2008年01月23日

神仏は妄想である 43

「キリスト教はこれまで人類に投げかけられたもっとも倒錯した体系である」といったジェファーソンの意見は、理神論と合致するが、無神論とも合致する。同じことが聖職者主義に強固に反対したジェームズ・マディソンにも言える。「これまで十五世紀もの長きにわたって、キリスト教を法的に確立されたものにしようという試みがなされてきた。その結果、何か得られたか? あらゆる場所で、それは多かれ少なかれ、聖職者の傲慢と怠惰、信者の無知と隷属、そして両者における迷信、偏見、迫害をもたらした」。ベンジャミン・フランクリンの「灯台のほうが教会よりも役に立つ」やジョン・アダムズの「もし宗教さえなければ、この世界は、およそ考えられるあらゆる世界のなかで最善のものであっだろう」といった発言も同様である。アダムズは、とりわけキリスト教に対する驚くほど痛烈な非難をおこなっていた。「私が理解するかぎり、キリスト教は一つの啓示であったし、いまもそうである。しかし、ユダヤ教とキリスト教の啓示の合わせたものに無数の寓話、物語、伝説が混ざり込んで、これまで存在したかぎりもっとも血なまぐさい宗教になってしまうということが、いったいなぜ起こったのか? 」そして、一方ではジェファーソンに宛てた一通の手紙でこう書いている。「人の悲しみにつけこむという点で、人類の歴史がこれまでもちつづけてきたもっとも破滅的な実例のことーーー十字架、すなわちキリストの受難―――をほのめかそうとしているのだと考えるだけで、私はほとんど戦慄を覚える。悲しみという原動力の生みだしてきたものが、どれだけ悲惨な出来事であったかを考えてもみよ」。
第2章 神がいるという仮説 より

アメリカ建国の頃からの、政治家たちの、言動に多く、無神論があったことを、トーキンスは指摘しているが、現在は、驚くほど、宗教が、跋扈していることをいう。

さて、私は、別の面から、考察する。

アダムズの言葉にある、キリストの受難である。
これが、人類の罪を負うという、キリスト教の教義である。
勿論、勝手な、想像である。
しかし、それを、人に強制するという、傲慢である。

イエス・キリストは、そのようなことを言ったのかといえば、聖書に書かれていると、言う。その聖書は、誰が書いたのか。
イエス・キリストではない。
その死後、多くのセクトによって、編纂されたものである。
要するに、セクトの、書物である。それを、正典として、取り上げた教会が、勝手に、そこから、抜書きして、教義を作る。
それに、人類の罪を負ってとある。
それを、信じて、すべての人に、その教義を強制しようとする。

キリスト教の罪は、原罪である。
最初の人間である、アダムと、エバによる罪である。
それが、人類の原罪となったという、お話である。

それが、教会の洗礼によって、許されるというもの。
そして、なお、罪を犯しても、司祭の許しがあれば、許されるという、教義である。教義は、狂気になった。

カトリックに対して、プロテストが起こると、両者は、宗教戦争をはじめる。
しかし、プロテスタントが、出来上がると、続々と、新しいセクトが、出来て、新しい解釈から、新しい教義が、出来る。勿論、それも、狂気である。

人間が、考えることである。

人類の贖いのために、十字架につけられた、主イエスを信じることによって、永遠の命が、得られます、と、道端で、スピーカーから、流す者もいる。
主イエスが、人類の贖いのためにという、あまりにも、狂気の妄想に、取り付かれて、それを、押し付ける強制をはじめると、一神教は、血みどろの戦いに、突入する。

宗教が、政治システムを作り上げているゆえ、結果、国と国は、宗教により、対立するという、単純なカラクリである。

社会、共産主義というのも、宗教と、何ら変わらない。
根は、同じく、狂気の妄想である。

皆々、世界を、大混乱に陥れたい者である。

インド独立後に、国を出た、ネールの言葉。
インドおよびその他の土地で、宗教と呼ばれるもの、あるいはともかくも組織された宗教の偉容はあまりに恐ろしく、私はしばしばそれを非難し、すっかり掃き清めてしまいたいと願った。ほとんどつねに、それは、盲信、反動、ドグマ、偏見、迷信、搾取、および既得権の維持に味方するように思われた。

