2008年01月16日

神仏は妄想である 35

進化論者にとって、宗教儀礼は「陽の差し込む林間の空き地の雄クジャクのように際立った」ものだ。宗教的行動は、大掛かりな、蟻浴や東屋づくりの人間版に等しい。それは時間を消費し、エネルギーを消費し、しばしばゴクラクチョウの毛羽のように過度に装飾的である。宗教は信心深い人間の生活を危険にさらすだけでなく、他の人間の生活も危険にさらすことがある。無数の人間が宗教への忠誠心のために拷問され、多くの場合、どこがちがうのかはほとんどわからない別の信仰をもつがゆえに狂信的な他教徒の迫害を受けてきた。宗教は資源を、時には途方もない規模で、貪り食う。中世の大聖堂はその建造に100人掛ける一世紀の労働力を消費することがあったが、住居やあるいは何らかの有益な目的に使用されることはけっしてなかった。それはある意味クジャクの尾羽の建築版だったのだろうか? もしそうなら、その広告は誰に向かってなされたものだったのだろうか? 宗教音楽と宗教絵画が中世およびルネサンス期の才能の大部分を独占していた。敬虔な人々が神のために死に、神のために人を殺した。血が出るまで背中を鞭打たれ、終生の独身あるいは沈黙を誓った人は、すべて宗教への献身のためにそうしたのである。これらはいったい何のためなのか? 宗教を信じることで得られる利益とは、何なのだ?

第5章 宗教の起源 より

無知ゆえの、無明である。
仏教では、その逆で、信仰の無い者を、無知ゆえの、無明であるという。

命懸けで、伝える教えというものがある、と、思い込むのは、その人の性格である。極めて、強迫的な性格である。

それにより、自分を保つのであり、教えの良し悪しではない。

聖人になる前は、さんざんに、放蕩を尽くしていた、アグスチヌス、イエズス会の、イグナチオ・ロヨラ、数え切れないほどいる。
一転して、信仰深くなるのである。
つまり、放蕩に飽きたのである。
そして、次には、人生を信仰と、その布教に賭けるのである。
何とも、暇つぶしに、持って来いである。

越後の良寛さん。
出家する前日まで、遊郭で、女と、セックスしていた。
翌日、出家して、善人良寛さんになっという。
アホらし。
放蕩に飽きて、何も興味が持てなくて、出家である。
つまり、遊郭にいることと、一緒なのである。
女と、セックスすることも、快楽で、女を絶つことも快楽なのである。

それを、改心、回心と、判断する、自称、宗教家の面々である。
何のことは無い。単なる、生きるための、暇つぶしである。

神や仏という、善に生きると、いう、強迫症である。
つまり、そのようにしか生きられないのである。
それを、聖人だとは、笑わせる。

イエズス会は、ローマ法王の、支配地を拡大するために、世界に布教を開始する。勿論、日本にも、ザビエルが来た。
植民地政策の、第一歩である。
信仰という、野心である。

無いものを、在るという、集団が大きくなるのは、確実に、魔界関与であることを、知らないのである。
巨大教団になればなるほど、魔界が関与する。
悪魔も手出だし出来ない、魔界である。

魔界の手先が、悪魔祓いをするという、仰天である。

知的レベルが低いほど、性格が、強迫的になる。
信心深い者を見れば、一目瞭然である。

信仰という、迷いに入り込むということが、理解出来ない。また、それが、偏狭であるということを、知ることがない。

人間の知性は、そうそう、揺らぐことのないものである。しかし、その、知性の力を知らないうちに、信仰という、迷いに入り込むのである。
作られた経典ということを、知らないのか、知らない振りをするのか。
すべて、人間の手によったものである。
それでさえ、経典に書かれてある。聖書に書かれてある。
その、経典も、聖書も、大嘘だと証明されても、信じるという、無明である。

信じる行為は、手のつけようも無いほど、偏狭、頑固になる。

修正できないほど、矯正されるのである。
自己矯正である。

例えば、拝んでいた神を捨てるとなると、心に大きな穴が開いた気分になる。つまり、勝手に、心に神の居場所を作り、それを、肥大化させているのである。
穴など、空いて、いないのであるが、そう感じるのである。

人間は、思い込みによって、病も癒える性質を持つ。
戦後、成長の家という、教団の本を読み、病を癒した者が、多くいた。
その、本を読むと、心のカラクリが解るのである。
当時、アメリカの心理学を取り入れた、その著作は、画期的だった。
さらに、すべての宗教は、一である。つまり、宗教の教えるものは、すべて、同じものであるという考え方で、どの宗教に所属、どの信仰を持っても、良いという教えである。

しかし、その著作で、イスラムには、一切触れていないのである。
仏典、聖書には、多く触れるが、イスラムには、触れない。そして、自分が、元所属していた、宗教にも、触れない。
万教帰一というが、徹底していないのである。

日本の伝統である、神道も取り入れての、著作である。

病は、影である。はじめから、無いのである。人間は神の子であるから、何も恐れることがない。等、実に、プラス思考の著作であった。
そう、思い込めばよいのだ。

甚だしいのは、細菌も無いと、思えば無いのである。
風邪も引かないということになる。
教祖は、高齢まで生きた。高い霊界に入ったという、霊能者もいる。
しかし、あれほど、金を集めて、教団、わが身のために、使えば、長くも生きられる。
信者は、奉仕活動などするが、教団が、社会的に、意義ある、奉仕活動などしたと、聞いたことが無い。

思い込みを教えると、霊界の高い段階まで、上がるというならば、霊界も、大したところではない。

生きる場の、知性こそ、必要なものである。
病になれば、病を受け入れる。
それは、影でも、なんでもない。
在るものである。

知能レベルの低い、宗教の多くは、そのように教える。
病は無い。心の蔭であると。
病というものの、必要性を知らない。

仏陀が、正しい。
人間は、生老病死である。
だから、生きるによいのだ。

彼らは、人間を、化け物にする。

溺れる者、藁にも縋るという、人間の弱さに付け込むという、罪作りである。

宗教の霊性というものも、すべて、思い込みの、何ものでもない。

霊性とは、知性により、感性を高めてのみ、至るものである。

知性により、感性を高めるものとは、自然に、他ならない。
自然と、共生、共感して、成り立つものである。
何故なら、人間は、自然の中でしか生きられないのである。
宇宙を、含めた自然である。

古代人の、太陽崇拝が、実に、正しいことが、解る。

宗教は、人間の前頭葉に、錯覚を与えるものである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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