2008年01月19日

神仏は妄想である 38

ダーウィン主義者は、「宗教は支配階級が社会の底辺層を隷属させるための道具である」といった政治的な説明にも満足しない。アメリカにおける黒人奴隷が来世の約束によって慰められ、それがこの世における不満を鈍らせ、ゆえに奴隷所有者に利益がもたらされたというのはさっと事実だろう。宗教が老獪な司祭や支配者によって考案されたものかどうかというのは興味深い問いで、歴史家が注意を向けるべきものである。しかし、それ自体はダーウィン主義的な問いではない、ダーウィン主義者はさらに、人々はなぜ宗教の魅力に弱く、したがって、司祭、政治家、王による搾取に意のままにされるのか、その訳を知りたいと願う。

宗教の起源 より

タイの、東北部、ノーン・カーイ県、メーン・カーイという町の、ある、不思議な寺院を見学した。
敷地に、珍しい像が、立ち並ぶ。そして、本堂のような場所に行き、仏陀像を見た。その二階に上がり、多くの絵画を見て、驚いた。ヒンドゥー一色なのである。
下は、仏陀、上は、ヒンドゥーである。

そして、祈る人々である。

矢張り、他の寺院でも、多く、深く祈る人を見た。
勿論、私も、礼儀に従って、手をあせて、挨拶をした。

その時、何かに打たれたかのように、人は、何故祈るのかという、疑問に、心が占領された。
私も、祈る人間である。
だから、こそ、なおさら、何故、祈るのかという疑問は、大きかった。
しばし、私は、寺院の中に足を止めて、それを、考えた。

私は、10年ほど前から、太陽に、祈りを捧げる。

縁ある人々のために、祈る。
亡き人のために、祈る。

日本の伝統の、祈りとは、宣る、ことであり、それは、言葉にすること、すなわち、言葉が神であるという意識であるから、言葉自体に、力があり、言葉にすることは、成るということであるという、宣る、つまり、祈りなのである。
何か、祈る対象があるわけではない。
だから、像というものを、作らないできた、民族である。

仏教伝来から、仏像というものを、置いて祈るようになった。
伝統から見れば、邪道である。

さて、人は、何故、祈るのか。

ドーキンスは、人々はなぜ宗教に魅力に弱く、したがって、司祭、政治家、王による搾取に意のままにされるのか、そのわけを知りたいと願う。と、言う。

そして、また
老獪な支配者に利用されたものであるにせよ、あるいはたまたま自然発生的に現れただけのものにせよ、神を求める心を究極的に説明するものとは、いったい何なのだろう?
と、言う。

ここで、私の立場と、ドーキンスの立場を、明確にしておく。
彼は、科学者であり、ダーウィン主義の、自然淘汰を、支持して、神は妄想である、を、語る。
私は、人は、霊であるという、立場から、神仏は、妄想である。という、エッセイを書いている。

ドーキンスは、更に、論じて、その解明に取り組む。

私は、人が、神なるもの、超越した存在を求めるに、内なる、何かがあると、思っている。

例えば、人は、無意識にあるものを、知らない。ゆえに、何事かあると、思う。確かに、ある。しかし、その正体を知らない、ゆえに、それを、妄想の、神仏に転化するのであると。

また、この人生の、多くのストレスから、逃れるには、何かに、棚上げすると、気楽である。孤立無援で、自分の人生と、向き合うのは、しんどいのである。

勿論、中には、知性により、それを、超えて生きる人もいる。
また、逆に、厚顔無恥という形で、やり過ごす人もいる。

我が内に、何かあると、思うところに、仏性とか、神の子である意識などと、吹き込まれると、その気になるのである。

それは、ある種の催眠術である。
催眠術をかけられたまま、人生を終わることになり、更に、霊になってからも、その催眠に、気づかずにいる場合もある。

人間にある、霊性、つまり、無意識の意識を言う。それが、明確でないから、神仏というものに、転化、あるいは、置き換えて、祈る。

昔、ある人が亡くなった。
その人が、何と、自分の墓に向かって祈る姿を見て、仰天したことがある。
その人は、禅に興味を持ち、禅寺に通っていたこともある人だった。
自分で、自分の家の墓に、祈る姿である。

その時、これ、宗教の姿に似ると、思った。
つまり、自分で、自分に祈るのである。
本当は、それしか、方法が無いのかもしれない。

霊界入り出来ない、霊を、迷い霊、浮遊霊という。
中には、子供の霊もいる。
それらを、次元移動させるには、方便が必要である。
なんとなれば、霊は、想念の世界のみにあるからである。

延々と、遊び続ける子供の霊に、死んだことを告げて、死んだ人のいる世界に行くことを教える。
しかし、方法が解らない。
子供の、言う通りの世界を見せて、その場から、次元移動させる。