知性によって、それは、理解される。
そして、感性によって、行為される。
さらに、それらは、理性を元とする。
人間に添わったもの、それらがあれば、すべて解決する。
宗教により、何か、特別なものが、生まれる訳ではない。
それを、宗教によるという人は、勘違い、あるいは、単に知らないだけである。

善良な人とは、宗教に関係ないのである。
また、人類愛を行為する人もである。
それが、宗教により、成っているとしたら、間違いなく、純粋ではなく、宗教の毒がある。

人間の行為に、神や仏を、絡ませることはない。

神や仏が、いなければ、善が行えないというのならば、はじめから、その人には、善が、無いのだ。
子供に、ののさまの目があるから、悪いことをしては、いけませんと教える愚は、行ってはいけない。
何かの目があるからではない、知性と感性、それを、真っ当に行為させる、理性こそ、育てるべきものである。

ののさまの目があると、教える僧侶は、み仏の目があるにも、関わらず、どんなことをしているのか。
僧侶といっても、一般人と、何も変わらない生活をしているのではないか。
違うといえば、大嘘を言い、根拠無き、経典を読経して、金を得ると言うことである。
蒔きも、刈りも、捕ることも、作ることもせずに、のうのうとして、人から、搾取して、生活しているのである。それも、一般人より、十分に良い生活である。

私が、京都や、鎌倉という町を嫌うのは、そういう輩が多すぎるからだ。
鎌倉などは、昼間でも、幽霊屋敷のような、町である。あれほど、僧侶が、いるにも、関わらずである。信じられないのだ。

ネルーの言うとおりである。
それ以上の言葉は、無い。

信仰が無くても、祈る生活は出来る。
信仰が無くても、人間として、立派な人生が送れる。
一体、何をして、人に信仰を、求めさせるのか。私は、迷いであると言う。



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神仏は妄想である 44

多くの人は、自分が神のーーーあるいは天使や聖母のーーー姿をその目で見たことがあるという理由で神を信じている。あるいは自分の頭のなかで神が語りかけたから、神を信じる。この個人的な体験をもつとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、もっとも説得力がある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、もっとも説得力のないものである。

新興宗教系の、体験談に、そのようなものが、多々ある。
要するに、奇跡的なことである。

何も、普段は、考えなかったが、あることが、きっかけで、それは、多分に、辛い時、問題が起こる時、大きな悩みに遭遇した時である。
その時、その教えに出会い、開眼したというものである。
それらは、新興宗教の、雑誌に溢れている。

