2008年02月11日

神仏は妄想である 21

田川健三氏の文を続ける。

もしも混雑する階段で誰かがころんで、上から殺到する人の波に踏みつぶされて死んだとすれば、たとえ直接にその人を踏んだのではなくても、はるか上の方で押していただけであっても、その人の死に責任がないとは言えまい。まして、その人がころんだのが偶然ではなく、上からどんどん押してくる人波の力を支え切れずにころんだのだとすれば、はるか上の方であっても、押していた人々はその人の死に責任がある。今の世界はいわばそのような構造になっている。かなりな数の人が押しつぶされて死んでいるのに、圧倒的多数の人々はその上を踏んで走りぬけ、うまく走りぬける者たちが非常に繁栄する。しかもたいていの者は、自分たちが押してつくり出す人波の力が何人もの人を押し倒して殺す力になっているということを全然自覚していない。

強者はよほど深く鋭い洞察力を身につけない限り、正義を知ることはとてもできないのだ。今の日本人に何が求められているのか明らかであろう。

実は、これこそ、宗教家が、提唱することであり、そして、自ら、行為して、世の中に訴えることである。
しかし、見ての通りである。

驚くべき、馬鹿馬鹿しいことがあった。
昨年、12月15日、築地本願寺で開かれた、東京ボーズコレクションである。
ボーズとは、坊主、つまり、僧侶のことである。

天台、真言、浄土、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗の七派が、入り乱れて、僧衣の、ファッシンョンショーを開催。
お経を唱え、総勢50名の僧が、出たというのだ。

知性は、勿論のこと、感性も皆無。
地球の裏側で、餓死する者たちを、知性で感得することも、それにより、感性を磨くこともしない。
更に、ミャンマーで、僧侶たちが、軍事政権に、多数殺害されたことへの、想像力も無いという、有様である。

よくも、ここまで、落ちたものだと言う。
僧侶の価値が無いのは、当然だが、人間としても、死んだ方がマシなのである。
上記の開祖たちの、教えが、いかに大嘘であることが、如実に解るというものである。

あまりに、愚かであり、愚劣といってよいほどの行為である。

彼らの、やるべきことは、寝ずにやるべきこと、多数ある。
少しの、慈悲の思いが、あれば、地球の裏側で起こる悲劇に、行為行動するはずである。

その恥ずべき行為に、自害して果てることが、得策である。
築地本願寺の言い分である。
葬式とか、暗いイメージたでけで仏教をとらえないで、ビジュアルからでも入っていただければ、というのである。
葬式、暗いイメージだからこそ、金儲けが出来るのであろうが。
何を言う。

勿論、葬式も、10年を経ないで、寺など、捨てられるのである。
誰も、僧侶などに、読経をして貰おうなどとは、思わない。
最後の輝きである。
消え入る前の、最後の光を、自ら演じて、幕を引くという。
それで、よし。

さて、続ける。

自分が他者を抑圧している場合は、自分はそれによって直接痛むわけではないから、なかなかそれとは気づかない。だから、感性ばかりに頼って人間性の豊かさが求められると思っていると、自分に加えられる不正に対しては闘うことはできても、ところ変われば、自分は知らずして他人を抑圧する側に立っていながらけろっとしているものである。

田川氏の論調は、宗教が、最高の知とされた時代から、その変転を語り、感性であるとされた、宗教が、知性でも、感性でもなく、霊という、言葉を用いだしたことを言う。
知性や感性を超える霊的存在、霊である。
それを、カトリシズムを作り上げた、パウロの分析からする。
現代のカトリックは、パウロの方法を持って、続けているのである。

だが、キリスト教ヨーロッパの歴史は、キリスト教支配の世界に、そのつど、息吹を吹き込んだのは、霊を重んじる、異端であったという。

西洋の宗教の歴史は、宗教知の支配に対して、それを打破しようとする、熱狂主義が繰り返し出てきては、挫折するというものだった。

宗教は、いつでも、最高知として、君臨しようとした。
しかし、それを、打破しようとする、霊が、感性と、同一視されることは、なかった。

宗教を単純に「知」に対する対立物としてとらえ、あまつさえそれを「感性」と同一視する、などというのは、長い歴史から見れば、近世、それもせいぜい最近一、二世紀の特殊な現象に過ぎない。ということはつまり決して、そこに宗教の本質がある、などというのではないので、むしろ、宗教をそのように作り変えようとしたところに、近・現代の特色がある、ということになる。

ここまでに至ると、日本の宗教家たちは、お手上げになる。
そんなことを、考えてはいないからである。
兎に角、金儲けである。
如何に、信者から、金を巻き上げるかである。
ただ、それのみに、専心して、いつでも、金のためならば、教義も売るのである。
開祖も何も、あったものではない。
しまいに、死後の世界など無い、霊など無いという、始末である。

それでは、何ゆえに、宗教の中いるのかといえば、商売なのである。
僧侶とは、職業であり、志のあるようなものではないのである。

勿論、仏典の徹底的、分析をすれば、迷う。よく、解らないからである。しかし、実際、よく解る仏典などない。
すべて、戯言であるから、分析などしては、商売に専念できないのである。

兎も角、有り難い教えであると、爺、婆を騙していればいいのだ。

もっともらしく、先祖をご供養することで、子孫は、先祖から守られて、幸せになる。
死後は、極楽に行けますと、大嘘を言うのである。
何せ、自分でさえも、極楽に行くのか、どうか、解らないのである。

勿論、霊界に、極楽などという空間は無い。

精々、キンキンきらきらの、僧衣をまとって、信者、信徒を誤魔化す、騙すの、一点にある。だから、演出だけには、拘る。それにより、金の集まり方が、違うからである。

戒名などという、如何わしいものを、与えて、偉い振りをしているという、僧侶は、完全、言語同断に、地獄に落ちる。
勿論、霊界には、地獄などという空間は無い。
ただ、彼らの意識では、地獄と呼ぶに相応しい、場所に行くということである。




