2008年01月21日

神仏は妄想である 41

ドーキンスは、二元論、目的論から、思考姿勢、デザイン姿勢と、論述を展開し、宗教が副産物であることを、裏付ける。
様々な形で、宗教の副産物であることを、提唱する面々を上げて、こう言う。

デネットによって言及されているとりわけ興味深い可能性は、宗教の不合理性は、脳に作られたある特定の不合理な、おそらく遺伝上の利点をもっていると思われるメカニズム、つまり、私たちの恋に落ちるという傾向の副産物だというものである。
宗教の起源 より

そして、実に、説得力ある、展開が繰り広げられる。
ただ今、私は、別のエッセイで、もののあわれについて、という、ものを書いている。
そこでは、日本民族の、伝統である、もののあわれ、という、情感は、恋によるものからだと、話を展開させている。
恋に生き、恋に死ぬこと、そこから得られる、心の様を、もののあわれ、の原点であることを、書いている。

万葉集は、恋の歌、相聞歌が、八割を占める。
宗教というもの、ではなく、日本民族が、恋により、その心の有り様を、作り上げていったということを、書いて、もののあわれというものを、表したいと思っている。

恋とは、原始人間の心的、体験である。

さて、ドーキンスの、論述を見る。

人類学者のヘレン・フィッシャーは、「ヒトはなぜ恋に落ちるのか」で、恋愛感情が狂気であり、厳密に必要だと思えるものに比べてどれほど行き過ぎたものであるかを、みごとに表現している。―――私たちが受け入れやすい熱狂的な一夫一妻制的愛よりもむしろ、ある種の「複数恋愛」のほうが、一見したところ合理的である。二人以上の子供、親、兄弟姉妹、教師、友人、あるいはペットを愛することができるというのは、問題なく受け入れられる。そのように考えていくとき、私たちが配偶者間の愛に全面的な排他性を期待するのは、どう考えても奇妙ではないだろうか? しかしそれが私たちの期待するのであり、理想として目指すものである。それには理由があるにちがない。

第5章の、宗教の起源の佳境に、入ってゆく。

配偶者の愛に全面的な排他性を期待する、という、部分に、私は、宗教そのものを、感じる。
日本の宗教人口は、実に、人口以上の人口であり、おそらく、一人が、複数の宗教に、入会しているのであろうと、推察できる。
万葉集の恋の、民族性が、それに、表されているようだ。

ヘレン・フィッシャーほかの研究者は、恋に落ちることに、その状態に高度に特異的で特徴的な神経活性物質(実際には自然の麻薬)の存在を含めて、独特な脳の状態がともなうことを示した。進化心理学者たちは、この不合理な一目惚れが、共同親たるパートナーに対する忠誠心を、子供を育てられるだけの長期間にわたって持続させるための一つのメカニズムになりえるのではないかという彼女の意見に賛成している。

恋により、自然の麻薬が、脳内から出る。
そうであるから、恋に生き、恋に死ぬことが、できるというものである。
恋は、盲目である。
恋は、病であるとも、言われた。

蓼食う虫も好き好きとは、恋の理解不能を言う。
どうして、あのヒト、あんなヒトを好きになったの、である。
恋は、止められない。

不合理な宗教が、もともとは恋に落ちるために自然淘汰によって形作られた不合理なメカニズムの副産物だということはありえるだろうか? 確かに、宗教を信じることは恋に落ちるのと同じ性質のものをもっている(そして両方とも、麻薬でハイになったときの属性の多くをもっている)。神経精神科医のジョン・スミーンズは、この二つの熱狂によって活性化される脳の領域には有意の差があると警告している。にもかかわらず、彼はいくつかの類似点をあげている。

