずまずの調子である。

上手ではないが、その雑さに、私のようなコリを持つ者は、丁度いい。
下手に、やさしくやってもらうと、逆に、具合が悪くなる。

終わった。
そこで、物は試しと、オイルマッサージを一時間、頼んだが、言葉が通じない。
私は、全身を使い、表現したが、解らない。
後で気づくが、アロマだったのだ。

結局、オーナーの女性を呼んだ。
話はついた。
今度は、彼女の指示である。
服を脱げという。
私は、パンツひとりになった。憮然としているので、パンツもかと、仕草で表現すると、首を振る。要するに、無愛想なのである。

ところが、オイルマッサージの時に、彼女は、もう一人の女の子を呼び、二人で、するではないか。それが、また、上手なのである。
単なる、撫で回すものではない。コリを、取るのである。
これで、無愛想も、許せた。

だが、清算の時に、600バーツを請求された。少し、ボラれたのである。
約、2000円である。
勿論、そこには、二度と、行かなかった。

典型的な、イサーンの人を見た思いがした。

9日の朝は、ゲストハウスで、アメリカンスタイルの朝食を取ったが、100バーツである。お客は、ほとんどいない。330円の食事は高い。
向かいの食堂に入ると、その半額程度である。私は、一度で、ゲストハウスの朝食をやめた。

午前中、私は、メコン河を眺めて過ごした。

言葉が出るままに、歌を詠む。

何ゆえに 我タイにいる 日の本の 大義を求めて ここにいるなり

実に、傲慢な歌である。

川ひとつ 隔てた国を なんとする 国境なくば 親しきものを

老いの口 ラオス貧しく してありて 手出しできぬと 足を留める

東北を イサーンと呼んで 吐き捨てる 微笑の国も 差別ありてや

ひとりにて 出来ることなど 限られて 奉仕の心 萎える時あり

今回、持ってきた本は、西行の山家集のみ。しかし、読たいとは、思わない。
昼近くなると、気温が、ぐんぐんと、上がるのが解る。夏の気候である。

川沿いに、お土産小路がある。それが、延々と続く。
面白い。
その大半の品物が、中国産である。
後は、ラオス、ベトナム、イサーンの民芸品である。
値段を見て、日本円にして、歩くと、頭の体操になる。

これも、あまり書きたくないことだが、中国人が、おおよそ、席巻しているのが、解る。
大型の店は、中国人の経営である。
そして、丁度、中国のお正月の最中だった。
町の至るところに、新年を祝う言葉を書き付けた、旗や、幟が立つ。
ある、道路などは、すべて、中国の新年を祝う旗が、道に、横断幕になっているから、驚く。
中国人を、無視出来ないということだ。

ただし、それを言えば、日本も言われる。
電化製品、自動車、食品に至るまで、日本製品が、大半を示す。
驚くべき、席巻である。

そして、私は、一つの、問題の解決を見た。
何故、日本が多くの支援をするのかということだ。
つまり、日本企業の進出のために、日本政府が、支援して、後押しするというものだ。
現地で、作らせても、日本企業である。

税金というもの、そのように、使用されている。
大企業優先であることは、事実である。しかし、世界的企業を、育てるために、必要なことでもある。それを、国内の問題と、どう、折り合いをつけるのか、ということである。

ゲストハウスには、英字新聞が、多数ある。
それらに、目を通す。私の英語力では、読めないが、ジャパンを探す。無い。経済新聞のみに、日本企業の不祥事の記事がある。
それだけ。

陽気なドイツの、じいさんに、声を掛けられた。
寒くて、ゆかたを、羽織っていたゆえ、日本人と、理解された。
英語で、捲くし立てる。
解るか、と、言われて、頷くと、さらに、喋る。
日本とドイツは、世界で、最も強い国だと言う。
日本の、長崎と、東京に、カンパニーをやっている、友人がいるらしい。

このように、欧米人の、おじいさんが、実に、多い。そして、現地の、タイ女性を連れている。これも、老人介護の一つであろう。

オーストリアからの、老人にも、話し掛けられて、適当に、応えていた。彼らは、自分が、喋れば、満足するのである。どこの、国の老人も、一緒である。


posted by 天山 at 12:21| H20.02 タイ・ラオスへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 53

ヒト胚は人間の生命の見本である。したがって、絶対主義的宗教に照らしてみれば、中絶は単純に悪である。つまりれっきとした殺人なのである。胎児の生命を奪うことにもっとも熱心に反対している人の多くが、成人の命を奪うことに人並み以上に熱狂的であるようにも思えるという、確証に乏しいことを認めざるをえない私の観察を、どう判断していいのか確信がない。(公正のために言うと、通常もっとも苛烈な中絶反対論者とみなされるローマ・カトリック教徒は、これに当てはまらない)
ドーキンス

私も、同じように、考えている。
そこで、次の記述である。

けれども、生まれ変わったキリスト教徒のジョージ・W・ブッシュは、現代の宗教的支配勢力の典型である。彼と彼らは、それが胎児の命(あるいは末期患者の命)であるかぎりは、人間の生命の熱烈な擁護者―――まちがいなく多くの命を救うことになるばすの医学研究さえ阻止することも辞さないーーーである。

