2008年01月18日

神仏は妄想である 37

宗教的な信念がストレス性の病気から人間を守るという証拠が少数ながらある。その証拠は強力なものではないが、本当だとしても驚くにはあたらないだろう。というのは、まれに信仰治療が効くことがあるのと同じ理由で、そういうこともあるだろうからだ。しかし、わざわざ付け加える必要はないかもしれないが、そのような有益な効果があったところで、宗教的な主張がもつ真の価値をいささかも押し上げるものではない。ジョージ・バーナード・ショーの言葉を借りれば、「信仰者のほうが懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っ払いのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない」
リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第5章 宗教の起源 より

日本の新興宗教、既成宗教も、奇跡のような話が好きである。
要するに、入信して、病が癒えたというものが多い。
勿論、実際は、癒える人より、死ぬ人の方が多い。

回復、全快という言葉が、大好きであるが、それは、一万人に一人、あるいは、十万人に一人とかの、レベルである。しかし、知能の普通の人は、それでも、信じるという。信じたいのである。

宗教関係の、新聞、雑誌を読むと、必ず、それを信じての、効果なるものが、挙げられる。
体験者の言葉である。
しかし、その裏では、全然効き目の無い人の方が多いのである。

要するに、宝くじを当てましたとか、健康食品を飲んで、良くなりましたという、程度と、同じであり、下手をすると、翌月は、ガン再発ということもある。

この、ブレスレットを付けると、幸運が、訪れる。という、程度である。
それが、宗教になると、さらに、オドロオドロしくなるのである。

カルトという、集団と変わらないのであるが、不思議なもので、カルトと、宗教とは、区分けられる。

一万人が集って、題目を上げるとなると、それは、気がおかしいということになるが、信じる人は、集えば、集うほど、安心する。
要するに、一人では、不安なのである。
皆、同じだと、思う、思いたい。そこにいるという、安心感である。
それを、また、宗教は、安心立命という。

そして、指導者は、躁病のように、檄を飛ばす。
勝って勝って、勝ちまくれ、であるから、実に、おかしなことになる。
要するに、宗教というものを、知らないのである。

今、宗教という、概念は、西洋思想からなる。
それは、一神教を元に、出来上がった、宗教という概念である。
実は、仏陀や、日本の古神道、その他、民族宗教と言われるものは、厳密に、西洋の宗教概念には、入らないのである。

宗教とは、一神教の、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に、言える概念であると、言う。

例えば、仏陀は、宗教を創設したのではないということは、仏陀の教えを、辿れば、わかる。仏陀は、生活指導、また、人生の生き方指導をしたのであり、宗教、つまり、絶対者を想定して、拝むことや、信仰することを、言うのではないということが、解る。

現在の日本の、仏教団体、その他、諸派の、新興宗教等々のいうところの、仏教は、仏陀のものではなく、創作したものである。
拝むという行為自体に、誤りがある。

仏陀は、行為によって成る者に成るという、考え方であり、一切の理屈は、言わない。
まして、霊的なお話や、教義、教学等という、チンケなことを、言うものでもない。

仏陀こそ、合理主義者であり、実践家であった。
例えば、鎌倉仏教という、新興宗教では、親鸞が、最も、それに近いが、しかし、思索に脱してしまった。
思い悩み過ぎた。
そして、簡単明瞭により、とんでもない、集団を作ってしまい、今は、後悔で、一杯であろう。その、組織は、宗教ヤクザとして、現在も、日本に君臨するのである。

その思索の帰路に、陶酔する者が多いが、単なる、ポーズの付け過ぎである。

思索は、思想にならない。
単に、迷いのものである。
だから、文学なのである。そうであれば、実に、納得する。
しかし、これ、宗教と言うと、大いに誤るし、宗教ではないはずである。

矢張り、生き方指導や、生き方、思索をすることを、促したと、見る方が、正しい。

宗教は、ストレスを減らすことで寿命を延ばす偽薬なのだろうか? そうかもしれない。ただし、そう主張したいなら、多くの状況において宗教がストレスを軽減するよりもむしろ引き起こすことを指摘する懐疑論者の異議申し立てをかわす必要がある。たとえば、ふつうの人間の弱さと、ふつう以下の知能しかもちあわせないローマ・カトリック教徒が、半永久的な病的罪悪感によって苛まれることで健康が改善されるというのは信じがたい。ひょっとしたら、カトリックだけを取り上げるのは公正ではないかもしれない。しかし、アメリカのコメディアンのキャーン・ランドマンが言う通り、「すべての宗教は同じ。宗教は、祭日はそれぞれちがうけれど、基本的に有罪」なのだ。

人間を支配する場合は、人間の弱さを支配すると、良い。
一番は、性欲である。
マスターベーションを禁止するキリスト教は、多い。
これは、とんでもない、暴挙であるが、そう教えられると、それに罪悪感を抱き、その度に、罪悪感に苛まれて、甚だしい場合は、ノイローゼになる。

こうして、支配するという、カラクリである。

仏教なども、徹底した、性欲セーブ教団であった。
しかし、今は、その反動か、徹底した、性欲旺盛集団になっているという、日本仏教であるから、何とも、お粗末である。

要するに、話に、ならないのである。

日本の、すべての、仏教団は、親鸞の、浄土真宗になってしまったのである。
つまり、僧の妻帯である。

すべての、宗派の開祖は、独身である。
一人身で、生きた。
しかし、今は、見る影も無い。

自分たちに、都合の良いように、いつでも、変更出来るという、宗教の、嘘偽りである。

すべてに、半人前であるが、言うことは、三人前であるから、手が付けられない。
仏陀は、言う。女の膣に、男根を入れてはならない、と。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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