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神仏は妄想である 24

あくまでも人間の全体が生きているところに、人間性の深みが存在する。そして、人間の全体とは、しゃばに生きている人間の現実の生活の全体以外の何ものでもない。「人間性の深み」が虚妄になるのは、それを特別に担当する部門として宗教が立ち現れる時である。(宗教でなくても、精神でも道徳でも、あるいは文学でも、ことは同じである)。「人間性の深み」を特別に担当する部門が作られれば、「深み」が人間性そのものから切り離されて、虚妄になる。

田川氏の、これを、読むと、如何に現実が絶望的であるかが、解る。
宗教は、糞の役にも立たない言葉を、妄想を語って、平然としている様、明らかである。

しかし、それに、気づかないのである。

現実から、遊離したところで、生きるということを、語る。神や仏という、手品のような、存在を利用してである。

小児科医、産婦人科医が、減少して、精神科医が多くなっている。何故か。
楽して、金になるからである。
心療内科などは、初診の際に、それなりに、話は聞くが、以後は、薬を処方するだけである。処方で、金になる。
治癒などしないから、いつまでも、患者は、良い客である。

医者が、人を助けるという、奉仕の精神から離れて、金儲けとしての、商売になったのである。
医療が、商売に堕落すると、本当に、人間は救われない。

このような、精神的状態を作り出したものは、何か。
誰の、教育か。

さらに、教師の精神疾患である。休職する、教師の半分が、精神疾患である。

現実である。

文部科学省も、日教組も、何の手を打てないのである。
スローガンだけは、一人前である。
支配層に入ると、皆々、このようになる。

事件は、現場で、起きている。
まだまだ、例はある。
しかし、省略する。

人間の全体とは、しゃばに生きている人間の生活の全体以外の何ものでもない。
田川氏の、言うとおりである。

マスコミ等々も、それを報道して、のうのうとして、犯人探しをする、程度で終わる。

環境破壊についても、そうである。
テレビ朝日は、古館という、アホを前面にして、このままでいいのか。一人一人の自覚と、環境に対する云々というが、その、古館が、どんな生活をしているのか、何も、言わない。こういう、偽善が、まかり通るのである。

虚妄である。

更に、虚妄なのは、宗教である。
実は、田川氏が言うより、宗教の実体は、酷いのである。

虚妄ならば、まだいい。詐欺である。

鎌倉、鶴岡八幡宮という、神社がある。
あれは、昔、寺であった。源頼朝は、鶴岡八幡宮寺として、建立した。
明治に、神社となった。

私の知り合いが、子供の祈願をお願いした。
五千円、八千円、一万円の、お祓いコースがある。
一番、安いコースにした。すると、裏にいた、神主が、舌打ちをした。なんだ、五千円かと。
こういう、ことである。
それで、神職というから、笑う。

あすこに、降りる神は、いない。
それならば、その横にある、正一位の、稲荷の方が、まだ、ましである。

鎌倉に住み、私は、深夜、八幡宮の前に行き、祝詞を唱えて、その、神の様を感じようとした。
虚無である。

太鼓持ちの、霊能者もどきが、神の波動の強い神社の一つというが、大嘘である。

御祓いに、コースをつけるという、虚無である。
巫女に、尋ねた。何が違うのと。
お渡しする物が、違いますと言う。

全く、商売ではないか。

あそこで、清め祓いしたものに、神気など、宿るわけが無い。
程度が知れた。

寺だった場所が、無理やり、神社にされたのである。
私は、二度と、拍手を打つことがない。

実に、解りやすい例を上げてみた。

日本人の潜在的信仰心を、利用しての、商売であるから、最も、罪が重い。
高天原霊界とは、勿論、富士霊界とも、何の関わりが無い。
あの、神社の上空に、精々神の世界を創造しているのみである。
そんな者が、感応しては、具合が悪くなるだけである。

何故宗教では近代合理主義の「知」を克服できないか。暴力的な技術の発達を知性の勝利と呼び、資本の論理に見合う合理性のみを合理性と呼んできた近代合理主義は、その結果生じるさまざまなゆがみ、ひずみの応急手当を宗教の手にゆだねた。近代になって滅びるかと思われた宗教は、こうしてむしろ近代にこそ自分独自の居場所を見つけることができて喜んだ。近代合理主義からこぼれ落ちる非合理の側面にこそ宗教の真理があると思った。けれども、近代合理主義が暴力的につっ走るからこそ、ゆがみひずみ痛む部分が生じるのであって、近代の「宗教」がその部分を非合理の真理として珍重している限りは、近代合理主義を克服することを目指しているようでありながら、実はそのおこぼれにあずかっているにすぎないのである。

ここまで、言われても、宗教は、何も言えない。
そんな、問題意識もないにも無い。
相変わらず、天国、地獄や、極楽等々の、荒唐無稽のお話に、始終する。
そして、ご供養とか、念仏三昧、題目によって、宿命転換をと、大嘘を言う。

カトリック教会では、信者は、教会の中では、平和の祈りをあげて、平和を演じするが、外に出ると、鬼になるという驚き。
キリスト教カルト集団は、おたく、のように、引き篭もり、その仲間と共に、妄想の中に浸りきるという、仰天。
どこから、出てきたのか、千年王国などという、アホのような話に、大の大人が、傾倒するという、狂いである。
自分たちだけは、神の国に入ると、信じる。勿論、神の国ではなく、悪魔の住まいに入るのであるが、そこを、神の国だと、信じるきるという。ホント、哀れである。

大乗経典の、嘘八百の経典を持って、仏陀の最高の教えであると、声高々に言うアホども。仏陀は、一言も、そんなことは、言わないということを、知らない。
実に、世の中が、無明なのではなく、その本人が、無明であるとこを、知らないのである。

宗教信仰も、今の世の中の「知」のあり方はどうもおかしいと感じ、それを克服しなければならないと願う初発の力になることができる。その意味では近代における宗教信仰の意味を評価する必要もあろう。けれども、初発の力にとどまっていては先に進めない。宗教は初発の力を生み出すが、初発の力を越えて先に進むことを妨げる。
無知に居直っても、知性の荒廃は救えないのだ。いま必要なことは、そこらあたりにころがっている「知」をはるかにこえる深く鋭い洞察力を全人間的に、かつ全世界的なつながりをもって、養うことではないのか。

