2008年01月07日

トラック島慰霊の旅 7 平成20年1月23日

ベッドに寝て、暫く、放心していた。

うとうとしたが、眠ることは、なかった。


不思議な感覚である。

今まで、どこに旅しても、感じなかったことである。


追悼慰霊は、目的を達することが出来て、良かったが、私の方に、何か、問題がある。

私の満足感であると、客観的には、言える。


実は、慰霊の際に、嫌な気分、変な気を、全く感じなかったのだ。

逆に、私が、清め祓いされているような感じだ。


そして、部屋に戻った私の、心境である。

世の中、つまり、世界のこと、日常のこと、私の属する社会のこと。それらが、どうでもいいことに、思えた。

そして、それが、実に、明確なのである。


このまま、日本に戻らなくても、いい気持ちなのである。

これは、つまり、一つの、死である。

死の感覚である。


戦争で無くなった方は、すでに、清められている。

納得して、死んだ。その時、納得出来ずとも、今は、納得している。

何故か。

日本兵の幽霊が出るという、噂も無いという。

自然である。

自然が、彼らの霊を、清め祓ったのである。


美しい珊瑚の海と、朝風夕風の清らかさ。潮の流れによる、清め祓いである。


清め祓いの私の方が、清められ、祓われていた。


膨大な数の方が亡くなっていれば、海難事故が起きる。しかし、世界中からダイバーが来て、海に潜っても、何も無い。安全である。

要するに、気が、いいのである。

数知れない、遺骨があっても、である。


日本の寺や、それに属する、納骨堂に入っても、その気が、乱れ、濁るのであるが、それが、全く無いのである。


他の慰霊する、土地とは、違う。


改めて、私は、日本の伝統にある、自然と共生、共感する、古神道の、考え方を、得心した。

死は、隠れることなのである。

消滅することではない。


ここで、少し霊というものについて、説明が必要である。

古神道では、四位一体なのである。つまり、一霊には、四つの、魂がある。

三位一体という、キリスト教の教義は、無い。神学という、言葉遊びの世界で、成り立ったものであり、父と子と聖霊とという、一体は、こじ付けである。


和、荒、奇、幸、の、四つの、魂により、霊というものがある。

数霊、かずたま、というものが、言霊を支える重要なものである。

それが、四である。

偶数であるということは、分離するということである。

奇数は、分離しない。偏るのである。

中国思想も、三という、数を、完成の数であり、安定の数とするが、違う。


さて、四つの、魂の、荒魂、あらみたま、が、最後に、この世に残る。

昔の人は、49日は、あらみたま、なので、と、慎重に過ごした。それは、仏教ではなく、日本の伝統の考え方である。


荒魂が、活動すれば、幽霊にもなる。不思議な力も、現す。

それが、無いのである。


そして、私が感じた、死という感覚である。

追悼慰霊をした、私は、彼らに、死という感覚を、教えられていた。


簡単に言えば、私が、この海に来て、私の属する社会生活すべてを、捨てても、いいと思う。どうでもよくなる。その感覚に、死というものが、似ているということ。

最終の自己完結なのである。


これで、よろしいという、思い。

つまり、完結したのである。


彼らの、御霊が、そのようであるということ。


それには、どれ程、多くの人の、祈りがあったか、知れないのである。

彼らの、親兄弟から、親族、友人、知人と、彼らに対する篤い思いは、距離を超えて、きた。その、祈りに、彼らは、満足した。更に、自分の死をも満足した。


国のために、死んだ、という、明確な意味意識である。

大義というものが、如何に、必要かということだ。


だから、テロ行為も、終わらない。

大義があるからだ。

明確な、死ぬことの、意味意識があるからだ。

勿論、テロ行為のそれは、誤りである。だが、大義という、意味では、同じである。


私は、とんでもない、感覚に、立ち往生した。


本当に、このまま、死んでも、良いと、思った。


一霊四魂、ということを、観念として、理解してもよい。

私は、それを、説明する必要を、感じないからだ。

知らなくていいのである。


死ねば、解る。


ここでは、総称して、霊という。