気づきである。
全く、そんなものを、信じていなかったという人に多い。
溢れる涙で、それを、感得したという、体験である。

すべてが、好転し始めたという。

心理学では、そういう時に、そういうモノに逢うように、自分が、仕向けることを、知っている。

気づきたいがために、自分で、準備するのである。
しかし、それを、神や仏の御蔭だと、信じるのである。
少しはがりの、知性があれば、そんなことはなど、無いのである。

聖典を唱えただけで、病が、癒えたという。
心理的効果であるが、神や仏の、せいにするという。
そして、その指導者である。
そこに、漬け込むのである。

あなたは、自分は直接の「神体験」があるとおっしゃいますか? 確かに、ピンクのゾウを見たという人はたまにいらっしゃるが、だからといってあなたは、別に何の感銘も受けないだろう。ヨークシャーの切り裂き魔、ピーター・サトクリフは、女性を殺すように告げるイエスの声をはっきり聞き、彼は終身刑に囚われることになった。ジュージ・W・ブッシュは神にイラクに侵略するように告げられたと言っている。(神が大量破壊兵器が存在しないという啓示を与えるほど親切ではなかつたのは残念である)。精神病院にいる人間は、自分がナポレオンや、チャールズ・チャップリンだとか、世界全体が自分に陰謀を企てているとか、あるいは自分の考えを他人の頭のなかに吹き込むことができると思い込んでいる。私たちは彼らに調子を合わせるが、彼らの心の内に啓示された信念を真面目には受け取らない。その主たる理由は、彼らと同じ体験を共有する人が多くいないとこである。宗教的な体験がそれと異なるのは、そういう体験をしたと主張する人間が無数にいるという点だけだ。神経生物学者のサム・ハリスが「信仰の終焉」で次のように書いたとしても、それほど過激に皮肉な言い方というわけではなかった。
神の存在を支持する論証 より

合理的に正当化できるような根拠がないあれやこれやの信念をもつ人々を指す名称はいくつもある。そうした人々の信念が極端にありふれたものであるとき、私たちはそれを「宗教的」と呼ぶ。そうでないときには、おそらく「狂気」、「精神病的」、あるいは「妄想的」・・・と呼ばれる。明らかに、大勢いれば正気とみなされるのだ。だが、私たちの社会において、宇宙の創造主があなたの考えに耳を傾けることができると信じるのは正常であるとみなされるが、「雨音が寝室の窓を叩く音は、神がモールス信号で交信してきているのだ」と信じるのが精神の病の現れとされるのは、単なる歴史のめぐりあわせにすぎない。だから、宗教的な人間一般が狂っているとは言わないが、彼らの核心にある信念はまちがいなく狂っている。

私は、いつも、奇跡を起こすものは、魔界関与であると言う。
私の、霊学である。

これさえも、ドーキンスに言わせると、
人間の脳は第一級のシュミレーション・ソフトウェアを走らせている。
と、言われるだろう。

信じるように、信念が導くのである。

宗教団体に、入会してから、どんどんと、事が、好転しましたという、体験談を、多く聞く。それは、また、そう言う人のみに、語らせるからだ。
何も、変化しない人は、それの、百倍、千倍いる。

病が、癒えても、人は、死ぬ。

先祖供養を、一生懸命にしても、いつも、うだつが上がらない人も、大勢いる。しかし、先祖供養で、良くなったという人が、一人でもいると、それは、大多数になるという、宗教の宣伝である。

何度も言うことだか、感謝と、報恩という行為を、宗教によってしか、得られない人は、実に、憐れである。
それは、知性と、感性によって、培われるべきものである。

後に、ドーキンスは、道徳についても、語る。
宗教によって、人間が道徳的になるのではないという、論証である。

神や仏によって、善なる行為をするという、考え方は、実に、偽善である。
知性と、感性により、そして、理性が、それを成す時、人間は、人間として、人間らしく生きるのである。
それは、人間の社会性である。
それは、人間の歴史である。

人間の霊性というものを、宗教によって、得るのではなく、知性と感性によって、得ることが、21世紀の、救いになる。
宗教では、最早、限界である。
何となれば、宗教という、枠では、新しい世紀を生き延びることが、できないからである。

科学と協調した、宗教観というものを、宗教は、決して、持つことが出来ないのである。
科学的ではない。科学である。

よく、仏教の教えが、科学を超えているという、アホなことを言う者がいるが、それは、事後予言と、同じなのである。
要するに、科学の成果に、こじつけているだけてである。

般若心経は、科学的であるというようなことを言う人がいるが、それは、般若心経の、言葉、それも、漢訳された言葉に、こじつけるのである。
それを、また、アホな人は、頷いて、有り難がるという、体である。

大乗の教えの宇宙観が、すでに、書かれているという、アホもいる。
違う。それは、科学が、それを、知ることが出来たゆえに、それに、こじつけて、説得しているだけである。大乗を、創作した者は、単に、妄想で、書いたのみである。
そう、実に、大げさな、表現である。

一ミリのものを、百メートルという、表現をするだけである。
それを、すでに、仏教では、知っていたという、言い方をするという、愚劣である。

事後予言といったが、それ以上でも、以下でもない。

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