2008年01月24日

神仏は妄想である 45

・ ・・ひとえに脳のシュミレーション・ソフトウェアのおそるべき力を実証したいがためだ。これには究極の迫真性をもった「幻視」や聖母の「出現」現象を引き起こす力がある。この精巧なソフトウェアにとって、幽霊、天使、あるいは聖母マリアをシュミレーションすることなど児戯に等しいだろう。・・・

・ ・・モデル構築というのは、人間の脳に非常に得意なことである。私たちが眠っているときのそれは夢と呼ばれている。目覚めているときのそれは想像と呼ばれ、異様に鮮明なときには幻覚と呼ばれる。・・・

・ ・・もし騙されやすい人であればーーーとくに、その人がたまたま若い女性で、カトリック教徒であればーーー聖母マリアを見たとか声を聞いたと主張する。そのような幻視や顕現「現象」は、幽霊あるいは天使、神、聖母マリアが実際にいると信じるに足りる適切な根拠にはなりえない。

神の存在を支持する論証 より

更に、付け加えることが、ある。
多分に、女性に多いのが、妄想の、幻視や、幻覚である。
注目されたいという、自己顕示欲の強い女に、多い。
自分には、幽霊が見える、霊の声が聞こえる等々の、特技を人に、喧伝する。
注目されると、今度は、人を、支配したくなり、あれやこれやと、妄想の、大半が、自己願望を、霊感であると、思い込み、人に、アドバイスをするという。

霊感師、霊能師といわれる、者の多くは、そうである。

一番、病んでいるのは、自分自身であるが、それに気づかないのである。

万が一、霊界の霊体が、出現したとして、それは、全く、別物である。
多くの心霊実験を通して、霊というものと、交信をするが、それは、明確に、その存在の根拠を提示する。
人間の妄想のような、あやふやなものではない。

例えば、何々の神が、降りたという人がいるが、その根拠はない。
霊の、あるいは、自分の願望の声を聞くのである。
それを、聞いたと、判断する。
また、万が一、その神なるものが、降りたとして、それを、客観的に、判断するものは、何一つ無い。
ただ、信じるのみである。
そして、信じるという行為は、誤る。

私も、多く霊体験をしているが、いつも、それは、妄想の一種であると、考えていた。
例えば、体が、揺れる、自分の部屋だけ、地震のようになる等々のことが、起こっても、それは、私の妄想の産物であると、対処してきた。
ただし、友人が、部屋に来た時に、霊の存在を感じて、ある実験をした時、その友人が、はっきりと、それを、認めた。その時は、霊の存在であると、確認した。つまり、友人という、第三者が、それを、確認したからである。

しかし、それも、催眠術のようなものとして、判断される場合もある。

日本には、太古から、審神、サニワと呼ぶ、霊を審判する者を、置いた。
冷静な、第三者の目である。
偽者か、本物かだけではなく、その霊の正体を鑑定する者である。

今なら、心理学者と、物理学者等を、それに当てると、良いと思う。

人間の、脳は、あらゆる処理に耐えられるのである。
また、心理学では、潜在意識による、幻視、幻覚を、十分に、考えられるのである。

更に言えば、霊に逢うということは、こちらも、霊になっているということである。
つまり、次元の違うものである。それに、逢うということは、こちらも、次元を合わせているということである。
通常の状態では、霊に逢うことは、在り得ないということになる。

また、複数の人間が、見たとしても、それは、信憑性に欠ける。
何となれば、共同幻想である場合が多い。
複数での、共同催眠の場合も、多々ある。
ただ、その知識がないゆえに、それを、霊的なことだと、勘違いする。

私は、多くの心霊現象に、立ち会ったが、多分に、暗示効果によるもので、強い願望が、それを、成す。

勿論、霊媒体質というものがあり、霊が懸る場合があるが、それは、その人の、心理的問題に、起因する場合多々あり。
霊媒に懸るということの、意味を知るべきなのだが、そのままに、される。

イギリスには、心霊学会のようなものがあるが、あれは、キリスト教を、ベースにして、霊界を判定するので、非常に偏りのある、霊界理解になる。

実は、日本は、霊に関しては、世界に冠たる、実績があるが、日本の場合は、アカデミズムといわれる、不毛な学者たちによって、すべて、否定されているゆえに、それが、表に出ることは少ない。

肉体には、微弱な電流が流れている。
それが、死亡することによって、無くなる。
無くなるのではなく、それが、霊体からのものであり、肉体を脱いで、霊体になるということである。

その霊の、場が、次元が違う世界であり、次元の違う世界のことを、語るには、限界がある。
霊界にも、超越した、存在は無い。つまり、神と呼ばれるような、超越した存在は無い。

霊の進化のみある。
便宜上、進化した、霊を神と、呼ぶ場合もあるが、それは、真っ当ではない。

日本では、成仏した、しないとの、言葉があるが、それは、実に、特殊な言い方である。
死んで、仏になるという、考え方は、平安期からのものであり、勿論、仏教のものであるが、死んで仏になるという、観念は、全く無い。

死んで、霊になるのであり、仏になるのではない。それは、観念である。
また、成仏出来ず、さ迷うという場合もあるが、それは、浮遊する霊であり、次元移動が、出来ていない霊である。

既成宗教から、新興宗教に至るまで、先祖供養を説くが、先祖を供養して、好転するのではなく、その心が、好転させるのである。
つまり、霊的存在を認めるという、点である。

神という、観念を置かなくても、先祖を供養しなくても、生きられる。
それは、生き方に掛かっている。
ただ、人は、生きられるようにしか、生きられない、という、前提がある。

これを、宿命と言う。

社会通念としての、道徳、倫理というものは、霊界に通用するのかと、言えば、よく解らない。
よく、悪は栄えると言われる。
その、悪とは、この世の、判定である。

霊界より見た場合は、社会通念の行為によって、悪とされる行為も、必要性を認める場合もある。

三次元は、ある次元の投影された、次元であるとも言われる。
科学としても、ある世界からの、投影が、この世であると、考える場合もある。

後に、ドーキンスが、宗教により、道徳が、成り立つのかというテーマについて、語る章を読むことにするが、宗教により、道徳というものが、起こるというのは、考えずらい。

私の、結論は、人間の知性と、感性によるものだと、言うが、更に、理性というものが、その生きる時代の、社会性により、自然発生するものだと、考えている。

最後は、古神道に置ける、天皇、スメラミトコの思想に行くつもりである。
日本の神観念に、救いがある。
日本の神観念とは、分配する者という、意識がある。
それは、手、タを結ぶもの。手を結ぶとは、人と人を結ぶ者である。
それを、カミと、呼んだ。

カミは、超越したものではなく、今、人々を繋ぎ、分配するものという、意味があることを、言う。

これは、すべて、大和言葉の解釈から、出る。

まだまだ、長くなりそうな、エッセイである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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