一般に、言われる霊というものは、幽体の霊のことで、肉体に似た姿であるから、幽霊というのである。

そんなものは、即座に脱ぎ捨てて、霊になったのである。


それは、覚悟の問題である。

未練なく、死を受け入れたのであるから、当然、即座に霊になる。

見事である。


若くして命を捧げた彼らの、救いは、国のために死ぬという、一点にあった。それは、国という言葉で、彼らの思いを、総称したのである。


太平洋戦争で、最も、意識したものは、国である。

日本史上、初めての体験である。

国とは、何か。


我らの部落でも、我らの町でもない。

国というものである。


その、国というイメージの、幻想を、天皇という存在が、支えていた。

軍国主義というが、それは、一部の人のことである。

多くの兵士に、軍国主義などない。


軍部が、教育した、国家神道、そして、天皇陛下の、現人神などは、吹けば飛ぶようなものであった。


父や母に、続く、先祖、そして、長い年月の先祖の歴史に、天皇という存在を、置いたのである。

皆、天皇を、天子様として、奉じていた。

そして、国という意識、幻想を作り上げていた。


この戦争で、その国という意識が、明確になった。

国とは、私のことであったという。


世界では、類を見ない、国家幻想を作り上げていた日本という国を、改めて、意識したのである。


軍というものは、暴力であった。

暴力の何ものでもない、存在である。

それにも、耐えられたのは、国が、私だったからだ。


その私には、父や母、兄弟や、友人、愛する人、すべてが、含まれていたのである。


そして、彼らは、死んだ。


朝風、夕風を受けて、美しい珊瑚礁の海で、清められ、祓われて、先祖に続く者として、上昇した。


そして、追悼慰霊に来た私に、死という感覚を教えた。


死者は、言葉にしない。

ただ、伝えるだけである。


遺骨は、一つの物となった。

自然の中に、同化して、何事も無い。

それで、善し、なのだ。


今回、私は、日本人の慰霊のみを、行為した。

多くのアメリカ人も亡くなっている。

共に、国のために、戦った。

大義のために、戦った。

同士である。


憎みあう必要の無い者同士が、国のために、戦った。

平和であれば、友人にも、なれよう。

皆々、演じて生きた。


死を前にした時、人間は、真実を知る。


以下省略。



posted by 天山 at 16:41| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 26

宗教が慰めをもたらすからといって、宗教が正しいということにはならない。たとえ、どれだけ大きな譲歩をしたとしても、たとえ、神を信じることが人間の心理的・情緒的幸福のために絶対不可欠なものであることが決定的に実証されたとしても、たとえ、すべての無神論者は情け容赦なく、果てしなくつづく苦悩によって神経症に苛まれ、自殺に追い込まれるとしても---これらのどれ一つとして、宗教上の信念が正しいということを証拠立てる上で、毛ほどの役にも立つまい。ただし、神がたとえ存在しなくとも、存在すると確信するのが望ましいということを証拠立てる上では有益かもしれない。

存在するのが望ましいということを証拠立てる上では、有益、かも知れないという。
ドーキンスの場合は、主に、一神教の世界の神に対しての、語りである。

例えば、仏陀の教えは、人は、成仏できるという、人間の存在によって成る、仏であることを言う。
勿論、大乗仏教になると、一神教のような、教えを帯びて、仏、如来、というものが、神のように扱われる。

対立するもの、神として、崇める、拝むという行為は、原始体験である。
それを、原始宗教体験といって、よいのか、どうかは、躊躇うところだが。

人類の集合意識にある、畏敬の思い。それは、多く、自然対する思いである。
例えば、太陽信仰、水、風、そして、火の発見によって得た、火に対する畏敬などである。
集合意識は、潜在意識の中で、宗教的なものを、神なるものを、求めさせているとも、考えられる。

だが、仏陀の場合は、唯一、そういう意識ではなく、私が、完成したものになるという、考え方である。
何かに、帰依するという意識は、本来ないものである。
しかし、大乗仏教の多くは、帰依を説く。あるいは、信仰を説く。

