2008年01月10日

トラック島慰霊の旅 10 平成20年1月23日

人の死を悼む歌を詠む歌を、挽歌という。

そして、歌は、鬼神をも、泣かせるという。


ランダムに、私の、歌詠みを。


愛国の 水盃に うれいあり 若き命を かけしその意を


追悼の 思いに満ちて 宣る我は 清め祓いに 清められたり


トラックの 海は静かに 凪るとも 散華のみこと 言の葉ゆれる



いかばかり 苦悩に満ちて 行く兵士 これも愛国 これもわが身と


鬼神をも 泣かしめるかな 歌詠みの 歌も残さず 散る命なり



はるばると かけつけ祈る 我に言え その悲しみの その切なさの



今もなお 母が待つくに 我のくに 帰り戻りて 泣くものぞかし


我を待つ 恋うる心の 思い人 胸に抱きて ここに逝くなり



平らけく 安らけくかな 南洋の 海静かにて ただそのままに


忘れては また立ち返り 振り返り 水底深く 残る思いを


しかしまた すでになきなり その思い 風吹くままに 波立つままに



大伴の 歌いし賛歌 海ゆかば 空にもかかる 雲の一筋



我もまた 国の御親の 元にゆく ゆくべき国の そり胸の内


いにしえも 死を前にして 人は立つ 今も我もは 振り返らずに


この時ぞ 敵も味方も なかりけり 運命(さだめ)のゆえの ことと知れり



追悼の思い


恥ずかしく 情け無きかな わが祈り 身を切る思い 至らぬゆえに


ありがとう ただありがとう 皆様の 命のお蔭で 生き残る我


潮も泣く 山も泣くなり 過ぎし日の 戦の跡の うつつの跡の



深き海 我知らずその 深き海 深き思いを 知ることもなし


父母の 思いは篤く 胸に抱く 骨無き子らの 悲しみを抱く


大君の 野辺に 死なまし 国のため 教えを受けて 悔やむことなし



最後に


忘れずに 語り伝えよ この事実 問わずして逝く もののふの雄


紺碧の 空と海との 間には 果てない遥か 悲しみの淵



歌の良し悪しではない。

歌を詠まずに、いられないのだ。




posted by 天山 at 16:42| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 29

有神論者は、神が宇宙をセッティングしたときに、宇宙の基本定数を精妙に調整し、それぞれが生命を生み出せるゴルディロックス帯のなかに収まるようにしたのだと言う。まるで、神はひねることのできる六つのノブをもっていて、それぞれがゴルディロックス値になるように慎重に調整したかのようである。しかし、有神論者の答えがひどく満足のいかないものであるのはいつも通りだ。なぜなら、彼らが神の存在を説明しないままでおくからである。六つの値について計算することができる神というものは、少なくとも、精妙に調整された数字の組合せそのもの同様にありえないものだろうし、ということは、きわめてありえないというレベルの話になるーーーそして、その「きわめてありえない」存在というのが、私たちがこれまで延々とつづけてきた議論の出発点であった。したがってここから、有神論者の答えは、目の前の問題を解決するため、いささかの前進ももたらさなかったという結論が導かれる。それを退ける以外の代案が私には思いつかないが、同時に、多くの人間がこの問題を理解せず、「神がノブをひねっている」という論証に心底から満足しているように見えることに驚嘆している。

神は妄想である。第四章、ほとんど確実に神が存在しない理由、より。
リチャード・ドーキンス

要するに、信じる者は、確実に、自己洗脳して、信じ込むという、愚劣に陥るということである。
そして、安心する。
実に、愚かな、安心である。
信じるという、安易なムードに、自分を乗せるのである。それは、実に、心地よいのだろう。すべて、思考を捨てるのである。
そして、信じるという行為に、酔う。
酔い知れる。
神という妄想に、委ねて、人生を流すのである。それを、また、善しとするから、おめでたい。

