2008年01月11日

トラック島慰霊の旅 11 平成20年1月23日

ジュニオを連れて、ホテルに戻り、着替えて、ツゥジィーさんの店に向かった。


ツゥジィーさんが、出迎えた。

ジュニオに対しても、別段不思議な顔は、しない。

通常、島の人は、入らない店である。


二人は、顔馴染みである。島の人は、ほとんど、知り合いである。

注文した、ハンバーグがくるまで、ツゥジィーさんと、ジュニオが、現地語で、話している。

内容は、解らない。


ツゥジィーさんが、英語で、言った。

先日、亡くなった、17歳の男の子がいた。

声が出なくなり、食べ物が、喉を通らない。島の病院、グアムの病院、ハワイの病院に行ったが、原因不明で、戻って来て、亡くなった。


彼女は、ブラックマジックにかかったのだと言う。それを、二人で、話していたのだ。


ブラックマジックは、誰でも、かけられる。そして、誰でも、それを、解くことが出来るという。

草木の新芽を使い、それを、煎じて作るらしい。


その17歳の男の子の、親が、熱心なクリスチャンであった。

それで、島の方法を、申し出た人が、多くいたが、断り、死んでしまったのだという。

ブラックマジックも、その解き方も、悪魔のものだというのだ。

だが、母親は、彼を葬る時に、アイムソーリィと、何度も泣いたという。


ツゥジィーさんは、ブラックマジックは、必ず解けるという。


ツゥジィーさんが、一度部屋を出ると、ジュリオが、ブラックマジックの掛けるのを、見たいことがあると言う。そして、私たちに、それを、再現してくれた。

人が寝ている時に、それを、行うという。そして、舌をレロレロレロと、口から出し入れし、呪文のように、アワアワアワアワと、と唱えるという。


その、ジュリオの表情が、おかしくて、私は笑いそうになったが、我慢した。

それをする、ジュリオ自身が、白目を剥くのだ。


野中は、風土病だという。

だから、島の草木の新芽を使って、直すのだという、意見である。


私は、それもありであり、もう一つは、島にある、元の信仰形態を知りたかった。

しかし、ツゥジィーさんも、ジュリオも、それを、知らないという。


バリ島のように、元からある、神様である。その名前だけでも、残っているはずだが、矢張り、キリスト教の支配に入り、それが、霧散してしまったのだろう。


1500年代の、スペイン統治の前には、何らかの、土着の信仰形態が、あったはずである。


二人は、ブラックマジックを解けば、彼は、死ななかったという、意見であった。


ツゥジィーさんの、母親なら、土着の信仰を知っているかもしれないと、私は、帰国して、思った。次に、行った時に、それを、聞きたいと思う。


ジュリオは、ハンバーガーを、自然に食べた。

いつも、食べているように、食べた。普段は、決して、食べられないものであるが、不自然さは、なかった。


野中が、ジュリオに、手紙を出したいが、ジュリオの所は、住所がないと、ツゥジィーさんに言うと、それなら、私の所に、送ってくれれば、届けてあげるという。

そこで、ツゥジィーさんの、住所を知ることになる。


島の大半の人には、住所が無いのである。

不思議だ。

それでも、郵便物は、届くという。

知り合いの手から、親戚の手からと、渡り、本人に届くようである。

カルチャーショックである。


いかに、島の人たちが、親しい関係を、築いているかということである。


さて、私は、ブラックマジックについては、バリ島のものも、興味があり、ただ今、調査中である。

例えば、日本人でも、それにかかる人もいるが、かからない人の方が多い。つまり、バリ島の人にのみ、通用する、ある種の、霊的作用であろうと思う。

ホワイトマジックという、それを、解く方法もある。


それが、例えば、祝詞の清め祓いで、解けるかということも、興味がある。

しかし、これについては、省略する。


四人で、歓談していると、時間が、あっという間に、過ぎた。

島が、夕暮れ近くになるので、私たちは、立ち上がった。


今度こそ、本当に、ツゥジィーさんとも、お別れである。

前回、ツゥジィーさんに、また、島に来るかと、問われて、私は、返事が出来ず、曖昧にしていたが、この時、私は、ツゥジィーさんに、来年、また、来ることを、約束した。


慰霊に訪れる日本人が、今は、激減しているのである。

もう、高齢になり、来る人が少ない。

ほとんど、ダイバーのみである。


スィユゥアーゲン、という、ツゥジィーさんの顔が、晴れやかだった。

通りすがりの旅人ではなくなったのである。

知り合いになったのである。


店を出ると、丁度、タクシーが来たので、それに乗り込む。

ホテルで、私と野中が降り、そのまま、ジュリオを村に返した。

運転手には、一ドル50セントを渡した。

通常の三倍の、料金である。


ジュリオとも、これで、最後である。

またねー、という、日本語が通じたようである。


部屋に戻って、私たちは、一息ついた。


随分と、内容の濃い時間だった。


野中が、フロントの女の子と、話に出たので、私は、一人になった。

フロントの女の子も、日系三世である。中村といった。

時給一ドルで、働いている。

信じられない、安さである。


私は、帰り支度を始めた。

夜の11時に、ホテルを出るのである。

深夜便である。