仏陀の臨終の言葉は、わが身を頼み、真理の法を拠りどころとせよ、である。

とすれば、信仰を説く仏教は、仏陀の教えではないということになる。
つまり、特に、日本のような、大乗経典を主にする、仏教とは、仏陀と、何の関わりも無いのである。


要するに、「主よ、私は信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコによる福音第九章二十四節)である。信徒は、確信していようといまいと、信仰を告白することを勧められる。ひょっとしたら、同じことを十分なだけ繰り返せば、それが真実であると自分自身を確信させることだってできるかもしれない。宗教上の信仰というものには好意的で、それを攻撃する者にかみついたりするくせに、自分ではそんなものをもちあわせない人というのがいることを、私たちはよく知っている。

この前の、文には、
信仰を信じるとは、たとえその信仰自体は誤りでも、それを信じることが望ましければ信じる、という態度だ。
と、ある。

さらに、神を信じることと、信仰を信じることの区別という、言葉もある。

彼らは信仰を信じているのだ。「Xは真実である」と「人々がXは真実であると信じるのが望ましい」のあいだのちがいがわからないらしい人があまりにも多いのは驚くべきことである。あるいはひょっとしたら、彼らはこの論理的誤りに実際に騙されてはいないのだが、単純に、人間の感情に比べれば真実など重要ではないとみなしているのだろうか。人間の感情を非難したいとは思わない。しかし、はっきりさせておきたいのは、私たちが何について語っているのかということである。感情についてなのか真実についてなのか。両方とも重要かもしれないが、この二つは同じものではない。

ドーキンスは、実に饒舌に、噛み砕いて、説明している。それほど、彼は、神が妄想であることを、いいたいのである。

私は、この書の、最初に戻り、ドーキンスと一緒に、聖書の神、旧約の神について、徹底的に、書くことにする。

神は、真実である、と、信じることが、望ましいのか、真実なのかという、問いかけは、皆に、冷静さを、呼びかけているように、思われる。

一度、妄想の網に、引っかかった者は、そこから、抜け斬ることは、難しい。何となれば、一つの神を捨てると、新しい神を、拝みたくなるのである。

ある、新宗教の、集会に行き、一人の男が、信仰宣言のような話をした。
曰く、天理教にも、行った。立正佼成会にも、行った。あちらにも、こちらにも、行った。しかし、救われなかった。何も、良いことがなかった。
こちらに来て、やっと、本当のものに、出会い、人生が変わった。と、言うのである。

それは、単に、時間の問題であろうと、思うが、信仰という、網の中に入った、彼には、最早、囚われの身となり、思考停止の状態になってしまったのである。

カトリックから、改宗しても、信仰を止めない夫婦を、知っている。
新・新宗教の元に、駆けつけているのである。どうしても、信じるモノが、欲しいのである。
何かを、拝みたくて、しようがないのだ。
そして、拝む対象が、空想なのであるから、救いようがない。

無神論者が、不幸で、不安にかられ落胆に向かう何らかの一般的傾向をもつという証拠が存在しないのを私は知っている。幸福な無神論者はいるし、惨めな人もいる。同じように、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒のなかにも惨めな人もいるし、幸福な人もいる。幸福と信仰(あるいは幸福と不信心)のあいだに相関があることを裏付ける統計的な証拠が存在するかもしれないが、どっち向きにであれ、それが強い影響をもつというのは疑わしいのではないだろうか。それを言うなら、神と無縁な生活を送ったら気が滅入るべき何らかの理由があるのか、こう問うほうがもっとも興味深いと思う。私は逆に、控え目に言っても、超自然的な宗教などなくとも幸福で充実した人生を送ることができるという主張をもって、本書を締めくくるつもりである。

宗教とは、基本的に、迷いである。
迷いの中にて、救いがあると、勘違いするという、性質を人間が持つということだ。
それが、人間の、本質である。

自己完結をして、泰然としていれば、神仏は、必要ない。
たとえ、神仏が、存在するとしても、私が、認証しなければ、神仏は、全く関係ない存在なのである。

何せ、神仏という、次元と、質が違う世界なのである。

隣にいても、関係ないのである。

それは、無いことと、同じである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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