無知に居直ると、田川氏は、言う。
宗教は、無知に居直っているのである。そして、堂々として、無知に居直るというのが、また、宗教である。

鋭い見識は、また、初発の力を越えて先に進むことを妨げると、言う。

信者を支配することが、出来るという、傲慢が、そうさせる。
信者は、アホだから、どうにでもなると思うのである。
信じる者は、一度信じると、いくらでも騙せると、信じる。

織田信長が、比叡山を焼き討ちした。
非情な命を下した。
女子供に至るまで、皆殺しにせよ、である。
その先頭に立った、秀吉は、女子供を殺すのに、忍びないと、逃す。
しかし、ほぼ全域を、焼き討ちした。

僧たちの、堕落極まりない所業を見ての、信長の怒りである。
その当時、信長は、キリスト教宣教師の、命がけの、宣教の様に、驚いていた。
この教えに、何かあると、見抜いた。
宣教師と、僧侶との、対決も、目の前で見た。

焼き討ちするしかないと、決断した。

それは、それで、一理ある。
しかし、その後、秀吉は、政治家の勘で、宣教師の本質を見抜いた。
植民地政策の、変形したものであると。
彼らの教えに、従うと、日本国の、根幹が、揺らぎ、果ては、日本国が崩壊し、キリスト教国の、植民地になると、察した。
キリシタン禁制である。

秀吉は、キリスト教徒に、最も、相応しい、殉教という、僥倖を、皮肉にも、与えた。
長崎の26聖人として、ローマカトリックから、聖人に上げられた者を、生み出した。

九州のキリシタンの資料は、多くあるが、実は、蝦夷地、北海道にも、キリシタンたちは、逃れている。その様は、地獄のようなものである。

教えに生きるという、無知蒙昧は、計り知れない犠牲を生む。

その、淡々とした、人生の様に、意義を見出すのは、至難の業である。しかし、宗教は、そこに、大きな希望と光を与える。
我らは、神の子。ゼウスの元に、集え。

どんな、苦難を受けても、信仰を守るという、人生の目的意義を見出す。
人生とは、何か。
宗教とは、何か。
そして、生きるとは、何か。

それに、宗教は、答えない。
勿論、答えを出すが、それは、知性ではない。まして、感性でもない。
蒙昧であり、無明である。

潜在意識の、広大な世界にある、広大無辺な領域に、一滴の水を垂らすのが、宗教である。
それを、救い、という、妄想に高めるのである。

つまり、潜在意識の、不明に、救いという観念を植え付ける。

目の前で、自分の子供が、無残にも、殺されるのを見る、キリシタンが言う。
どうぞ、殺しくだされ、我らは、ゼウスのハライソに行くのである。
そして、子供に言う。
一時の、苦しみぞ、その後は、ゼウスの国、ハライソに行くのだぞ。

その、キリシタンたちの霊が、未だに、さ迷っている事を、知る、真っ当なキリスト教徒は、いない。
人間とは、愚かなものである。

そして、更に、人間の愚かさを、助長するもの、それは、宗教である。

宗教は、眺めるものである。
必要なことは、信仰である。
観念ではない、信仰である。それは、宗教に似るが、宗教ではない。宗教的ではあるが、宗教ではない。

その対象は、自然である。
宇宙を含む自然への、信仰そこ、大切な、真情である。

人間の想像を超えた、自然に対する、畏敬の思いは、生命の畏敬となる。
生命の畏敬は、わが身の完結である。

命あるもの、すべてに通じる、生命の畏敬こそ、信仰といえる。
拝むものは、太陽、山川草木にある。
そこにしか、生きられないのである。
何によって生きるのかとは、真実である。
自然を離れて、生きる道は無い。
宇宙の外に出て、宗教は、活動すべきである。そこが、相応しい場所である。

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タイ・ラオスへ 11

タイ・ラオスへ 11

14日、ゲストハウスを後にして、ウドーン・ターニ行きのミニバスが出る場所に着いた。

私は、夏大島を着た。更に、単の紺の大島の、羽織である。
全くの日本人である。
夏大島は、白であるから、目立つ。
ゲストハウスの、清掃のおばさんが、すぐに見つけて、近づき、オー、オーと、声を上げていた。

この地に、着物で来る日本人は、いないだろう。

ミニバスだと、思っていたが、普通の乗用車であった。
お客が、三人であるからだろう。
私たちの他には、黒人のおじさんが一人だった。

Pm3:15に、出発した。
それが、また、早い。スピードを出すのである。
15分程走ると、検問のようなものがあり、車が、止められた。
警官もいる。
女の子といえるような、年齢の子が、何かを運転手に話ている。
運転者が、それに、答えた。
意味は、全く、解らない。
すぐに終わり、再び走り出した。

それが、きっかけで、皆で話合うようになった。
野中が、どうしたんですかと、訊いた。少し、タイ語が解るが、内容まで、解らなかったのである。
運転手が、一ヶ月の給料を、訊かれたと言う。
私が、エッーと、声を上げて、英語で、いくらですかと、尋ねた。
6000バーツだった。約、2万円である。

今度は、黒人の携帯電話が鳴った。
その会話を聞いて、私は、野中に、何語なのだろうと、言うと、フランス語かなーと、言う。そして、私に、訊いてみたら、と言う。
それにしても、フランス語の語感が、感じられない。

私は、英語で、どちらからですか、と尋ねた。
すると、黒人は、コートボワールというではないか。アフリカである。
エッー、私は、声を上げた。

黒人の方は、私に、ジャパンと、訊く。
イエスと言うと、握手を求められた。
英語で、話出した。
日本にも行く、これから、中国に行きますと。
私は、どんな仕事をしているのですか、と、中学二年生程度の英語で、訊く。

彼は、何と、商人である。
中国でも、商売をしていて、色々と見て周り、新しいビジネスを、探していると、言う。
ヘェー、私は、声を上げた。
そして、更に、英語で話し出した。
よく解らないから、野中にバトンタッチである。

半年後に、日本に行くので、私に、電話番号を教えて欲しいと言う。
野中が、すぐに、携帯の電話番号を書いて渡した。

その内に、彼の電話が鳴る。
話の内容から、相手は、女ではないかと思えた。
さらに、また、電話である。
英語や、母国語、色々と、混じる。
続けて、電話が多かった。

今夜は、バンコクに泊まるということが、解った。そして、女と会うことも、解った。
私たちは、日本語で、色々、女いるね、と話した。
中には、家族からではないかと、思える電話もあった。