また、グアムで、手荷物検査を受けると、思うと、憂鬱になる。

グアム到着は、朝の三時半頃であり、最も、眠気の強い時間である。


今度は、冷静に、検査官の言う通りに対処しようと思う。

神妙になっている、自分に、笑った。


野中が、戻ってきた。

そして、カメラがないと言う。

ジュニオが、持っているか、ツゥジィーさんの、店に忘れたかである。

ジュニオなら、返しに来ると、思った。


暫くすると、フロントからの電話である。

ジュリオが、やって来た。

野中が、出た。

数名の子供たちを、引き連れている。

私は、野中に、ここに、皆を、呼んだら、いいと言うが、野中は、部屋を、見せない方がいいと言う。

私も、外に出ることにした。


一ドル紙幣を一枚持って、出た。

ジュリアに渡すためである。

今回で、ジュリオは、10ドル程の、収穫を得た。

彼は、父親が車椅子の生活で、必死で、家計を支えようとしている。

それが、痛いほど解る。


子供たちを見送り、私が先に部屋に戻る。

野中が、戻って来て言う。

ジュリオが、二ドル欲しいと言ったらしい。また、カメラも、最初は、解らないと言ったと。それじゃあ、あの店に、取りに行くと言うと、ズボンのポケットから、カメラを取り出して、ここにあったと言った。

本当は、カメラが欲しかったのだと、野中は言う。

そして、子供たちにも、行けば、二ドル貰えると言って、連れて来た様である。


野中に、みんなに、二ドルくれと、いったらしい。

野中は、お金は、木村が持っている。自分には無いと言ったと、言う。

野中が言う。

金があると、見ると、こういうことになる、と。

確かに、ある人から、貰うというのは、彼らには、当たり前のことである。

私は、それで、気分を悪くすることはなかった。

結果的に、カメラが、戻り、良かったのだ。


夜の九時である。

私たちは、ホテルのレストランに入り、最後の食事をした。


ビーフのミンチを、チーズで、くるんでいるような、実に、後味の悪いものだった。

本日の、お勧め、ディナーである。

一人、約10ドル。

飲み物は、水にした。


部屋に戻る。

野中が、急いで、帰り支度をする。


野中が、荷物を持って、部屋を出た。

フロントの女の子と、話すためである。


私は、時間まで、部屋にいた。


私が、一階に下りると、いよいよ、迎えの車が来た。

旅行会社に委託されている、現地の旅行会社の方である。

現地生活、20年という女性だった。その、旦那さんは、30年の現地生活であった。


彼女から、車の中で、島のことを、聞いた。

私が、感じたことを、確認するようだった。


そして、産経新聞の記事のことにも、触れた。

取材を受けたのだと言う。

それは、産経新聞の記者ではなく、JOCAの人だと言う。

独立行政法人である。青年海外協力隊などを、出している団体である。


産経新聞は、その文章を元に、記事を書いた。

つまり、記者は、取材に来ていない。

そして、それは、非常に偏狭なものだった。

そのように、書くことも出来るが、状況を誤って、理解しているというものだった。


どうしても、遺骨を、見世物にしているという、発想なのである。

確かに、遺骨は、見ることが出来るが、そこまで、見るということは、前にも書いたが、ダイビングでも、相当の経験者である。

それで、果たして、見世物にしていると、言えるのかということである。


遺骨の多くある場所を知る、案内人もいる。

そして、それは、案内するという、仕事であるから、お金を得る。見世物にして、チップを取るという感覚ではなく、それが、仕事なのである。


それを、チップを得て、遺骨を見せるという表現にも出来るということだ。


微妙な、表現の違いである。

ただ、基本的に、そのようなことは、無いと、彼女は言う。

私も、ダンピングショップの人から、聞いた話では、微妙に、ニュアンスが違うと、感じた。


だが、産経新聞の記者は、見世物にされているという、前提の元に、記事を書いたといえる。微妙な、ニュアンスの違いであるが、私は、それは、行き過ぎた書き方であると、判断した。


慰霊を終えた私には、更に、遺骨の、問題ではなくなっていた。

遺骨は、抜け殻である。

その、霊、魂は、すでに、次元を異にしている。


彼らも、後は野となれ山となれ、なのである。


出国審査を終えて、搭乗ロビーに出た。

再び、この島に来ると、信じた。また、やるべきことが、一つ増えたのである。



posted by 天山 at 16:43| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 30

宗教とは、別だが、霊感、霊能というものに、ついて言う。

まず、大半が、嘘である。それは、主観である。客観性を持たない。つまり、信じることしか、出来ない。
また、それは、魔界や、悪魔から、出るもの多い。
悪魔とは、一種の妄想である。

霊感があるというのは、特殊な、感覚があるというもので、風雅を、感じるというのと、似ている。それ以上ではない。

例えば、当たる霊感としても、それが、どこからのものかが、問題である。

何によって、その霊感を得ているのか。
大半が、浮遊する霊や、怪物の霊、つまり、人間もどきである。
あるいは、少しばかり、霊界で、進化した、動物の霊である。勿論、その後に、人の霊が、憑く。

