2008年01月20日

神仏は妄想である 40

宗教が何かの心理学的な副産物であるという考え方は、進化心理学という、目下発展中の重要な分野から自然に生まれてくる。進化心理学者たちは、眼がものを見るために、そして翼が空を飛ぶために進化した器官であるのとまさに同じように、脳は、一連の専門的なデーター処理の必要性に対処するための器官(モジュールと言ってよい)の集合ではないかと言っている。血縁関係を扱うモジュール、互恵的なやりとりを扱うモジュール、共感を扱うモジュール、等々が存在するわけだ。宗教はこうしたモジュールのいくつかが、たとえば、他人の心についての理論形成のためのモジュール、同盟を形成するためのモジュール、集団内メンバーを優遇しよそ者には敵対的に振舞うためのモジュールが誤作動したことの副産物とみなすことができる。
宗教の起源 より

さらに、物理学にても、ついに、次元の差があることを、突き止めようとしている。
ワープする宇宙という、本を書いた学者がいる。
東大にても、講演をしたというから、本格的である。

宗教が、負っていた、次元の違い、つまり、霊界の存在さえも、科学の手になる、時代に突入したといえる。
勿論、それにより、ついに、科学でも、証明される、霊界と、更に、宗教活動の、布教を旺盛にする、心霊宗教団体も、現れるだろうが、基本的に、それらと、違う。それらは、妄想の霊界のことを言うのであり、物理学の次元違いの、霊界のことではないのだ。

だが、ドーキンスは、少し違う。
続けてみると、

こうしたモジュールのいずれも、ガの天空航法に相当する役割を果たしうるもので、私が子供の騙されやすさについて説明した例と同じような形での誤作動を起こしやすい。こちらも「宗教は副産物」であるという見解の持ち主である心理学者のポール・プルーニは、子供にはもって生まれた心の二元論に向かう性向があると指摘している。彼にとって宗教とは、本能的な二元論の副産物である。私たち人類、ことに子供は、生まれながらの二元論者ではないだろうかと彼は言う。

二元論者は、物質と、精神の間に、区別をつける。
一元論者は、精神は物質、脳の中の物質の一つの表れで、物質と別に存在することは、ありえないと、考える。

それは、つまり、宗教は、二元論の、最たるものであるということだ。
簡単に言えば、肉体と、精神、あるいは、心、魂、霊、は、別物という、考え方である。
肉体に、魂が宿り、死後、肉体から抜けて、魂は、霊界に入る、という、考え方は、まさにそうである。

しかし、心霊と、宗教の違いは、教義によって、それが在る、無いということになる。
ドーキンスは、物質を離れて、精神、心というものは、在り得ないという。
それは、脳内物質であるというのだ。

二元論者は、ほんのわずかな機会でもとらえて、生命をもたない物理的な対象を人格化し、滝や雲にさえ、精霊や悪魔を見る。
ドーキンスは言う。

それは、つまり、子供の思考形態であるということだ。

日本の伝統、万葉集は、その、二元論の考え方で、溢れている。
だが、それは、宗教ではなく、文化であり、精神の芽生えの時期である。

生まれ変わりという、考え方も、つまりは、入れ替わりという、考え方である。
霊が、移り行くのである。
転生輪廻という、考え方にある。

ドーキンスの論述は、私の霊学にも、大きな影響を与えた。
つまり、転生するということの、説明は、実に難しいものである。
前世というものは、単純なものではないのだが、Aという、魂が、Bに、生まれ変わったと、簡単に言う。そんなものではない。
私の全人格が、すべて、生まれ変わるということは、在り得ないのだ。

だが、通俗的な、前世云々を言う者、そのように、単純に言うのである。

さらに、ドーキンスの分析は続き、
子供は生まれつきの目的論者であり、多くの人間は成長しても、そこから完全に抜け出ることはできない。
と、言う。

人間は、つまり、宗教的な観念を受け入れるための、生まれながらの、素地を持つということができる。
二元論、目的論とは、まさに、宗教の特徴である。

意味の無いものに、意味を。
その、想像力は、激しく、妄想的である。
そして、あらゆる事柄を、それに、神や仏に、結びつけて、考えることが、できるのである。完全に、やられて、しまう。

毎日新聞、2月19日の朝刊にて、アフガニスタンの国境地帯出身の、パキスタン有力者が、自爆テロの実行犯に、仕立て上げる秘密訓練所の、様子を話している。
アフガニスタン国境には、複数の秘密施設があり、現在、約400名の、若者が、訓練を受けているという。