それにしても、身軽である。
小さな、バッグ一つである。
野中の分析は、要するに、ビップなのだという。ホテルも一流に泊まり、余計な物を、持ち歩かないのだと。
携帯電話は、二つある。

私は、とんでもない人に、会ったのかもしれないと、思えた。

車は、猛スピードで、道路を走る。高速道路並みである。

対向車線の、間にあるスペースには、一定間隔で、国旗と、王旗が、たなびく。
本当に、タイの国は、その、旗を多く見る。
至る所に、掲げてあるのだ。

王室のマークも、覚えてしまった。
王様の、Tシャツを着ている人も、ひと目で解る。
さすがに、ノーン・カーイでは、他の土地より少ないが、着ている人がいた。

私は、国旗と、王旗を見るたびに、いつも、タイ国民の心意気を感じるのだ。
私たちは、タイ国民ですという、意思表示である。

国民の、95パーセントが、国王支持であるから、驚く。

現在の、プーミポン国王は、ラッタンナコーシン朝の第9代の国王である。
ラーマ九世とも、呼ばれる。
2006年六月に、在位60周年を迎えた。
その式典の日に、私は、バンコクにいた。
人々が、皆、国王の黄色のTシャツを着て、バンコクが、黄色に染まっていたことを、思い出す。

空港に着いて、飛行機が、三時間遅れであることを知り、愕然として、空港の中を、ブラブラして、私は、外に出て、タバコをふかし、出入り禁止の扉から、出入りしていた。
警備の男たちと、仲良くなったせいもあり、誰も、咎めないのである。

空港に入るのに、検査があり、出たら、再度、入り口から入るのである。が、私は、出口から、出入りしていた。
タイでは、禁煙政策が取られて、実に厳しい。

一人の、警備の若者に、ユー、ナイスガイ、本日は、バレンタインデーである。沢山、チョコレートを貰うだろうと、話しかけた。相手は、少しだけ、英語が出来るのが幸いした。
それで、色々とやり取りした。すると、警備員が、集ってきた。
兎に角、何でもいいから、話し掛けることである。

こちらから、飛び込んで行けば、相手も、胸襟を開く。特に、タイの人は、優しい。

一人の警備員が、俺は、一人もいない、という。ガールフレンドだ。
悲しいと、涙を流すまねをするので、私が、タバコを一箱上げた。
喜んだ。すると、色々と自分のことを、話す。この付近に住んでいるだの、家族のこと。ありったけの、英語で喋る。
よく解った。

ちなみに、タイでも、バレンタインデーは、お祭りである。
新聞には、この日の、男女間のセックス相談員の記事が載っている程である。

警備員とは、それで、仲良くなり、出口から、出入りして、時間を潰していた。

さて、搭乗時間、一時間前になり、私たちは、待合ロビーに入った。
その前で、検査がある。
ビーと、鳴る。
着物の袖のものを、すべて出す。
ペットボトルは、駄目なはずだが、検査官が、いいよと言う。
ビーと鳴る。
ああ、またかと、思った。
しかし、検査官は、丁寧に、私の体に、棒を当てて、検査した。何でもない。
オッケーである。

私が、特に書きたかったのは、ここからである。
待合ロビーには、テレビが何台か、つけてある。
六時になった。
その時。どこかで、聞いたことのある、メロディーが流れた。
すると、ロビーの雰囲気が、変わったと気づく。
それでも、私は、椅子に腰掛けていた。すると、野中が、私に、起立だよと言う。
はっとして、すぐに、起立した。
見ると、向こうの欧米人も、起立している。
国王の歌が、流れたのである。

ロビーにいた人々が、全員起立した。
国籍、関係なくである。

欧米人たちも、国家意識が強いから、こういう、作法を、当然だと思うだろう。
日本人は、私たち、二人のみである。

もし、ここに、日本の若者がいたら、何のことか、解らない。解っても、関係なと思い、平然として、腰掛ていたかもしれない。そういう、教育が、されないからだ。

タイでは、僧侶と、国王に対しては、特別の敬意を払うのが、当たり前である。
旅人でも、である。

国王に対する、不敬は、国民が許さないだろう。

日本の天皇に対する、作法が、こうでないことが、有り難いし、また、ある意味不幸なことである。国家意識の、希薄である。
国家の意識を持てないでいる、子供たちから、若者である。勿論、今では、中年、老年に至るまで。
ホント、幸せなことである。

国王は、タイの、民主化を推し進めて、象徴たろうとしている。
日本の天皇は、憲法で、象徴である。
タイの国王の歴史は、200年ほどである。日本は、2668年である。
世界に冠たる、天皇の歴史である。

大陸にあり、多くの国との、軋轢等々により、国家意識を、強く持つことで、歴史を作ってきたのである。当然の帰結で、国王を国として、置き換えて、敬意を払う。
真っ当な感覚である。

国家幻想の、一番良い方法なのではないかと、私は、考えている。
軍事政権の将軍より、遥かに良い。
ネパールのように、国民に、退位を迫られた国王もいる。余程、愚かだったのだろう。
国家幻想に、象徴がある方が、安定するのである。

物ではなく、人間が、介在した方が良い。

遅れていた飛行機の時間だが、その時間より、40も早く、機内に入ることが、出来た。
私は、座席に座り、そのまま、寝てしまった。
目覚めると、もうすぐ、バンコクだった。
posted by 天山 at 12:26| H20.02 タイ・ラオスへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月12日

タイ・ラオスへ 12

バンコクの空港で、約、八時間を過ごさなければならない。
何という、接続の悪さか。
しかし、私たちのような人が、大勢いた。

一階のロビーに降りて、そこに荷物を置く。
館内の冷房がきつくて、外に出た。荷物も、持ってである。
ベンチを一つ占領して、そこに、陣取る。

外だと、タバコが吸えるし、暖かい。夕方から夜は、涼しく、実に過ごしやすい。
何度も、眠った。
ベンチで寝るという、経験は、格別である。
旅をしているという、気分が、最高潮に達する。

