2008年01月17日

神仏は妄想である 36

ニュージーランド/ オーストラリアで在住の科学哲学学者であるキム・ステレルニーが書いた、彼らの生活の劇的な対比を浮き彫りにする文章がある。一方でアボリジニは、生きる上での実践的な技量が極限まで試されるような条件下での、卓越した生き残り能力を持っている。しかしステレルニーはつづけて、ヒトという種は知能が高いかもしれないが、その知能の高さにはねじくれたところがあると言う。自然界とそのなかで生き延びる術にそれほどまでに精通している同じ人間が、同時に、明らかにまちがっていて、「役に立たない」という言葉でさえあまりに寛大で控え目に過ぎるような信仰に心を惑わされるのである。
・ ・・・・・
ステレルニーは、「私たちはいったいどうして、それほど賢明であると同時にそれほど愚かでいることができるのか」誰か説明してほしいと問いかける。
第5章 宗教の起源 より

近頃、ある友人の付き合いのある方が、亡くなった。
非常に、知的で、理性的な人だった、その男性は、最後の最後に、カトリックの洗礼を受けて、亡くなったという。

死の、恐怖からである。
何故、知能の高い、優れたヒトが、明らかに「役に立たない」という信仰に心を、惑わすのかというのは、脳内物質の、麻薬効果を求めるからである。
死を目の前にして、その恐怖から、逃れるべく、信仰という、迷いの中に入り込むことで、紛らわすのである。

それは、日常生活にも言える。
先行き不明である。誰も、明日のことを、知らない。考えれば、考えるほど、不安になり、明日を、恐怖する。
寄るべき心の在り処が無いのである。
それが、信仰への道になる。

安心立命という、この言葉で、どれほど多くの人が、迷いの信仰に入信したか。

私の友人のクリスチャンが言う。
ボランティア活動をしても、宗教が無い人は、基本的に、ボランティアを理解出来ないと。
それは、善行をしているという意識があり、善人であるという、立場での、行動となるというのだ。
彼女は、神のために、ということである。
マザーテレサも、「神様のために、素晴らしいことを」と言う。
要するに、超越したものに、捧げる行為としての、ボランティア活動だから、良いというのだ。

天の国に、宝を積む行為をしているのであり、現世の宝ではないということである。
宗教の無い人は、現世での、行為の、報いを、その行為から得るというのだ。つまり、名誉であり、自己満足である。

宗教の無い人の、善行は、現世での、褒美を得るという意味で、意味の無いということになる。確かに、それは、一理ある。
自己満足の、奉仕活動ならば、自己のみに、その行為は、帰すのである。

だが、果たして、天に宝を積むという、行為と、無宗教の人の、善行に、違いがあるのかといえば、無い。
やることは、同じである。
受け取る側の問題になる。

相手の思いが、どうであれ、やってもらったことが、自分たちに必要なことであれば、いいのである。

行為する側の意味意識である。
それを、神に掛けるのである。
仏でも、いい。

実は、その方が、やりやすいのである。
神や仏の無い人の、善行は、実は、純粋無垢なものである。
それが、名誉であれ、自己満足であれ、相手にとっては、どうでもいいことだ。

させて、貰っているという、感覚になるという人もいる。
ボランティアによって、自分の方が、与えてもらうという、感覚である。
これは、知性の問題である。

要するに、宗教の如何に関わり無く、知性的な人は、その行為によって、何かを得るということである。その、得るものが、さらに知性を、磨くこと、感性を磨くことになるかもしれない。それで、いい。

さて、信仰は、脳内物質の、麻薬効果を生むということである。
人間の脳は、必要なものを、必要なだけ、出す能力がある。
ところが、それが、間に合わなくなるという、事態が起こる。その時、信仰という、得体の知れない、陶酔感を与えるものが、提示されると、陶酔するために、信仰を、掴む。

悩み、苦しみ、病苦にある人々などを、狙うには、訳がある。
もっとも、痛んでいる人を、狙うと、事は早いのである。

本来は、知性によって、超えるべきことを、棚に上げて、得体の知れない、信仰という、迷いに、身を投じる。
信仰の味を、一度しめてしまうと、そこから、逃れなれなくなる。
麻薬と、同じである。

そして、悪いことに、今度は、洗脳が始まる。
宗教指導者が、これが、唯一の教えであるというのである。
そして、その教えを、受け入れた人は、選ばれたのである。
次から次へと、快感を与えられる。
そして、見事に、知性を捨てて、安心立命を得るという、寸法である。

世界中で細部にちがいはあるものの、何らかの形の、時間を浪費し、敵意を呼び覚ます儀礼や、事実に反し、反生産的な宗教という幻想をもたない文化は一つも知られていない。教育を受けた一部の人間が宗教を棄てることがあるかもしれないが、すべての人間は宗教的な文化のなかで育てられるので、そこから離れるためにはふつう、意識的な決断をしなければならない。

宗教の大本は、自然への、脅威に、他ならない。
自然への、畏敬が、宗教、そして、信仰の発祥である。
古代人は、それを、太陽信仰に、高めたのである。

そして、男と女の存在である。さらに、性というものの、不思議である。
原始体験である。
生は、性であるという、事実。

自分の身にあるものであるが、その、性を、崇拝する。
世界中、至るところに、男根、女陰の、奉ずる跡がある。

そして、言葉の発見である。
それが、飛躍的に、人間を知性的に押し上げた。しかし、一方では、原始体験の意識が、見えないものへの、畏敬として、自然から離れた、物を、拝むようになる。
宗教の発生である。

そして、それは、支配につながるという、結論。
人の心の、恐れを、取り込んでの、宗教の発生は、指導者の、また、ものであった。支配するには、実に、理想的である。

現在の宗教指導者の、躁病的、メッセージを見れば、よく解る。
決して、後に引かない、プラス思考のメッセージを流し続けるのである。
その、幻想に、信者は、騙され、地獄の果てまで、着いて行くという、オチ。

北アイルランドの古いジョーク、「わかった。で、あんたはプロテスタントの無神論者なのか、それともカトリックの無神論者なのか? 」には、苦い真実が垂らされているのだ。宗教的な行動は、異性愛的な行動にせよ、普遍的とはいっても例外的な個体の存在を許さないわけではないが、そうした例外者はすべて、自分たちが離反したルールの存在をわかりすぎるくらいよく理解している。ある種に普遍的な特徴があれば、何らかのダーウィン主義的な説明が必要である。

明らかに、性行動のダーウィン主義的な利点を説明するのには何の困難もない。それは赤ん坊をつくるためであり、避妊や同性愛がそれに矛盾するように思える場合でさえ、そうなのである。しかし、宗教的行動は何のためだろう? なぜ人間は、断食し、跪き、ひれ伏し、自分を鞭打ち、壁に向かって熱狂的に首を振り、十字軍に加わり、あるいはその他の、人生を消費し、極端な場合には人生を終わらせてしまうかもしれない犠牲の大きな行いにふけるのだろう?

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。 第5章 宗教の起源 より

上記に、私は、答える。
自己の壮大な妄想に、身を投じるのである。
それは、死ぬまでの暇つぶしに、最もな、意味意識を与える。つまり、超越した絶対者を置くことで、妄想に、拍車をかけて、さらに、陶酔し、脳内物質の、麻薬効果を得るためである。
人間に与えられた、知性を捨てて、妄想に生きるのである。
馬鹿は死んでも、直らないのである。
ホント、お疲れさん、です。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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