つまり、
宗教がもつ多数の側面のうちの一つとして、一人の超自然的な人格、すなちわ神に集中する強い愛、プラスその人格の偶像への尊敬の念というものがあげられる。人間の生活はおおむね、私たちの利己的な遺伝子と、心理学的な強化の過程によって衝き動かされている。正の強化の多くは宗教に由来する。すなわち、危険な世界にありながら自分は愛され、保護させているという温かく心地よい感情、死の恐怖の消失、困ったとき祈りに応えて、山からやってくる助けといったものである。同じように、自分以外の現実の人間(普通は異性)を対象とする、いわゆる恋愛も、他者への同じような強い集中とそれに関連した正の強化を見せる。こうした感情は、相手のイコン、たとえば手紙、写真、そしてヴィクトリア朝時代には髪の房さえも引き金となりえた。恋に落ちた状態は、火のように熱いため息といった、多くの生物学的な随伴現象をもっている。
と、言う。

祈りによって、そのような、現象を引き起こすことは、実に、多い。
たまたま、恋ではなく、信仰という、状態において、恋と、同じような、現象を引き起こす。
恋が、できない状態、あるいは、恋に縁が無い場合も、信仰に、没頭すること、多々あり。

恋が低俗で、信仰が、高尚であるとは、言えないのである。

誤作動、あるいは、転移とでも言う。
恋の激情を、宗教に向けるということは、実に、有り得るのだ。

徹底した、思い込みが、脳内に、麻薬をもたらし、一人それに、酔う。
神との合一とか、仏との、一体とか、瞑想による、恍惚感というもの、脳内の自然麻薬の、お蔭である。

麻薬撲滅を運動しても、いかに、取り締まろうが、無くならないのは、使用する人がいるということだ。
自分で、脳内麻薬を作れない人は、錠剤の麻薬に頼る。

恋により、麻薬を作られない人が、信仰によって、麻薬を作る。すると、止められない。そして、熱心な信徒として、その信仰に命を、捧げることになる。
勿論、個人の自由である。

しかし、何故、トーキンスが、神は妄想である、を書くのか。
それは、宗教を、強制されるからである。
自由であるべきはずの、個人的、極めて個人的な、情緒を、強制されるからである。そして、裁かれるからである。

支配者が、宗教を掲げて、人の自由を奪うからである。
そして、私は、更に、それらが、最も、平和的ではないからである。と言う。

一人で、行っているのならば、問題は無い。
インドのヨガ行者が、どんな、苦行でも、勝手に行っているうちは、いいが、それを、人に強制すれぱ、迷惑である。
まして、それが、真実であり、それに、従えと言われれば、また、実に迷惑である。

布教、宣教等々の、宗教の、伝播は、ありがた迷惑なのである。
だが、騙される人は、宗教に勧誘されたことを、感謝するというから、如何ともし難い。

麻薬は買うが、宗教は、布施、献金、という、搾取を持って、堂々と、金を集める。更に悪いことは、信徒の金を使い、指導者が、その、野心のため、個人的な、快楽のために、使用するという、呆れた行状をするということ。
快楽とは、欲望の云々ではない。
さらに、人を集わせるために、信徒の金を利用して、宗教の巨大化を図るという、馬鹿馬鹿しいことをする。

信徒は、自分の金で、大きな伽藍を建てる宗教を、誇るという、呆れた様である。
出した金で作られた、お札を、また、金を出して買うのである。

すべて、脳内の麻薬のためである。

ここでガの光コンパス反応に相当するのが、一人の異性、たった一人の人間とだけ恋に落ちるという、この一見不合理だが有益な習性である。脳のメカニズムの誤作動の副産物――ガがロウソクの炎に飛び込むに相当するーーは、ヤハゥェ(あるいは聖母マリア、あるいはホスチア、あるいはアラーの神)との恋に落ち、そのような愛に動機づけられた不合理な行動をおこなうことである。

ホスチヤとは、ミサにより、パンが変容して、キリストの体になると、信じられる、パンのことである。

私は、個人的に行うことに何の抵抗もない。
個人的、行為であるから、没頭すれば良いのだ。
マスターベーションを禁止するような、馬鹿なことを言うのではない。

それを、他人に、伝播させる行為に、危険を感じるのである。また、多くの戦争の種となるのである。
それでなければ、ならないという、断定的行為を、である。
マスターベーションを、多くの人とするという、狂いに、私は、驚愕するのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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