水がなくなり、上の階に買いに行く。
二階にも、売り場があったので、そこで、7バーツの水を求めた。
すると、40バーツと言われた。
四倍以上の値段になっている。
約、130円である。日本より、高い。

怒りようがない。
しょうがないのである。

野中と、一度、食事に、三階に上がった。矢張り、料金は高い。
丁度、その頃になると、私の腹は、複合的に、食あたり状態になりつつあり、食欲があまりないので、飲み物だけにした。

日本に戻り、その食あたりの状態は、三日続いた。
下痢と、発熱である。一時的に、38度以上の熱も出た。
風邪でも、そんなに熱を出すことは無い。
風邪用の、抗生物質を貰っているので、それを飲む。

帰国の翌日は、コンサートで、歌ったから、私も大したものである。と、自画自賛する。

さて、旅行記の最後に当たり、タイ国王のことを、少し書いておく。

国王は、民主化を進めて、政治的発言を控えているし、極力、関与しないようにとの、行動であるが、政変がある度に、その調停の様が、世界に報道される。
国王の政治的影響力を無視出来ないのが、タイという国柄である。

1993年の、五月の暴虐では、国王の前に跪く、スチンダー首相と、チャムローン反スチンダー派代表の姿が、世界中に、報道された。
流血の事態を、調停した、国王の権威が、示されたのである。

2006年の、反タクシン運動の発生と、クーデターでも、調停役として、国王に注目が、集まった。

実は、これは、新しい伝統なのである。
国王に対する、国民の敬愛と言う、形である。

1932年の、立憲革命は、絶対王政に反対する国民の不満からの、ものである。
その際に、国王、王室の、権威は失墜させられたのである。

しかし、前回書いた、ピブーン首相時代の、ナショナリズムにより、歴代の王に対する、認識が高められた。

歴代の国王の像が、各地に、建設されたのである。

その後、更に、国王に対する、権威高揚が、図られた。
それには、共産主義思想に対する、牽制もあった。

現国王の、プーミポン王は、若い頃から、その政策に、積極的に参加した。
そして、国王一家は、頻繁に、地方行幸を行い、国民の辛苦を見て、慰めと、励ましの言葉を送った。
国王自身、僻地の地域開発に、関心を示し、具体的な、施策を提言した。
更に、国王が、行幸しなかった地域には、新聞、テレビが、国王の動向を伝えた。

現在も、夜八時からは、各局が、王室関係のニュースを流している。
その日の、王族の、公務が、報道されているのである。

こうして、国民の王と王室に対する、敬愛の情を深めての、現状なのである。
新しい伝統と、言える。

立憲革命以後は、基本的に、国王の政治権力は、無いのであるが、どういう訳か、ここ一番という時に、国王の言動が、大きな影響を与えるのである。

それは、国民の信頼ゆえのものだろう。
国王が、善しと言えば、国民も善しとする。否と言えば、国民も、否とするのである。

ただ、国王自身は、政治権力を求めてはいない。
中立的な、存在としてあろうとするのである。
その意思が、国民に見えるというのも、特徴である。
だから、こそ、国民も信頼するのだろうと、私は思っている。

日本の天皇が、国民の祈りの存在でありたいと、仰せられるように、タイ国王も、国民の平和と、幸せを祈る存在でありたとの意思であろう。

国王は、また、熱心な仏教徒でもある。
若い頃の出家の写真が、タイの至るところの、寺院に、飾られてある。
勿論、国王夫妻の写真も、至る所に、掲げられてある。

国政は、タクシン派の政党が、首相を選出した。
その、政策も、タクシンの、政策を継ぐものに、見える。

高齢の国王の存在が、タイの自制心である、とみる。
次の時代を、どのように、拓くのかは、未知であり、それは、世界も同じである。

タイが、好きで、これから、タイでの活動を考えている私には、国王の存在は、実に良き存在である。
私もタイ国民と、共に、国王の長寿を願いたい。

また、日本の高齢者が、これから、益々、タイにお世話になることと、思う。
相互扶助の精神で、タイの人々と、共存出来れば、素晴らしいことであると、思っている。

日本が、苦境に立たされた時に、助けてくれる国の一つであると、私は思っている。

朝、四時に、搭乗手続きである。
何度も、寝たので、元気だった。

一月の、チューク諸島の慰霊から、一週間後のタイの旅である。
矢張り、少し疲れたようである。

飛行機が、飛び立つ前に、私は眠った。
目覚めた時は、機内食の時間だった。
不味い機内食である。辛いだけの、焼き飯である。しかし、残すことなく、食べた。贅沢を言える身分ではない。

ちなみに、アメリカの航空機である。
勿論、格安チケットである。

いずれ、バンコク空港の、顔馴染みになりたいと思っている。

日本の空港まで、足袋を履いているが、その後は、裸足である。
着物姿で、裸足。これは、一度で、覚えられる。

今回は、多くの歌を詠んだが、すべてを載せてはいない。
いずれ何かの機会に、書きたいと思う。

成田に到着して、それ程の寒さを感じなかったのは、ノーン・カーイが、寒かったからであろう。

雪が降ったようだったが、バスが走っているというので、バスにした。

次に、タイに行くのは、六月、チェンマイそして、追悼慰霊は、メーホンソンを計画している。
追悼慰霊と、児童の学習支援である。
残り少ない人生を、何かのために、生きたいと思う。しかし、それは、また、自分のためでもあるのだ。
千年の日本のためにと、大げさなことを言いつつ、我が身のためにしているということである。

尽くしては また戻り我 に賜る 行幸はそれ ただ有り難き

posted by 天山 at 12:27| H20.02 タイ・ラオスへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月13日

神仏は妄想である 25

宗教は大いに必要とされる断絶を埋めるのだろうか?脳には、神によってつくられた満たされるべき隙間があるということがよく言われる。つまり、私たちは神―架空の友、父、兄、懺悔を聴いてくれる人間、秘密を打ち明けられる人間―を求める心理学的欲求をもち、神が実際に存在しようとしまいと、その欲求は満足させられなければならないというのだ。しかし神は、私たちがほかの何かで満たしたほうがいいような隙間をふさぐ邪魔物であるということはないのだろうか?隙間を埋めるべきものは何だろう? 科学?芸術?人間の友情?人道主義? 死後のあの世の人生を信じずに、この世の人生を愛すること?自然への愛、あるいは偉大な昆虫学者E・O・ウィルソンがバイオフィリアと呼んだものか。