武装組織は、貧しいが、信仰心の篤い家庭で、育った15から20歳までの、子供たちに、狙いを絞り、実行犯を、リクルートしているという。
司令官は、20歳以上だと、知識がついて、洗脳しにくい。また、生活に余裕があれば、信仰心も、揺らぐという。

その教えは、自爆の後は、永遠の命が、神から与えられ、食料にも困らない天国に行ける、と教える。

少年たちは、一ヶ月も、たたないうちに、自爆を志願するという。
指名されないと、泣き叫ぶ子供もいるという。

純真な、少年たちが、テロリストたちに、悪用されている。

しかし、これが、宗教の、最終の恐ろしさなのである。
このように、簡単に、自爆を志願するように、洗脳されるということである。

二元論とか、目的論と、言っているうちは、良いが、このように、テロ行為を、簡単に出来る人間に、仕立てられるということは、実に、恐ろしく、許しがたい。

命を懸けて、神や、仏を伝えるという、行動は、純真、純粋に見えるが、それが、洗脳だとしたら・・・

地下鉄サリン事件を、笑えるものではない、ということだ。
宗教の、本質を表して、しまったのである。
あれが、宗教の本体である。

どう、言い逃れしても、同じ、種から、出ているのである。

キリスト教の中には、私たちの教会は、カルト宗教ではありません、という、パンプレットを、配布するものがあるが、根は同じである。

宗教は、どんなに大きくなっても、カルトである。

危険な妄想に、毎日、浸り続けているのである。

宗教が平和と、イメージされるのは、策略である。
最も、平和に、遠いのが、宗教というものの、本質である。




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神仏は妄想である 39

コンピューターは言われたことをする。自分のプログラム言語で書かれた指令であれば、どんなものであれ奴隷のように従う。それこそコンピューターがワープロや表計算といった有益な仕事をするやり方である。しかし、逃れられない副産物として、コンピューターはまちがった指示に対しても同じように自動的にはたらいてしまう。ある指令が善い効果をもたらすか悪い効果をもたらすかを区別する術をもっていないからだ。
第5章 宗教の起源 より

上記の、解りやすい例により、ドーキンスは、副産物としての、宗教の解明を、進める。

善い悪いを、区別する術を持たない、コンピューターの宿命は、そのまま、人間心理の、ある部分を引き出すのである。

疑うことのない服従、という言い方を、ドーキンスは、するが、それは、そのまま、宗教信者に、言えることである。

一度、信じるという、プログラムが決定されると、勝手に、その深みに陥り、また、それを善しとして、信仰を続ける。
果ては、何にも動じないという、何と、不動の信仰というものを、打ち立てる。それを、また、本当の信仰と、思い込むという。

御心のままに、と、クリスチャンは、平然という。
そこには、深い信仰というものが、あるように、見えるが、実は、人生放棄の様も、見えるのである。
確かに、御心のままに、と言う姿勢に、何かしら、威厳めいたものを感じる場合もあるが、それは、勝手な、妄想である。

神との対話が、勝手な、一人相撲になっているという、真実である。

ただ、念仏する以外に、方法がないのである。と、聞けば、深い信仰の様に、見えるが、単に、人生放棄の様子になる、場合、多々あり。
開祖となる人が言えば、絵になるが、単なる信徒が、言えば、アホである。

人間は、そんな、単純なものではない。
その証拠に、それを言う親鸞は、考え過ぎて、思索の淵に沈みこんだ。
今も、思索の淵に、沈んでいるのかもしれない。

長年の、教義、教学というものを、学び続けて、プログラムされてゆくと、もう、元に戻ることが、出来なくなる。
思考方法が、一定で、そこから、複雑多岐に渡る、思考が、出来なくなる。

物思う言葉も、すべて、教義用語からなるという、絶望である。
つまり、人間の最も、素晴らしい、創造性という、エネルギーさえも、乗っ取られてしまうのである。

宗教を、文学という、芸術に、高めた人は、多い。それは、文学として、評価出来る。
例えば、岡本かの子という、作家の、仏教についての、書き物は、大変素晴らしい。
後に、それらを、検証するが、名文が、多い。

それらは、仏教というものに対して、創造性を持って、書くからである。
私の解釈というものを、創作するのである。
創作とは、創造であり、芸術活動である。
それならば、評価に値する。

