神の存在を支持する論証 より
いずれ、聖書については、書き続ける。
19世紀以来、学術的な神学研究者たちは、「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述ではない」という決定的な論証をおこなってきた。すべてはイエスが死んでからずっと後になって書かれたものである。パウロの手紙よりも後であるが、この手紙には、イエスの生涯にあったとされている事実のほとんど何一つとして触れられていない。すべてはその後に、多数の異なる「伝言ゲーム世代」を通じて、いずれにせよ自らの宗教的大義をもち、誤りを犯しがちな筆写者たちによって、何度となく繰り返し書き写されたものである。
しかし、なお、善良なキリスト教徒というものが、何故、存在するのか。
その数は、非常に少ないが、確実に、善良なクリスチャンという人が、いる。
後に、新約聖書などの、嘘について、書くが、彼らは、それを、聞いても、揺ぎ無い信仰を持って、キリスト信者を続けるだろう。
聖書が、嘘、嘘ではないという、問題ではなく、そのようなものを、信仰したという、願いにより、信仰を続けているのである。
そして、それは、実に、個人的な、情緒であるから、私は、否定することなく、受け入れることが出来る。
だが、そこに、非寛容で、排他的な、キリスト教徒ならば、牽制して、おかなければならない。何故なら、それを、人にも、強要しようとするからだ。
心穏やかで、柔和なキリスト信者というものもいる。
それは、ほとんど、キリストを信じるからというのではなく、生来の性質である。
神を信じて生きるという、生き方しか出来ない人もいるということを、私は、知っている。
それを取り上げると、どうして、生きていいのか、解らなくなるのである。
そういう人は、信仰を続けてゆくべきである。
しかし、だから、特別な人間ではない。
そうするしか、方法がないのである。
一番、手を焼くのは、選民意識を持つ、それらである。
私は、他の人と、違う。唯一の神を信じているという、傲慢な意識である。
クリスチャンに、非常に傲慢な者が、多いのは、その、選民意識のせいである。
どれほど、歴史的に、在り得ないという、証拠を見ても、頑固として、聖書の記述を信じるという根性は、生来の、頑固な根性であろう。
揺るがない信仰とは、頑固であり、非寛容であり、排他的であるということだ。
要するに、聖書の正しい、正しくないではない、ある、大物に、囚われてしまったのである。それを、私は、魔界関与と言う。
それは、旧約聖書の神や、アッラーの神を見れば、よく解る。
神もどきなのである。
つまり、神という、存在は、霊界に無いのであるが、神というものを、創造するのである。
それは、霊界の、ある箇所が、関与する。
魔界である。
魔界とは、便宜上の言い方である。何と、呼んでもいい。
彼らの言う、霊性というものを、十分に検証すると、解る。
また、聖人と、呼ばれる者たちの、霊性を見れば、解る。
ちなみに、聖書が、嘘であると解っても、聖書の言葉を肯定し、それを、元に、新しい宗教などを、拓く者も、同じである。
それを、見抜く、つまり、聖書が嘘であることを、見抜く力がないということである。
これで、聖書を引用する、新興宗教の嘘が、解る。
神を、イエスを、作り上げていった過程がある。
多くの人が、関与して、作り上げた。
それは、芸術活動のように、何世紀にも、渡り、続けられてきたものである。
カルトに似たグループが、書き続けてきたものである。
多くの宗教に言えるが、信仰は、知性を頑迷にし、感性を鈍らせる。そして、最後には、理性をも、捨てさせる。
何となれば、妄想の産物に、帰依する、お任せする等々の、耳障りの良い言葉で、篭絡するからである。
勿論、私は、心の安心というものも、それらよって、得られる場合もあるが、多くは、単なる勘違いであると言う。
人間の持つ、知性、感性、そして、理性を捨てて、信仰の道に入るということは、あまりにも、悲惨である。
だが、その悲惨を、喜び、しまいに、神に生かされて生きる、神により、生きるという、境地にまで、達するのである。
それが、妄想の産物なのであるが、本人は、その妄想の世界に遊ぶことになる。
まして、奇跡に近いようなことが、起こると、それは、さらに、拍車がかかり、もはや、手遅れになる。
日本の伝統である、古神道は、独り神という、考え方があり、人は、独り完成するものであるという。
本来は、人間は、そのような、存在であり、妄想の神や仏によって、何か成るということは、無いのである。
どうしても、何かによって、でなければ、満足しないという、無明が、心を支配するのである。
魔物の霊性に、取り込まれた信仰篤き人々を、救うことは、絶望的に、無理である。
何となれば、彼らは、信仰のために、死ぬという。
これほど、人間の心とは、頑なになり、手がつけられなくなるのである。
信仰という、名の元に、である。