ある日の決闘に出かける、宮本武蔵は、祠の前を通る。
その時、その祠の神に、勝負の祈りをの、誘惑を覚える。
そして、自分を叱咤した。
俺は、この勝負を、この祠の神に、祈ろうとしている。何という、馬鹿馬鹿しいことだ。闘うのは、この俺である。在るか無きかの神に、祈る俺は、剣の道に遠い、と。
武蔵は、そのまま、そこを、通り過ぎる。

五輪書を書いた武蔵は、観世音菩薩を、奉じて云々という、解説者がいるが、武蔵のことを、知らない。
武蔵が、観音様を奉じたのは、見る目と、観の目を、見抜いたゆえの、観世音菩薩であった。観音に、観の目を、あてただけである。
合理主義の武蔵が、拝む対象の観音様を、奉じる訳が無い。
方便である。
書いたものを、そのまま、信じるという、アホな真似をするのであるから、呆れる。

さて、有神論者は、特別の考えなど無い。
信じていれば、事足りる。

本当の意味で法外である「神がいる」という仮説と、見かけ上法外なように見える多宇宙仮説のあいだの決定的な相違は、統計学的なありえなさの相違である。多宇宙は、いかに法外なものに思えようとも、単純である。しかし神は、あるいはどんな知的で、意思決定し、計算する作用者であれ、それによって説明される事柄とまさに同じ統計学的な意味で、高度にありえないものだと言わざるをえない。多宇宙は、そこにかかわる宇宙の数という点だけからすれば法外なように見えるかもしれない。しかし、そうした宇宙の一つ一つは、その基本において単純であり、高度にありえないものを何一つ仮定してはいないのである。しかし、神仮説で想定される知性については、事情はまさに正反対だとしか言いようがない。

ドーキンスは神学者に言う。
私たちの求める第一原因は、自力で自らを高め、最終的に世界を現在のような複雑な存在まで上昇させる一種のクレーンの単純な基礎であったにちがいない。

神学者たちは、繰り返し言ったという。
「何かがないことにではなく、何かが存在することに対し、その理由がなければならないのだ」
そして、それに神という名を与えてもいいのではないか、と。

実に、面白いやり取りをしている。
どうでも、いいことに、互いにムキになるところが、いい。

世の中は、神も仏も、どうでもいいと、思う者が、多数である。
それは、イスラム圏、キリスト教圏、ユダヤ教権、仏教圏、等々である。
誰も、真実、それほど、神や仏に必死になってはない。
知能レベルの低い者が、真剣になるのである。

例えば、死期迫る者が、突然のように、洗礼を受ける。親鸞に帰依する。密教に入信する、という、程度である。
それは、麻酔代わりである。

実に、愚かなことである。

人間が霊的存在であると、知れば、そんなことをする必要は無い。

死後の世界の未知に、不安になるだけである。
死後、霊になると、知らないのだ。

さて、ドーキンスの、論舌は続く。果てしなく、続く。科学者の頭は、実に良い。
分厚い本である。神は妄想である。

私は、第一章に戻り、これから、キリスト教の聖書について、ドーキンスの言葉と、共に、徹底的に、検証し、大嘘であることを書く。

ちなみに、私は、カトリックの洗礼を受けている。
少年の頃から、勉強をせずに、神学、キリスト教を、学んだ。そして、準じて、宗教である。勿論、キリスト教の側からの、宗教であるから、実に、偏ったものである。

私の、主イエスは、何も変わることなくある。
しかし、神という、キリスト教が教える存在については、別物である。
また、主イエスに関しても、新約聖書というものが、どのようなものであるかを、知ることによって、実に、冷静に対処できるものである。

熱心な、クリスチャンほど、罪深い者はない。
余程、前世の因縁が悪いのだろう。
そのせいか、熱心なクリスチャンほど、冷酷無残である。
または、確実に、愚かである。
その証拠に、知らないはずの、聖書を人に説くのである。

教会が、教える神というものは、教会の神であり、それこそ、妄想である。
そして、キリスト教の霊性というもの、すべては、魔界から発するものである。
悪魔より、怖い魔界である。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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