2008年01月15日

神仏は妄想である 34

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第一章すこぶる宗教的な不信心者

ひろくおこなわれていて、私たちの社会のほとんど全員が受け入れているーー宗教的人間でない人間を含めてーーのは、宗教的信仰は、攻撃されると非常に傷つきやすいので、どんな人間であれすべての他人に対して払うべき敬意に加えて、異常なほど厚い敬意によって、護ってやらなければならないという前提である。

余計な言葉を、差し挟より、ドーキンスの書くままを、引用する。

北アイルランドでは、カトリック教徒とプロテスタントといったように、「宗教」という言葉が「共同体」に改ざんされるのだ。イラクは2003年の米英軍の侵攻の結果として、スンニ派とシーア派というイスラム教徒の宗派間の内戦状態に陥ってしまった。明らかに宗教戦争であるーーーなのに、2006年5月20日のインディペインデント紙の第一面の見出しと、記事の冒頭はいずれも、それを「民族浄化」と表現していた。この文脈における「民族」も、やはり彎曲語法である。私たちがいまイラクで見ているものは、実は宗教的浄化なのだ。旧ユーゴにおける「民族浄化」という最初の使い方もまた、ほぼまちがいなく、ギリシア正教のセルビア人、カトリックのクロアチア人、イスラム教のボスニア人がかかわる宗教的浄化の彎曲表現である。

2006年2月に、デンマークの新聞が、預言者ムハンマドを描いた12枚の風刺漫画を掲載した。
それから、一ヶ月をかけて、イスラム教徒の小さな集団によって、憤激が慎重かつ組織的にイスラム世界全体に醸成されていった。
この集団の指導者は、アラブ諸国で、好ましからざる人物と宣告されて、デンマークで、庇護を与えられていた、悪名高い二人のイマーム導師だった。
彼らは、さらに、記事の写真を捏造し、デンマークにおけるイスラム教徒への不当な処遇と称する嘘の記事を掲げて、イスラム諸国に、喧伝した。

その後の、イスラム教徒の様々な、暴力は、見ての通りである。
デンマークの大使館や、キリスト教の施設等への、暴力である。
それは、インドネシアまで広がった。

ドーキンス曰く
これらの人々がなによりも愛しているのは、本当は、地獄のような大混乱なのである。

まさに、狂人である。
信教の自由を掲げると、人権も何も無い。
裁判でも、勝利するのである。

差別に関しても、信教の自由を持ち出せば、裁判に勝利するという、摩訶不思議である。

アメリカでは、キリスト教原理主義は、平然として、同性愛は罪だ。イスラム教徒は嘘つきだ。中絶は殺人だと、叫んでもいいのである。

彼らには、静かな、信仰というものが無い。
恐ろしく、過激な、闘争による、信仰宣言がある。

ある、敬虔なクリスチャンは、正しい神の教えのための、戦争ならば、必要だと、平然として言うのである。
要するに、宗教浄化である。

例えば、どんなに穏健なイスラム教徒でも、簡単に、死刑を宣告する。
アッラーと、ムハンマドに対する侮辱罪、不敬罪として。

ジャーナリスト、アンドリュー・ミューラーの言葉。
イスラム教徒の価値観は他のいかなるものにも勝るーーーこれは、イスラム教徒の誰もが実際に思っていることで、他のどの宗教の信者も自分たちの宗教が唯一の道であり、真理であり、光であると信じているのと同じことだ。もし人々が自分の家族よりも七世紀に教えを説いた人間を愛したいのであれば、それは彼らの勝手だが、他の誰もそれを本気で受け止めるように強制されることはない・・・

信じる行為とは、完全に理性を失う故に、狂うのである。
どの、宗教信者も、我らが、唯一と、思い込むのである。
理性が狂うと、その、感性はまた、狂う。
すると、平気で、人を殺すのである。

21世紀は、この悪夢から、逃れられるのか。

世界宗教者会議という、茶番が行われている。
いくら、議論しても、はじまらない。
参加する者、皆、理性を失い、他宗教との、対話など出来ないからだ。それを、知らない。
皆で、お茶を飲み、食事をして、終わりである。
他宗教を尊重しましょうと、宣言するのが、関の山である。

しかし、そんなものは、すぐに流れる。誰も、本気で、そう思っているのではない。

前法王、ヨハネ・パウロ二世が、ギリシャ正教と、和解のテーブルについたが、ただ、それだけである。
法王の野心は、統一である。
和解など、できるものではない。
和解して、どうするのか。

現法王は、アジア人の枢機卿を解任し、白人支配に戻そうとしている。

宗教の無明は、甚だしく、理性的な話し合いなど、出来ない状態である。

私は、そんなことだけのために、誰かを屈辱したり、傷つけたりすることに賛成できないのだ。その他の点では世俗的な私たちの社会で、宗教があまりにも不釣合いな特権を与えられていることに私は好奇心をそそられ、当惑させられる。
と、ドーキンスが言う。

はっきりと、そんなことだけのため、と言う。

宗教とは、そんなこと、なのである。

20世紀前半の評論家である、H・L・メンケンの言葉。
われわれは他人の宗教を尊重しなければならないが、あくまでそれはその人の奥さんが美人だとか子供が賢いという言い分を尊重するというのと同じ意味においてのことである。

何故、宗教の信者は、その教えを、唯一の正しい、真理の教えと、思い込むかというのは、実に、簡単である。
その教えに、不安を抱いているからであり、その不安を、他宗教を、排斥、攻撃することで、解消するからである。

古神道を奉ずる私には、そういう、ものは、一切無い。

自然と、共生、共感するという、一点にある、古神道という、日本の伝統には、他を排斥し、攻撃するという、意識が無い。
何故なら、自然と共にしか、生きられないからである。
それは、理性である。
理性的であれば、他宗教を、いくらでも、寛容に受け入れられる。
甚だしい場合は、一時的に、他宗教の信者としても、行為できるのであるのである。
それによって、自分の何ものも、犯されることも、傷つくこともない。

私の先祖は、立派でした。そして、あなたの、先祖も、立派でした。しかし、私の先祖の方が、あなたの、先祖より、やはり、優秀で立派でした。
この程度の、知的レベルが、世界宗教と言われる。

そしてそれらが、皆、妄想に支えられているということである。
それを、総称して、馬鹿は死んでも、治らないという。

敬虔なクリスチャンも、熱心な、念仏者も、誇大妄想の題目者も、レベルの低い霊界の霊人から、啓示を受けた宗教を、奉じる者も、皆、一緒に、馬鹿は、死んでも治らないと、信じるべきである。

全知全能の神も、大千三千世界も、完全に妄想であることを、知るべきである。
それを、理性という。
理性は、知性を育て、感性を磨くのである。
そうすると、当たり前のことに気づく。

当たり前のこととは、自然の中でしか、生きられない人間であるということである。
太陽が、一秒停止すれば、この世は、地球は、壊滅する。

太陽崇拝の、古代人の方が、実に、真っ当である。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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