インドの聖者といわれる者に、ロクな者がいないのは、インドの地は、魔界関与が、凄まじいからだ。

フリーセックス主義の、世界の和尚と言われる者、どうしようもない者である。
言葉の綾に、皆々、騙される。
サイハバも、そのトリックを暴かれた。彼は、別次元の霊界の者であるから、奇跡めいたことは、起こすことが出来る。だから、何だというのか。

霊感があるというのは、自己顕示欲が、旺盛であると、思えばよい。
何も、とりえが無い者、よく、霊感があると言う。

霊能は、特異体質である。
霊媒体質とも、言う。女性に多い。
霊が懸りやすいのである。

トランス状態というが、脳の中で、一種の麻薬に似た物質を出している。そういう、体質である。

大半が、思い込みである。

虚言とも言う。
本人は、思い込む。
妄想症とも、言う。病気である。

霊性という言葉を使う宗教もあるが、宗教の霊性は、危ない。
観念の神や仏の霊性であるから、その実が、知れる。

大半が、精神の狂いである。
少し、狂っても、社会生活は、出来る。

ある、カトリック信者の女が、霊感があり、霊性が、云々と言うのを、聞いたが、単なる、自己陶酔、自己催眠であった。
勿論、そういう者、精神不安定になる。
祈っていると、突然、涙が出るの、未来を見るのと、ヒステリーである。

伝統宗教には、必ず、霊性の教育がある。しかし、誰一人、真っ当な霊性を持つか、否かは、解らない。

甚だしいのは、共同幻想、共同妄想、共同催眠に、陥る。

見える、聞こえる、話す。すべて、主観である。
確認の、しようがない。

何かを、当てられたから、信じるというのは、実に、愚かなことである。
人生の大半の問題は、あてずっぽうに言っても、当たること、多々あり。

最新の心理学では、相手のことを、すべて知っていると、思い込ませるテクニックがあることを、突き止めている。

霊感では、なく、それは、やまかん、である。
霊能ではなく、それは、自己顕示欲のヒステリーである。

勿論、騙されたい人が多くいる。需要があると、当然、供給がある。

女に多いが、嘘を話しているうちに、それが、現実になってくるという。まさに、病気である。
それを、信じてしまうと、ほとんど、生き地獄になる。

知能レベルが低いと、特に、そういう、自己顕示欲にある、霊感に、陥る。寂しい病である。
そういう、小さな教祖が、日本には、数多くいる。

自分が描き出した、神や仏を見て、何が憑いたというから、気の毒である。
憑いたのではなく、描き出したのである。
寂しいゆえに、である。

更に、支配欲が、加わると、最低最悪になる。
そこに、集う者、支配されて、生活自体が、滅茶苦茶になる。
そういう人を、多くみた。

前世というものは、あるにはあるが、ハイ、誰々ですと、言えない。
その一部の魂を、受け継いでいる場合、多々あり。
つまり、次元が違うのであり、誰々ですと、簡単に言えるものではない。

キリストの生まれ変わりなどと、聞くと、愕然とする。
有り得ないことである。

そして、前世を知って、どうするのかということだ。
そんなものは、終わったことであり、未来に関わりが無い。
結果、この人生は、今、目の前にいる、私しかないのである。

先祖の因縁で、云々というのも、誤りである。
肉体先祖が受けている、苦しみを受けるという、説もあるが、それは、妄想である。
霊界にいる、先祖が、救いを求めている。
それは、自業自得であり、子孫にかかっているとしたら、更に、罪を作ることになる。確かに、先祖が、子孫に、求めることがある。血縁による、関係である。
先祖の行為によって、他の霊に祟られている人もいる。

およそ、三代、四代前の先祖が多い。
この世の未練に、囚われている。それを、子孫に投影する。
よって、先祖供養という、商売が成り立つ。
実は、先祖に供養されていることが、多い。
先祖は、崇敬するものである。

障る霊より、援軍する霊の方が多いのである。
それを、知らない。
障る霊のみを、取り上げて、除霊だの、供養だのを、行う。

この迷いは、如何ともし難い。

あの、仏陀でさえ、霊界のことに関しては、言葉を発していない。
キリストに、至っては、死者は、死者に任せよ、私に従いなさいと、言うのである。

この、次元では、あずかり知らぬことである。

先祖供養で、幸せになりました。目でした目出度し。
そういう者が死ぬと、今度は、子孫に、それを、求めるという、無知であるから、ホント、救いようがない。
親がアホなら、子もアホということである。

更に言う。
先祖供養とは、アフリカの、人類発生の頃からの、先祖を言うのか。

私の知り合いに、関が原の合戦の頃からの、家系図がある人がいる。
それ以前は、知らない。
他人に見せるべからずという、家系図を見て、先祖というのは、この程度の年代を言うのかと、感慨深くした。

ホント、ご苦労さんです。

実は、親を大切に、親に感謝するということで、先祖供養は、終わっている。
それを、続けていれば、問題ないのである。
子が親に、子が親にである。

親を、放って、先祖供養ですか。
信じられません。
以下省略。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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