2008年01月13日

神仏は妄想である 32

神仮説は、証拠よりもむしろ個人的な啓示にもとづく地域的な伝統の上に築かれたものだから、さまざまな変形版があるとしても驚くにあたらない。宗教史家は、未開部族のアニミズムから、ギリシャ、ローマ、北欧神話の多神教を経て、ユダヤ教およびそこから派生したキリスト教やイスラム教といった一神教にいたる発展過程を認めている。

神は妄想である。第二章、神がいるという仮説、より。

宗教の過程についてを、考察するのである。
突然、宗教というものが、現れるのではない。原始信仰体験から始まる、アニミズムから、次第に、整理整頓され、支配者に、都合の良いものとしての、宗教が、起こる。

ローマカトリックという、キリスト教も、ローマが、国教と定めてから、巨大な権威を持つようになる。それでは、それ以前の、ユダヤ人キリスト教徒は、どうなったのか。異端として、殺された。

ヨーロッパ中世史は、異端審判に、覆われている。
皇帝と、組んでの、異端審判であるから、驚くのである。
神の名において、平然として、人を殺し続けた。

むしろ私は、神仮説をもっと弁護のしようがある形で定義したいと思う。すなわち、宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説である。本書で代筆として提唱される考え方は、何かを設計できるだけの十分な複雑さを備えたいかなる創造的知性も、長期にわたる斬新的進化の単なる最終的産物にすぎないというものである。進化によって生じた創造的知性は、当然のことながら、すでにできあがっている宇宙に後から生まれてくるのだから、その設計に責任をもつことは不可能である。このように定義された意味における神は妄想である。

さらに、それは、有害な妄想である、という。

ドーキンスは、ダーウィンの進化論による、淘汰に関して、実に興味深い考察を続ける。

すでにできあがっている宇宙の後から生まれてくるのだから
つまり、宗教は、虚であるから、なんとでも、こじつけて、説明することが、出来るのである。

労働は、しないが、理屈は、三人前、いや、五人前である。
私の知り合いの、お婆さんが言った。
毎日、阿弥陀経を唱えているが、コレ、本当に、効くのかなー。どんな、意味があるんじゃー。
寺の坊主に聞いても、ようわからんしー、なー。
そんな、お経の意味を知れば、お婆さんは、仰天して、泡を吹くだろう。

どこかの、エロ小説を声に出して、読んでも、同じである。
死者は、その方が楽しくて、成仏するかも、しれません。

僧侶は、誤魔化しの専門。
自分でも、よく解っていないのである。
ただ、有り難い、有り難いと、言っていれば、爺、婆を、騙せると、思っている。
そういう、時代は、もう、終わる。

いずれ、経典についても、徹底して書く。
仏教の思想というものも、結果は、異端に対する、論戦のために、出来上がったものであり、仏陀の教えとは、何の関わりも無い。
要するに、負けないための、言葉の数々である。
議論のための、議論であるから、終わっている。

さて、一神教の大本は、多神教から、発したものである。
一神教の優越主義は、すべて、為政者によるものである。つまり、支配しやすいのである。
政治と、密接に宗教は、絡み合うのである。

ローマ皇帝は、ローマ法王により、認証される。ローマ法王は、皇帝により、認証される。
馬鹿馬鹿しいが、茶番である。
そういう、時期を経ての、世界宗教としての、カトリックである。

勿論、イスラムも、然り。
政治と、密接に結びついての、宗教体制である。
しかも、ムハンマドは、司祭職を置かなかったが、今では、宗教指導者として、司祭ではないが、それに似た権威を持つのである。
何とも、適当である。

精神的指導を宗教が、受け持つという、暗黙の了解があるということも、不思議なことである。
それは、政治よりも、実に、残虐で、許しがたい行為を、続けている。

政治が、何故、宗教を保護するのか。
今一度、考え直すへき、時期がきたのである。

日本の場合も、宗教法人という、特別税制のシステムがある。
それに、案じて、のうのうとして、貯蓄に励む僧侶たちである。
信じられないの一言。
こんな、差別税制があっていいのか。

どんなに、金を集めても、献金、寄付である。そして、税金がかからない。
これは、ヤクザよりも、酷い話である。
精神暴力団である。

さて、
進化によって生じた創造的知性は、その設計に責任をもつことは不可能である。
つまり、神という観念は、後から後から、付け足して、作り上げるものだということだ。

神は、完全ではないといことになる。
淘汰する、自然の様を、何という。

宇宙飛行士たちが、宇宙から、神を感じたという言葉を、勝手に解釈して、神の存在の証拠のように言うが、彼らが言う神という言葉は、宗教の言う神という言葉と、根本的に違う。
まあ、中には牧師になったというものもいるが、錯乱したのである。
感動が大きければ、大きいほど、言葉というものを、失う。
結果、神という言葉に託す。

仏というものも、同じである。

人知を超えたものに、感動する時の言葉が、貧弱なのである。

それなら、歌を詠めばよいが、それが、出来ないのである。
彼らは、日本人ではない。

日本人なら、和歌を詠む。
神や仏という言葉を使わずに、感動を、言葉にする。
言葉が言霊の国だからである。

それで、日本人の宗教的行為と、欧米の宗教というものの、断絶がある。
その、断絶をよくよく、知るべきである。

一神教とも、多神教とも、違うのである、日本の物の見方、考え方は。

以下省略。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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