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第10章より。

いつのころからか、宗教は人間の生活において四つの主要な役割、ちなわち説明、訓戒、慰め、霊感を満たすものと考えられてきた。歴史的には、宗教は私たちが存在する理由や私たちのいる宇宙の性質にかんする説明役たらんとしてきた。この役割は、現在では完全に科学に取って代わられおり、・・・・

メソポタミアで、星の観測をしていた、ゲイたちによって、占星術と、天文学が、生まれた。それが、歴史を経て、明確に区分けされた。
今では、占星術と、天文学は、同席しない。
唯一、心理学の分野において、ユングから始まるが、人間の心理に影響するものとして、一目、置かれている。
ユング研究所では、東洋の、易も、研究されて、身につける、学ぶことが、出来る。
共時性の法則を、確認するためである。

科学は、宗教の役割を、大幅におっているのが、現代である。
そして、それは、証明される。

天動説を主にしていた、カトリック教会も、地動説を唱えたガリレオを、許す以外になくなった。証明されたからだ。
そういう、事項は、多々ある。有り過ぎる程ある。

宗教が、掲げる教えは、すべて、人間の頭の中で、肥大化した、妄想を掲げてきた。
しかし、もう、その限界は、とうに、過ぎた。それでも、宗教が、こうして続いているというのは、何か。
単なる、惰性である。

宗教によって、潜在意識までも、占領され、略奪されたのである。そして、それが、集合意識までに至る。


ドーキンスは、アメリカの心理学者ジュンアン・ジェインズの、神々の沈黙を取り上げる。

ジェインズは、多くの人間が自分自身の思考過程を、頭のなかにおける「自己」ともう一人の主張者の一種の対話として知覚していると書いている。――もし、理解していなければ精神異常者として扱われる。これは、短期間ながら実際にイーヴリン・ウォーに起きたことだ。率直にものを言うたちのウォーは、友達にこう語った。「私はあなたに長いことお目にかかっていませんが、でもそのころは私はほとんど人に会っていなかったのです。なぜならーご存知だったでしょうか?――私は頭がおかしくなっていたのです」回復してのち、ウォーは小説「ギルバート・ビンフォールドの世界」を書いたが、この本は彼の幻覚期のことと、彼が聞いた声について書かれている。

人間は、幼児期に、現実のような、幻覚を見る。
それは、学童期まで、続く。
年を取るに従って、それが、消えるか、もしくは、見なくなる。

ドーキンスは、幼形進化という言葉を取り上げている。
それは、子供の形質が、成体に持ち込まれることである。

結論を言えば、精神の幼形進化が、宗教のもの、宗教の妄想を、支えると、私は、解釈した。

幼児期に思い描いた、人間ではないものを、成人してからも、精神に影響するということである。
それが、安らぎを与え、慰めを与えてくれる。
要するに、自分を褒めて、慰める、もう一人の自己であり、幼児期に、幻覚で見た、懐かしい、ある、物である。

私の知り合いに、二人程、幼児期の、それらの、記憶がある人がいる。

一人は、男であり、幼児期から、大柄な西洋人に似た男が、語り掛けるというものである。
もう一人は、女で、お風呂に入っている時に、排水溝から、小人たちが、数人上がってきて、会話したという。
忘れていた頃に、大柄な西洋人のような男が、再び、語り掛けてきたという。その時、彼は、人生の最大の危機、辛い苦しい時期を生きていた。
彼には、宗教は無い。

西行が、伊勢神宮に、お参りした時に、歌う。
なにごとの おわしますをば しらねども かたじめなさに なみだこぼるる

何事が、いるのか、解らないが、何かの存在感を感じて、有り難く、涙が出るというものである。
これは、精神の、幼形進化であろう。
それは、否定するなにものもない。

幼児期は、あらゆるものに、畏敬の念を起こすのである。
宗教体験というならば、それの、原型である。

これ、以上に私の言葉を書き進めると、情になってゆくので、ドーキンスに戻る。

いよいよ、神が私たちを慰めるさいに果たす重要な役割と、もし神がいないとすれば、何をその代わりにおくべきかという人道的な難題に直面するときだ。神などおそらく存在しないし、人は神がいなくとも道徳心を発揮するだろうと認める人は少なくないのに、それでもなお、これは奥の手だとばかり、「やっぱり人は神に対して、心理的・情緒的欲求をおぼえるものではないか」と反論される。もしあなたが宗教を取り上げるとしたなら、その空いた隙間を代わりに何でふさいでくれるのだろうと、食ってかかるのである。死にかけている両親に、身内に先立たれて泣いている人に、神がたった一人の友達だった孤独なエリーナー・リグビー(ビートルズの同題の曲で歌われている身寄りのない老婆で、架空の神父と会話する)たちに、代わりに何をあてがうというのか、と。

そう思わせておけと、人は言う。
それも、正しい。
幻想の中にいることは、幸せなことである。

痴呆という、状態は、完全に、我の中に入って、他は無いのである。
本人は、実に、幸せである。宗教を信じる者、それに、似る。
その程度で、いいのである。

ただ、困るのは、痴呆の人が、痴呆ではない人に、痴呆に、なれと強制する時である。それは、大変に、迷惑である。

布教、宣教、折伏という、宗教行為である。

一人で、遊んでいるうちは、何の問題も無い。しかし、それを、人にも、強制するようになると、穏やかではなくなる。まして、それが、正しいというのである。

誠の神の教えなど、どこにもない。
皆々、人間が、想像した、教えである。また、勘違い、妄想である。
例えば、理論的に、納得するような、神の教えであっても、人に強制するのは、完全に誤りである。

それは、人間の本来持つ、自由を侵害する行為であり、それこそ、大罪である。

何故、自分の信じる神仏を、人に、布教するのかは、信仰に、不安だからである。
信仰とは、完全、自己完結のものである。

自己完結していない人は、不安で、仲間を募ろうとする。それが、布教であり、宣教である。

イエスキリストは、地の果てまで行き、伝えよと言うが、あれは、創作である。イエスキリストは、そんなことを言っていないのである。
イエスキリストは、あくまでも、ユダヤ人に対する、神の教えを、説いたのである。
パウロの、教えが、地の果てまでである。故に、あれは、パウロ教団である。
現在の、キリスト教の大半は、パウロ教と言っていい。

