2008年01月14日

神仏は妄想である 33

19世紀以来、学術的な神学研究者たちは、「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述はない」という決定的な論証をおこなってきた。

ルカ福音書などは、歴史的にありえず、内部的に矛盾している、と、結論づけられている。

一々、その例を上げない。
面倒だからだ。
それは、研究者の、書いたものを、読むことを勧める。

聖書にしろ、コーランにしろ、仏典にしろ、それぞれは、教祖が、亡くなり、しばらく経てからの、書き物である。
二三年後ではない。仏典などは、300年以上を、経ている。


キリスト誕生の物語である、東方の星、処女懐胎、王による赤子の殺し、奇跡、復活と、昇天を含めて、イエス伝説の本質的な、特徴のすべてーーーどれもこれも一つ残らずーーーが、地中海および近東地域にすでに存在した他の宗教から借用されているという経緯を示した。

聖書が一から十まで本当だと思っている学識のないキリスト教徒がいっぱいる。
彼らは聖書を、実際的に歴史の忠実で正確な記述であり、したがって彼らの宗教的信念を支持する証拠であると、まったく真剣に受け止めている。

完全完璧に、信じる者は、騙されるのである。

私は、キリストの絶唱という、エッセイを書いた。
それは、キリストの奇跡を、現実のものとするという、考えであり、そうでなければ、キリストの絶唱というものを、書けないと、判断した。
それは、奇跡によって、イエスキリストは、今も、存在し続けていると、確信するからだ。
つまり、それは、奇跡を行えないキリスト教徒は、キリスト教徒たりえないという、ことであると、言いたかった。

前ローマ法王が、射撃されて、命を狙われた時に、ファティマの聖母が、助けてくれたというが、実際、彼を助けたのは、医者である。

こういう、医者に対する、不遜な姿勢を、キリスト教徒の代表が、行う、言うという、驚きである。

一事が万事そうである。

法王に、銃弾が弾き飛ばされたというなら、キリスト教徒であるが、撃たれて、それを、医者に取り除いてもらい、聖母のお蔭であるという、根性は、そうとうな、玉である。

神の代理者である、法王は、亡くなると、神の国、天国に入ると、信じているという、驚き。
金持ちが、天国に入るのは、ラクダが、針の穴を通るより、難しいとの、イエスの言葉が、嘘になることを、知らない。

とっても、いい気なものである。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという、新約聖書の、四福音書は、正典とされているが、実は、他にも多くの福音書がある。
しかし、
正典にされなかった福音書は、四つの正典に収められたものよりも、あきれるほど納得しがたい物語を含んでいたために、聖職者たちによって排除されたものである。

ハリーポッターより、低俗で、正典に出来なかったということである。

彼らが書いたことのほとんどは、正直な歴史を書こうとする試みではけっしてなく、「旧約聖書」の単なる焼き直しにすぎなかった。なぜならば、福音書の書き手たちは、イエスの生涯は「旧約聖書」の預言をかなえるものでなければならないと心底から信じ込んでいたからである。

要するに、新約聖書も、信じる行為から、書かれたものであるということだ。
信じる、つまり、騙されるのである。

聖書にある証拠によって神を信じるように説得された人々がいる。
しかし、それが、大嘘であるとされるのである。
どうするのか。
答えは、簡単である。
信じる者は、騙されるのであり、それを、喜ぶのである。


イエスが何らかの種類の神の地位を宣言したという歴史的な証拠はごく小さなものである。

それなのに、ああ、それなのに。
どうして、このようなことになったのか。

恐れと、不安にある人が、こうあれかし、と思う、気持ちが、福音書を書かせたのである。
そして、一度、信じてしまうと、それは、自己暗示であり、自己洗脳によって、確実になる。嘘であるが、真実であると、撹乱するのである。

私が、キリストの絶唱で、キリストの奇跡を、肯定したのは、キリスト教徒は、奇跡を行えという、メッセージである。
種一つの信仰があれば、山をも、動かすという、信仰を、実践してこその、キリスト教徒である。

その、メッセージを込めての、キリストの絶唱だった。

さて、キリスト教徒は、少し賢く、聖書を検証すべきである。
無知蒙昧では、信仰など出来ない。
また、知的レベルが、低いというのも、信仰は、出来ない。
信仰とは、実に、知的な行為である。

そこに、妄想の思い込みがあっては、ならない。

あらゆる、種類のキリスト教徒に共通するものは、信じることによる、酔いである。
思春期の女の子のような、自我意識拡大の、様を、信仰というのだから、終わっている。

世界を超えるような、自我意識の拡大は、一種の精神疾患である。

誇大妄想。
それに尽きる。

バートランド・ラッセルの言葉が、第三章に載っている。

知的な意味で著名な人々の圧倒的多数はキリスト教を信じていないが、大衆に対してそのことを隠している。なぜなら、彼らは自らの収入が減ることを怖れているからだ。

宗教の太鼓もちをすると、それだけで、収入になるのである。
そういう、学者、作家、芸術家、芸能人等、多数いる。

日本にも、大勢いる。
一人、一人を、上げていると、終わらなくなるので、省略する。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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