上記、私の妄想であると、されても、よし。

人は、何故祈るのか。
原始宗教体験である。
自然に対する、脅威は、いかばかりだったかを、想像するのは、至難の業である。
その潜在意識を、受け継いでいれば、当然、脅威を恐れと、感じる。
ユングの言う、集合意識に、それがある。
祈りは、ある種の、昇華である。
それが、集団になり、組織化され、その上に支配者がつき、更に、搾取が始まるのを、宗教と、呼ぶ。

人は、葦のように、弱い者である。
一人では、生きられない。本来ならば、共に生きる者に、祈りを捧げてよいものである。相棒に、祈りを捧げて生きるものである。
しかし、それが、出来ないでいる。
互いに向き合って祈る行為が、出来ないがゆえに、共に、並んで、祈りを捧げるという行為に、行き着いたのである。
その対象が、何であれ、それが、作法になった。

ドーキンスは、群淘汰論から、解き明かし、そこから、宗教は、何かの副産物ではないかと、解く。

このところますます多くの生物学者が、宗教はほかの何かの副産物であるとみなすようになっているが、私もそのうちの一人である。もっと一般的にいえば、ダーウィン主義的な生存価について憶測をめぐらすときには、「副産物を考える」必要があると私は思っている。何かについての生存価を問うとき、私たちはまちがった設問をしているかもしれない。その場合、問いをもう少し有益な形に書き直す必要がある。ひょっとしたら、私たちが関心を寄せている形質(宗教)は、それ自体直接の生存価をもっていないかもしれないが、生存価をもつ他の何かの副産物なのかもしれない。私自身の専門分野である動物行動学のアプローチを用いて、副産物説を紹介するのが有益ではないかと思う。

そこから、ガが、蝋燭の炎に飛び込む話が出る。それは、自殺ではなく、ガは、光に向かって飛ぶという習性を持つという。
蝋燭の炎を、月の光と、誤作動を起こすというものである。

宗教的な行動は、別の状態では有益な、あるいは有益だった。私たちの心理の性向の誤作動、不幸な副産物かもしれない。この見方では、私たちの先祖の時代に自然淘汰によって選ばれた性向は、宗教そのものではなかったことになる。それは他の何かの利点をもっていたのであり、そして付随的にのみ、宗教的行動として姿を現すものだったのだ。私たちは宗教的な行動を、そのように名前を変えて呼ぶようになってからはじめて、理解することになるのだ。

更に、ドーキンスは、論述を展開させて、明晰に、語る。

ここに来て、私は、一つ、思うことがある。
信じてしまうと、その妄想から離れることが、出来なくなるという、性向を、人は、持つということである。

完全として、頑固になり、全く、他の説を受け付けなくなる。これは、自己防衛なのであろうか。
私が信じているのだから、正しいという、暴論になるのだ。

ここに、まさに、神仏は妄想である、という、エッセイを書く意味がある。

宗教は、真実を知ることを掲げて、その教えに、帰依させる。そして、それが、唯一正しい道、生き方であると解く。

一つの例を上げる。
韓国では、プロテスタントの布教が甚だしく盛んである。
旅先で、出会った、二人の若い女性は、熱心な、プロテスタント信者である。
彼女、曰く、私たちは、これから、聖書学を学び、マレーシアに、宣教に出るための、準備をしますと。
マレーシアである。イスラムの国である。
彼女たちの、指導者は、のうのうとして、最も危険な布教活動を彼女たちに、吹き込み、鼓舞させているのだろうが、冷静に、判断すると、アフガンに、ボランティアに出た、プロテスタントの信者たちのように、あまりにも、無知蒙昧である。

共に、一神教の者が、相対座すれば、必ず、殺し合いになる。

それを、韓国プロテスタントの、指導者は、知らないのか。

要するに、そういうことである。
一方的価値観のみに、囚われて、他の価値観を知らない者、その名を、宗教信者という。

だから、日本の普通の、おばさんが、イスラムを救うのは、涅槃経ですと、空いた口が塞がらないようなことを言う。
この、宗教の無知蒙昧と、無明、つまり、先行き、真っ暗であること、誰も、知らない。知ろうとしない。逆に、先行き、明るいと、信じ込むのである。

空海が、信者に、日没の太陽を凝視する、行法を行わせた。
その結果、信者は、帰り道、太陽の残像に、山道を転げ落ちるもの、山賊に襲われるもの、等々の被害が出て、それを、中止した。
光を見て、見えなくなってしまったのである。
宗教とは、そのような危険なものである。

実は、暗闇なのだが、信じてしまうと、光があると、思い込み、山道から、転げ落ちるのである。
転げ落ちても、更に、それが修行だ、進めと、躁病的な指導者は、号令をかける。

実に、あわれ、である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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