最悪の、クライスターという武器で、平然として、人殺しを命ずる者が、胎児となると、突然、守れと、言う、矛盾。

イラクで、アメリカの若者が、どれほど、命を失ったのか。
まるで、感じていない様子である。

これ程の、矛盾を抱えても、平然としていられるというのは、ご病気ではないかと、私には、思えるのだが・・・

人格障害の中でも、嘘をつくことを、平然と出来る病がある。
彼の地の、大統領は、人格障害であると、断定出来るのである。しかし、それが、宗教的絶対主義から、出ていると、すると、あるいは、宗教、そのものに、病の、種があると、思うのである。

次に、ドーキンスは、世界的、聖者と言われる、マザーテレサについて、言及する。私も、ここまでは、言わないが、ここまで、言うのである。

カルカッタのマザー・テレサは、ノーベル賞受賞講演において実際に、「妊娠中絶こそ、最大の平和破壊者です」と言った。なぜなのか? このような偏った判断力しかない女性の発言を、どんな話題についてであれ、真面目に受け止めることがどうしてできるのだろう。まして、ノーベル賞に真面目に値すると考えることがどうしてできるのだろう? 聖人ぶった偽善者マザー・テレサに騙されたいという誘惑に駆られた人間は誰でも、クリストファー・ヒッチェンズの「宣教師の立場」―――マザー・テレサの理論と実践」を読むべきである。

霊学の立場から、言えば、中絶は、三ヶ月以内に行うべきであると言う。
つまり、霊体が、肉体に定着する前である。

日本の場合を見ると、中絶によって、子供を下ろした場合は、水子供養という、商売が、大流行である。
供養商売は、日本仏教の、得意分野である。

更に悪いのは、水子による、霊的障害を、云々する、霊能者の多数である。
何を、基準に、それを、言うのかは、解らない。多分、気分的なものだろうと、思う。

水子を供養して、息子や娘の、行状が、良くなった等の、話があるが、果たして、それが、どれ程、信憑性があるのだろうか。
それは、先祖供養にも、言える。

運が悪く、先祖の墓参りをしてから、とんとん拍子に、運が良くなり、商売はじめ、すべてが、好転したというが、果たして、たった、一人の経験談を、掲げて、先祖供養、絶対必要と、言えるものだろうか。

中絶した、女性の、弱い心を、弄ぶ、とんでもない、商売であると、言っておく。

更に、水子という、霊なるもの、勝手な、妄想の想念の、場合、多々あり。
胚を、流して、それが、どうして、一人前の、霊と、認定するのか、不思議である。

それならば、昔から、口減らしとして、生まれた子供を、すぐに、殺した場合の、多数の霊は、どうするのか。
人間の一生は、供養で終わるのだろうか。

アメリカのタリバンに話を戻して、妊娠中絶に手を貸す人間を脅迫するための組織である(オペレーション・レスキュー)の創設者、ランドール・チリーの言い分を聞いてみよう。「私、あるいは私のような人間がこの国の実権を握ったら、あなたたちは逃げ出したほうがいい。なぜなら、われわれはあなたたちを見つけ、あなたたちを裁き、あなたたちを処刑するからである。私は掛け値なしに言っているのだ。私は彼らが裁かれ、処刑されるよう取り計らうことをこれからも使命の一環としていく」。チリーがここで呼びかけているのは、中絶手術をおこなう医師たちであるが、彼を動かしているキリスト教的な霊感がどのようなものか、別の発言に明確に示されている。

私はおまえたちの上に、不寛容な波がどっと押し寄せることを望む。そうだ、憎しみは正しいのだ。・・・われわれが目標とするのはキリスト教国家の建設である。われわれには聖書に定められた義務があり、われわれはこの国を征服するよう神に命じられている。われわれは敵に自分たちと同等の時間を与えるつもりはない。われわれは多元主義を望まない。
われわれの目標は単純でなければならない。われわれは神の法、十戒にもとづいて構築されたキリスト教国家をもたなければならない。言い訳は無用だ。

キリスト教ファシスト国家を、望む者。そして、イスラム教ファシスト国家を、望む者。
これで、世界平和など、望むべくもない。

甚だしい程、馬鹿げたことであるが、現実である。

彼らは、違う意見を、持つ者を、平気で殺す。しかし、胎児や、胚を、流すことを、禁じるという、大きな矛盾である。

旧約聖書にある、ユダヤ十二氏族の、子孫というものは、余程、野蛮極まりない者なのだろう。
アブラハム、イサク、ヤコブの神という、旧約の神である。
ヤコブから、ユダヤ十二氏族が、現れる。

それらの、遺伝を受け持つ者、このように、野蛮極まりない者なのである。

そして、アラブの民は、アブラハムが、召使の、エジプトの女に産ませた、子供の、子孫であり、聖書にあるように、野蛮極まりない者と、言われる。
それが、イスラムの元。

多元主義を、排斥する、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。

世界が、国境により、区分けされているのではない。よく言えば、文明により、区分けされている。最悪に言えば、宗教により、区分けされている。

それらは、すべて、妄想の産物である。
胎児と、胚については、次に続ける。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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