2008年01月22日

神仏は妄想である 42

多神教から一神教への変化を、自明な進歩的改善としてあつかわなければならないという明確な理由はない。しかし広くそう認められている。この発展過程から、イブン・ワラック「(なぜ私はイスラム教でないか)の著者」はふざけて、一神教はやがて、もう一つの神を取り払って無神論になるべき運命にあるという推論をしてみせた。「カトリック百科事典」は、多神教と無神論を無頓着にいっしょくたにして退ける。「正式な狭義としての無神論は自己論駁的であり、事実問題として、多数の人間から理に適ったものとして賛同を得ることはけっしてなかった。多神教もまた、大衆の想像力をどれほどたやすくつかもうとも、哲学者の精神を満足させることはできない」
第2章 神がいるという仮説 より

多神教は、多くの差別を受けてきた。そして、現代に至るまで、差別を受けている。
それは、数として、一神教が多いからであるという、簡単な理由である。

一神教を奉じる国の、政府の政策も、一神教を優遇するという、方策がとられている。

ただ、多神教では、このような、理屈を言う者、多々あり。
多は、一にして、すべては、一つの働きである。それが、変化しているだけであると。

宗教は、なんとでも言う。何の根拠の無いものでも、教義として、立たせるのである。

ドーキンスも言う。
私がどうしても書きとどめておかずにはいられないもう一点は、宗教が、いかなる証拠ももたず、もつことができるはずもない細かな出来事について、なぜああも傲慢な口ぶりで断言できるのか、ということだ。ひょっとしたら、ほんのわずかに異なる意見をもつ人間に対して、とりわけ三位一体説というこの領域での異論に対して、独特の激しい敵意を引き起こすのは、哲学的な意見を支持するいかなる証拠も、いずれにせよ存在しないという、まさにその事実なのかもしれない。

トマス・ジェファーソンの言葉がある。
理解不能な提案に対する唯一の武器は冷笑である。観念に理性が働きかけることができるためには、まずそれが明確なものでなければならない。しかし三位一体については、明確な観念をもつ者は誰もいない。それは、自分をイエスの司祭だと称するペテン師たちの単なる呪文にすぎないのだ。

中世の、異端審判は、皇帝に、三位一体を承認させ、異端を徹底的に、殺したのである。
そして、一丁、出来上がったのが、カトリック教会である。
ドーキンスは、言う。
神学は蒙昧主義である。
さらに、
神学は、―――科学や、あるいは大部分の人文学の他の分野とちがってーーー17世紀で、止まっている、と。

信じる者は、信じ込むことで、自己完結するのである。
そして、信じていることは、単なる妄想や、根拠の無い観念である。

それ、すべての宗教に、言えるのである。
宗教的行為ではない。宗教である。

私が言う、宗教的行為とは、宗教のようにみえるが、長年の積み重ねによって成り立った、作法という意味である。
例えば、日本の場合は、新嘗祭などの、伝統行為である。
もっと、砕けると、秋祭りなどの、伝統行為である。
それは、宗教ではなく、宗教的行為である。
宗教という言葉に抵抗があるならば、伝統行為である。
私は、それを、実に、真っ当な感覚であると、観るものである。

先祖が、次第に、形を整えていった、作法を、伝統行為という。
伝統行為の中には、観念が無い。
ただ、伝える先祖の心があるのみ。

人間は、宗教がなくても、伝統行為で、生きられるのである。

ドーキンスは、後に、道徳というものも、宗教によるという考え方を、検証している。人は、宗教が、無ければ、道徳的になれないのかを、問う。

日本には、宗教という言葉が無かった。
最初、江戸幕府が、アメリカのペルーに使用した言葉は、宗門とか、宗旨という言葉だった。つまり、仏教のそれぞれの、宗派のことを言った。それが、どうも違うらしいということで、宗教という、訳が出来たが、実際、日本には、宗教という、観念は無い。
宗教学とは、欧米の一神教により成り、その宗教の概念での、宗教というものは、日本には無いのである。

宗教とは、観念を創作するものである。
それは、皆、人間の頭の中で、捏ね繰り回したものである。

私が、文学の方が、宗教より、勝っていると、考えるのは、文学は、いつも、迷いである。そして、それは、人間の、当たり前の姿である。だから、上等だと、思う。
宗教は、観念により、解決する。本当は、何も、解決していないのだが。

信じる者は、騙されて、観念の遊戯の中に、入れられ、搾取されて、喜ぶというものである。
哀れというしかない。

簡単に言う。
日本の仏教は、すべての宗派が、供養商売に、堕落して、のうのうとしている。
供養という、観念である。
勿論、最初の、供養という意味からは、遠く離れた観念である。

思い込みで、あたかも、それが、あるが如くの、妄想である。

例えば、私の手元に、多くの宗教の供養に関する本がある。
どれでもいいが、手を伸ばして取り上げたものが、立正佼成会という、法華経を信奉する、新興宗教のものがある。
実に、解りやすい、つまり、単純で、誰もが、理解できる、文章である。
それを、見る。

供養には、四つの意義があるという。
第一、 宇宙の大生命である、久遠実成の本仏に、いま現在こうして生かしていただいることに感謝申し上げることです。
第二は、宇宙の大生命を法則を解き明かし、人間の正しい生き方を教えてくださった釈迦に感謝し、その教えに帰依する真心を表白すること。
第三は、われわれを守護する、守護尊神に、心から感謝すること。
第四は、先祖代々の諸精霊を供養すること。
である。

そこで先祖供養の第一義は、こうして人間として存在させてくださることに感謝申し上げることであります。われわれがご宝前で読経し、そのご恩に感謝もうしあげるならば、霊界におられる先祖代々の諸精霊もそれを喜んでくださり、満足されることは間違いありません。そうした「感謝」と「満足」の交流は、必ず温かで美しい精神世界をかもし出します。それこそが先祖供養の根本義なのです。
ところが、無数ともいうべき先祖の諸精霊の中には不幸にしてまだ成仏できずに迷っておられる方があるはずです。供養によってそうした霊を成仏していただくことも、子孫にとって重大な務めであります。

上記、非常に解りやすい文章であり、信じれば、そうなるように、思えるが、実際、仏教の教義としては、支離滅裂である。

例えば、一つを言う。
成仏できずにいる、霊を、成仏させるという。全く、そんなことは、在り得ないのである。
成仏とは、その本人の問題であり、いかに、子孫が、読経しても、成仏など、あるわけがない。
仏になるとは、輪廻から、外れるということである。
何故、子孫の読経によって、仏になるのか。

成仏という言葉一つにしても、勝手な解釈、勝手な妄想であり、全く、何の根拠もない。
さらに、悪いのは、孝徳により、家運が栄えたり、問題が解決するというのである。
要するに、入会すれば、開運するということを言う。
そうして、入会して、良くなったという、体験を載せるのである。

通信販売の、広告のようなものである。
しかし、信じてしまうと、そのようになると、思えるから、愚かである。

一体、いつから、仏陀の教えが、このように、支離滅裂になってしまったのか、呆然とする。

良くなった人が、一人いれば、悪くなった人は、その何千倍、何万倍もいる。
すべての、先祖を供養するという、とんでもないことを、教えるのである。

笑うのは、仏教の最高権威のある、学者が、言うのでと、ある。何を持っての、権威なのか。
アカデミズムによる、権威を、権威というのか。

新興宗教の、まさに、支離滅裂さを、露呈しているのである。
勿論、知的レベルの低い人には、十分に通用するだろう。
また、何も知らない人には、である。
論外である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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