しかし、多く信徒といわれる者は、皆々、プログラムされて、喜ぶのである。
それは、飼い馴らされるというである。
猿回しのようになることを、喜ぶから、宗教指導者は、たまらない。勝手に、喜び、金を運んでくる。
ゆえに、こんな商売は、止められません、となる。

もしこの頭の柔軟体操が功を奏したら、あなたはもう、子供と宗教に関する私の議論の行き着く先がおわかりだろう。自然淘汰は、親や部族の長老の言うことは何であれ信じるという傾向をもつ脳をつくりあげる。そのような、「疑いをもたず服従する」という行動には、生存上の価値がある。ガが月によって進路決定するのと似たようなものだ。しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウイルスに感染しやすくなる。―――

心のウイルスとは、言いえて妙である。

読経の最初に、逢い難くして逢う経典は、幾千万億年も逢いがたくという、とてつもない、長い年月を言うが、中国で、訳されたことを思えば納得する。
実に、大げさである。
少し、白髪が伸びても、三千丈も伸びたというのであるから。

縁が無ければ、逢うことなくと、妙なことを言うのである。
それに、騙される。

若い頃、法華経を上げますと、日蓮宗系の、様々な宗派の人に言うと、あなたは、素晴らしい縁により、妙法蓮華経に逢ったのだと、言われた。
また、念仏宗系の宗教の人に、阿弥陀経をあげていますと、言えば、同じ事を言われる。

兎も角、一通りの、様々な宗教経典、それは、新興宗教も含むが、読みまくったのであるから、何とでも、言えた。
多くの相談者の中にも、宗教入信の相談があり、それにより、多くの知識を得た。

若い女性が、相談に来て、旦那が、私と子供を置いて、ある宗教の本部に行くとの、相談があり、当時、出来たばかりの、新しい教団であり、私も、迷いつつ、止めるのは、無理でしょうね、と答えた記憶がある。
宗教免疫の無い人が、続々と、入信する様を見た。
耳障りの良い言葉を、並び立てた、著書は、知能レベルの低い人には、実に、心地よいものだったのだ。

仏教、キリスト教の、焼き直したものであり、何も、目新しくないが、知らない者、没頭して、騙された。

教祖の霊能力により、急成長した、教団もあった。
最初は、仏陀の生まれ変わりであるという、教祖は、仏陀を書いた。
私は、仏陀は、生まれ変わらないから、仏になったと言われると、思ったが、兎に角、その人の著書を読んでいた。
そのうちに、仏陀というのは、誤りで、ゼウスの生まれ変わりであると、なった。
気づいたのであろう。
仏陀が、生まれ変わっては、おかしいと。
しかし、その後、魂の六人の兄弟という説を出して、それらが、順番に、この世に出て、修行する等々の、議論である。

どこの、レベルの霊界の情報であるかが、次第に知れてきた。

ゼウスの、生まれ変わりとは、これ如何にである。
ギリシャの神であり、人間もどきである。神もどきである。
何とも、はや・・・

その娘が、大天使ミカエルとなった。
カトリックが、認証した、大天使である。
天軍の総帥ということになっている。

信者には、続々と、西洋の偉人の生まれ変わりが出た。
不思議なことに、日本人がいない。
教祖は、古代語にて、呪文のようなものを、唱えて、前世を引き出すという、芸当をした。

あまりにも、やり過ぎたのであろう。予言通りに、教祖は、夭逝した。
案の定、その後、弟子たちが、分派して、小さな団体が多く出来た。

霊界の、ある世界が、関わると、簡単に出来ることであるが、人は知らない。故に、没頭した。

ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるがゆえに、子供の脳は親と、親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないということになる。―――彼らにとっては、どちらの忠告も同じように信用できそうに聞こえる。両方とも尊敬すべき情報源からのもので、その指示を尊重し、服従することを要求するような厳粛な真剣さをもって発せられるからだ。同じことが、世界に関する、宇宙に関する、道徳に関する、そして人間の本性に関する命題についても言える。そして、その子供が成長して自分の子供をもったとき、当然のごとくその一切合切―――ナンセンスなものも意味のあるものも同じようにーーーを、同じように感染力のある厳粛なやり方で自分の子供に伝える可能性は非常に高い。

簡単に言う。
信者になるということは、兵隊になるということで、兵隊になるということは、命令に絶対服従するということである。
それが、良い命令、悪い命令に関わらず。

死ぬと、解っても、命令が出ると、自爆テロを起こすのである。
特攻するのである。


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