パウロについては、いずれ書く。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

タイ・ラオスへ 帰国してから

矢張り、胃腸の調子が、悪く、一週間ほどは、下痢を繰り返した。
帰国した、翌日は、熱も出たほどだ。

あれが、悪かったという、一つの食べ物ではなく、複合的なものだったと、思う。

水で洗った、生野菜、店先で焼いている肉など、そして、スープの水である。暫くの、沸騰だといいが、ある程度の、沸騰だと、菌が殺せない。
腸内細菌の、有り様が、あちらの食べ物に、負けるのだ。

長期滞在だと、それも、しょうがない。
あちらの、菌に慣れるのみ。

ただ、鳥インフルエンザが、人に、そして、人から人にと、新型インフルエンザが、世界的に広がるという、話である。
また、新しい病気が、増えた。

ただ、私は、バリ島や、タイで、放し飼いで、飼っている、鶏などを見ている。その命を、いただいて、命を繋ぐ。そういう、命の、交換の、有り様を見る。
子供たちも、生き物を食べて、生きるという、学びをする。日本には、無い、教育である。

放し飼い 鶏つぶし 食べるのは 命の教育 極まれるなり

生き物を 食べて命を 繋ぐなり それを忘れし 人は愚かと

その鳥から、異常な菌が出るとは、何とも、複雑な思いである。

そして、ラオスのことである。
見ないと、思い、入らなかったが、矢張り、支援をしたいと、次は、直接ラオス入りしょうと思う。
子供服のリサイクルである。

野中が、渡したという、皆々の写真を見て、矢張り、やろうと、決めた。
資金は、何とかなると、思うのみ。

原油高は、貧しい人を、益々、貧しくする。
ノーン・カーイでは、普通の店先に、ウイスキーの瓶に詰めた、ガソリンを売っていた。それも、半分程の量である。
走る分量だけ、入れるのだろう。

ラオスでは、廃車となる車を乗っているという。
さらに、酷い状況である。
車を使う度に、バッテリーに電気を入れるという。

勿論、それぞれの国のことは、その国の、政治の問題であり、関与できないことである。
ただ、言えることは、主義など、どこ吹く風である。
政治家は、支配者層に入り、一人勝ちである。
共産、社会主義も、幹部になれば、良い生活が出来る。
社会体制など、ナンボのものでもない。

兎に角、国民、民が、幸せであること。
広く、富が分配されること、これが、理想である。
しかし、それが、歴史のテーマでもあった。未だに、解決するような、思想は、生まれない。

富を独り占めする者たちとの、戦いである。

生き物の化石の、石油で、溢れるはがりに、金を得ている人々がいる。
ドバイを聞くが、どれほど、持つだろう。
石油の権利を有する者、王だというから、呆れる。

アラブの金持ちに、憧れることはない。

地獄とは、この世のことである。
格差甚だしく、世界の七割が、飢える。

GMP二位の日本が、十二位になった。
貧しいインドも、日本より、長者が多い。

誰も、日本の貧しい子供たちのためにと、世界から、ボランティアに来ることはない。
しかし、インドの貧しい子供たちのためにと、日本人が、ボランティア活動をしている。
矛盾である。

格差といえば、インドの格差は、天文学的格差である。
最も、ヒンドゥーは、金持ちに生まれるのは、前世の行いが良かったからであり、貧しいのは、前世の行いが、悪かったと、単純に考える。
だから、貧しい人を見ても、平然としている。

インド独立の、ガンジーは、立派な人であるが、彼は、また、仏教徒を、最低最悪の、環境に置いた。
カーストにも、入らないという、最悪の身分を得ている。

マザーテレサも、尊敬される、行動を起こしたが、何一つ、インドの考え方に、影響を与えなかった。
キリスト教世界に、大きな影響を与えたが、それならば、詮無いことである。

マザーテレサが、宗教ではなく、人道として、人類愛の行為として、語れば、もう少し、世界に影響を与えた。
神様のために、素晴らしいことをと、言い、逃げてしまった。
キリスト無くして、彼女の行動は無い。

どんな理由であれ、良いことをするのだから、いいのだと言えば、それで、終わりである。

NPOヤクザというものがいる。
善を成しているという、前提の元に、私腹を肥やすという、輩だ。
どんな理由であれ、良いことをするのだから、いいとは言えない。

寄付商売というものがある。
それは、また、乞食商売とも、言う。

説明するまでもない。
私も、その一人である。
その自覚を、持っている。
支援を受けて、行動する。
自分を律する力が必要である。ゆえに、私は、法人を取らない。あくまで、個人活動である。興味があれば、私と、一緒に行動すれば、いいのだ。

私が、何をしているのか、その目で、見ればいい。

何を言うのかではなく、何をしているか、それが、問題である。

ラオスに、野中一人を送り、支援の子供服を、配らせた。
野中が言う。
偽善的行為のように、思えて、本当に、勇気がいたと。
しかし、それをして、皆の顔を見て、偽善的行為でも、何でもいい、皆が、喜んだ。そして、それは、日本の、皆から、貰ったものである。
単に、自分は、橋渡しをしているだけだ。
更に、村の人々が、野中を仲間のように、扱ってくれた。
村を案内された。
友人になった。
私は、それで、いいと、思う。その他に、望むことはない。

布教でも、主義でも、主張でもない。
ただ、友人としての行為である。それで、いい。

偽善か、否かは、私の心一つの、問題である。

ある有名、カトリック作家は、ヤクザからでも、寄付を貰うと、言った。お金は、使い方であると。
あえて、カトリック作家というのは、彼女が、それを望むだろうと、思うからである。

善と偽善の間にあるものは、私一人の心の、問題である。

野中は、以前の自分ならば、鼻で笑った行動であったという。

つまり、多くの人は、鼻で笑うのであろうと、思う。
しかし、やらないより、私は、やるのである。それは、私だからである。

追悼慰霊行為というのは、誰も、理解できない行為である。
つまり、それは、目に見えない世界を扱うからである。
そして、理解されることは、皆無に近い。
そのついでに、私は、支援活動を行うのである。

