2008年01月26日

神仏は妄想である 47

新約聖書の、四福音書についての、誤り、嘘について、ドーキンスは、多くを語る。

その一つに、イエスが、ベトレヘムで、生まれたという、記述である。
ヨハネは、イエスが、ベトレヘムで生まれなかったことに、多くの人が、驚いたというが、マタイと、ルカは、ベトレヘムで、生まれたことになっている。

しかし、イエスが、そこに至った経緯は、違っている。
マタイは、イエスが生まれてから、ヘロメデ王と、罪無き子供たちの大量虐殺を逃れて、エジプトに移った帰りに、ナザレに移ったということになっている。
ルカは、マリアと、ヨゼフが、イエスの生まれる前に、ナザレに住んでいた。そして、予言を叶えるために、国勢調査のために、ベトレヘムという、ダビデの町に行くとなる。

実は、これは歴史的に、ナンセンスであると、ドーキンスは言う。
ダビデが、実在しているとすれば、一千年前の人物である。
いったい、何故、ローマ人は、一千年も前の先祖が、住んでいた町に、帰ることを、要求するだろうか、ということである。

また、ルカは、実に、軽率である。
国勢調査が、行われたのは、ヘロデ王が死んでから、ずっと後の、六世紀である。

ルカによる福音は、歴史的にありえず、内部矛盾しているとの、判断である。
要するに、物語なのである。
実に、崇高な物語である。

しかし世の中には、聖書が一から十まで本当だと思っている学識のないキリスト教徒がいっぱいいる。―――彼らは聖書を、実際に歴史の忠実で正確な記録であり、したがって彼らの宗教的信念を支持する証拠であると、まったく真剣に受け止めている。
ドーキンス

マタイが、イエスまで、28代をあいだに介しているのに対して、ルカは、41代であり、重複する名前が、ほとんどないのである。

いずれにせよ、もしイエスが処女から生まれたのであれば、ヨゼフの先祖などどいうでもよく、イエスのために、救世主はダビデの子孫であるにちがいないという「旧約聖書」の預言をかなえたくとも何の役にも立たない。
ドーキンス

要するに、信仰とは、学識も、歴史的事実も、どうでもいいのである。信じれば、事足りるのである。
つまり、騙されても、いいのである。それが、満足なのである。要するに、信じる物があれば、いい。
それも、十分に、心地よくなる、空間があり、夢み心地の、生ぬるい空気があれば、いいのである。
教会にいる時は、天使のようであり、外に出ると、鬼になれば、いいのである。
そういう、キリスト教徒を、私は、多く知っている。

小学四年の時に、世界の偉人伝の、イエス・キリストを読み、小学六年の時に、犬飼道子の、聖書物語を読み、私は、感動して、中学から、カトリック教会に通い、そして、15歳の年に、洗礼を受けた。
六年間ほど、熱心なキリスト教徒を、続けた。
その間には、学校で、学ぶことが、出来ないものを、多く、学んだ。
特に、西洋思想である。
そして、権威ある、世界的、権威ある、宗教の信者であることに、実に、満足していた。

そこで、他宗教を侮蔑していた。
救われない教えを、信じている者たちを、哀れんだ。
実に、真っ当な、クリスチャンであった。

しかし、神は、私に、真実を、お示しになった。?????

そんではないべーーー
おめえの、信じているものは、なんだのかーーー
も少し、考えて、みれーーーーーである。

まず、歴史である。
キリスト教が、何をしたのかである。
何を言うのかではなく、何をしたのかを、見れば、それは、明確にされる。

神の名においての、人殺しは、共産主義と、どっこいどっこい、である。

これほど、無慈悲に、人を殺すことが、できるという、驚きだった。

そして、日本の歴史である。
最初の、氏族争いは、何と、宗教戦争である。
蘇我氏と、物部氏である。

純粋な、戦いは、平家と源氏である。
戦国時代から、関が原の戦いに至るまで、宗教戦争ではないという、日本の歴史に、驚く。

西洋の戦争は、すべて、宗教戦争である。

ただ、日本にも、アホがいて、宗教にも、関わらず、武将に対抗した、浄土真宗、門徒の連中がいる。
親鸞も、真っ青であろう。
そんなことは、一言も、言っていないのだ。

それ以前は、僧兵という、組織である。
比叡山など。

何を言うのかではなく、何をしたのかを、見れば、それの姿が、解るのである。

信長が、比叡山焼き討ちをしたが、生ぬるかった。壊滅させて、良かったのである。
最も、仏教を堕落せしめた、天台宗である。

天台宗から、鎌倉仏教といわれる、新興宗教が、起こり、今に至るまで、害毒を、撒き散らし、さらに、その新宗教まで、起こっているのであり、それが、人心を惑わすのである。

死んで、成仏するという言葉は、実は、仏教のものではない。
日本は、元から、亡くなると、神になるという意味で、命、ミコトと、呼んだ。
それが、仏となるに、移行しただけである。
しかし、死んで仏に成るという、教えは、支離滅裂である。

仏陀は、輪廻転生を、離れて、仏になるというのであるから、全く、仏というものを、知らないのである。

西行の歌などにも、死ぬと、仏になるとあるから、すでに、死ぬと、仏だという、言い方が、当たり前だったのだろう。
つまり、日本の思想である。
仏教は、日本思想を離れて、日本仏教足りえない。
それなら、仏教の、教えなどいらない。

妄想で、出来上がった、仏教の教義など、いるわけがない。
仏陀の言葉さえあれば、いいのである。

つまり、何を言いたいのかと、言えば、各宗派の仏教は、いらない。
壊滅して、よし。

仏陀は、教義を説いたのではなく、生き方、その心得を、説いたのである。
妄想ではなく、地に足のついた、生き方である。
仏陀は、読経せよなど言わない。
葬式せよとも、言わない。

心、静かに、己を、見つめて、生きること。
我の主人は、我であることを、教えた。

仏陀は、私を奉れとは、一言も、言っていない。
己を信じ、真理の法を、拠り所とせよ、である。

大乗の教えとは、すべて、屁理屈である。
人の創作である。

さらに、文学であり、宗教ではない。

日本で、最初に、大乗に誤魔化されたのが、あの、聖徳太子と言われる、厩戸皇子である。
悪魔の法華経を講義したものだから、一族郎党皆、死に絶えた。
その血を、継ぐものは、いないのである。

私は言う。
一体、日本の仏教の開祖たちは、霊界の、どこに、いらっしゃるのでしょう。
信徒の一人も、それを、知らないという、悲惨である。
日本の伝統は、こうである。

心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん
菅原道真



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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