その程度の行為である。

恥ずかしき その行為でも やらぬより やることを取る それ私ゆえ

中学三年の冬、私は、募金活動をしていた。
突然、その時、顔から、火の出るような、恥ずかしい思いに、とらえられた。
それから、ボランティア活動を止めた。

ただし、頼まれると、引き受けていたが、私が積極的にすることはなかった。

ボランティアは、ラテン語の、ボルンタスという語から出た。
意味は、生きる意味意識である。

その行為は、生きる意味意識を得ることなのである。

それでは、人生、ボルンタスである。
すべてが、それである。

私は、精々、殺されぬ、程度の行動を、心がけて、やることだと、思っている。

勿論、後は野となれ山となれ、野垂れ死にを、希望の人生であるから、どうでも、いいのだが、まあ、その程度だと、言う、つもりである。

それにして、日本は、良い国である。
安心して、水道の水を飲める。
水を飲んで死ぬことがない。

水は、命である。
posted by 天山 at 12:28| H20.02 タイ・ラオスへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月24日

いつまでつづく平和ボケ

平和ボケは、いつまで、続くのか。

中国製造の毒餃子から、中国産に対する不信感が募り、ほとんど売れなくなるだろう。
しかし、それでは、どこの物を買うのか。
国産である。
その、国産の値段は、中国産の倍は、する。

400円で出来る、弁当が、国産の物を使えば、800円になる。
更に、国産のみを、求めると、物価高になる。
当然のことである。

今更、気づくこと、遅すぎる。

自給率39パーセントという意識を、持ち合わせない者、多数。

中国からの物を、拒むと、死ぬ者も出る。餓死である。
低所得者は、中国産の物で、生活出来たのである。
テレビに出ている、アホな、識者たちは、何の痛みも、ないだろう。
金がある。
国産のものを、いくらでも、買って食べられるのである。
そういう、連中の話を、聞いて、頷くほど、馬鹿ではない。

私のような、貧乏人は、自転車を走らせ、卸をしている会社が小売する、店に行き、売れ残りを買うのである。
国産の売れ残りは、中国産と、同じ値段になる。
納豆や、豆腐なども、安い曜日を控えて、買いに行く。

食料については、もう、何十年も前から、私は、心配していた。いつか、食べ物がなくなると。政府の対策も、あって、なきようなもの。本当に、食料を、どうするのだろうかと、心配していたのである。

ここに来て、少し、いや、漸く、日本の食糧事情が、理解出来るようになったのだが、遅い。
とんでもないほど、物価高になる。

さて、毎日新聞、2月21日の、夕刊を見る。
一面のみを、見る。
イージス艦と漁船との、衝突である。
親子の二人の、行くへが、解らない。冬の海である。想像はつく。
それを、思うと、私の心は、引き千切られる思いだ。
このような、不幸な事故を、聞くことになるとは、断腸の思いである。

私は、従兄弟を、海で亡くしている。
船が沈没した。漁船だった。
私は、従兄弟の遺体を引き取りに、父と出掛けた。
16歳の時である。
忘れられない、辛い思い出である。

さて、自衛隊の、平和ボケである。
しかし、自衛隊員を、悪者には、しない。

日本の自衛隊は、軍隊ではないと、皆々言う。
軍隊であるのに、そう思っても言わない。
平和憲法があるからだ。
平和憲法は、あってよい。しかし、自衛のための、軍隊は、必要不可欠である。
勿論、社会、共産主義の人のように、アホになり、国を取られても、いいというならば、別である。
彼らは、日本が、北朝鮮や、中国、ロシアに、取られても、いいと、本気で、考えているのである。
しかし、彼の地に、住むことは無いという、矛盾である。

衝突、12分前に、確認している。
新勝浦市漁協側は、30分前には、多くの漁船を確認しているとの、見解である。

注意力散漫、つまり、平和ボケである。
殺される、でなければ、殺すしかないという、戦闘状態に無い、自衛隊である。当然、ボケる。
それは、国民の意識と、同じであるから、何も、言えない。

ただし、二人の親子を、海に投げ込んだ罪は、問われるべきだ。
御免なさいで、済むことではない。
大臣はじめ、すべての幹部の、辞任であり、更に、罪の意識深い者は、自害すべきである。
それ程の、罪である。

二人の親子は、帰らないのである。

その横の、記事は、耐震偽装の、姉歯被告実刑確定である。
懲役5年、罰金180万円。
弁護側は、罪が重もすぎるという。
私は、罪が軽すぎるという。

この人の偽装で、どれほど多くの人が、経済的にも、精神的にも、追い詰められたか。
建て直しを迫られて、とんでもない、借金を負う人もいる。

刑が軽すぎるし、建て直しをする人の、保障も、取り付けたいところだ。

そして、児童虐待最多とある。
昨年の、ポルノ被害児20パーセント増である。
児童買春事件は、1347件であり、その被害児童は、1600人である。
児童ポルノの、被害児は、304人。

虐待で、死亡した児童は、37人である。

悲惨である。
言葉が無い。

貧しい国では、児童買春が、多々ある。
人身売買もある。
上記を見ると、日本も貧しい国なのである。
物は豊かでも、実に、貧しいのである。
大人、オトナと、呼ばれる人の、犠牲になる、児童が、哀れすぎる。

これは、市中引き回しの上、磔の刑が、よろしい。

子供を汚す者は、未来を、汚すのである。

新聞を読むと、絶望する。
だから、テレビは、なお更、見ない。
更に、絶望するからだ。

コメンテーターの、正義の怒りを、聞いて、そうだそうだと、言えない。
解釈、批判は、誰もがする。

そして、それは、どうでもいい、コメントである。

知性を磨き、感性を澄まし、理性を養う、そんな、正常な人の、コメントは、無いのか。

最悪なのは、宗教家が出て、人心を養うには、宗教心を、などという、アホさである。
日本には、宗教というものは無いと、まだ、知らないのである。

道徳や、人道とは、理性であり、知性によって行為され、感性によって、鎮められる。


posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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