2008年01月27日

神仏は妄想である 48

正典とされる四つの福音書のどれにも収められているもののほとんどは、共通の資料、すなわち「マルコ福音書」か、さもなくば、現存する派生本のうちで最古のものが「マルコによる福音書」であるような失われた本のいずれかから採られている。この四人の福音伝道者がどんな人物であったかは誰にもわからないが、彼らが直接イエスに会ったことがないのはほとんど確実である。

おそらくイエスは実在したのだろうが、著名な聖書学者たちが一般に「新約聖書」(「旧約聖書」は明らかに無理だろうが)を、歴史上実際に起こったことの信頼すべき記録であるとみなしているわけではなく、したがって私はこれ以上、いかなる種類の神であれ、聖書をその証拠とはみなさないことにする。トマス・ジェファーソンが彼の後継者であるジョン・アダムズに宛てて書いた先見の明ある言葉によれば、「父たる至高の存在によって処女の子宮で生み出されたというイエスの謎に満ちた誕生が、ミネルヴァがユピテルの脳のなかでつくられたというのと同じ寓話として分類される日が、いつかやってくるだろう」。

ドーキンスは、ここで、はっきりと、いかなる種類の神であれ、聖書をその証拠とはみなさないことにする、と断言する。

つまり、人間の頭で、作られた神という、観念であると、断言するのである。

この書は、その名の通り、神は妄想である。で、ある。

ダン・ブラウンの小説「ダビンチ・コード」とそれからつくられた映画は、教会内のさまざまなグループに大きな論争を巻き起こした。キリスト教徒たちはこの映画をボイコットし、上映している映画館にピケを張るよう促された。「ダ・ヴィンチ・コード」は実際には初めから終わりまででっちあげられたもので、作り話、こしらえられたフィクションである。その点ではまさに福音書とそっくりである。「ダ・ビンチ・コード」と福音書のあいだの唯一のちがいは、福音書が大昔のフィクションで、「ダ・ビンチ・コード」が現代のフィクションであることだけだ。

キリスト教神学は、パウロによる。
パウロは、イエスの死後に、回心する。
そして、イエスを、伝道するのである。その手紙が、根拠となり、神学が生まれる。勿論、ギリシャ哲学が、その後押しをするのであるが。

そこから、膨大な、教義が、生まれる。
すべて、人間の頭の中で、出来上がった言葉の世界である。
決して、神が、創るものではない。

さて、何度も言うが、真実が、明らかにされても、キリスト教徒は、それを無視する。
作られたもの、創作であると知っても、信仰を持ち続ける。

何故か。
そのようにしか、生きられないからである。

根拠の無い、お話による、信仰でも、霊性云々という話を聞くのである。
だから、私は、魔界のものだと、言う。
ありもしないことからの、霊性など、あろうばずもない。

更に言う。
イエスが、現れて言った。
聖母マリアが、現れて言った。等々の、お話は、信じるに足りないのである。
つまり、イエスやマリアを、判断する、何の、客観的、方法が無い。
幻視や、幻聴、幻覚を、イエスだ、マリアだという人々、多数。

世界を敵に回すことになっても、言う。
マザーテレサに、現れたイエスが、本当のイエスだとは、誰も、解らない。
本人が、イエスと、判断しただけである。
更に、私は乾く、と言った。貧しい者を、救え、と言った。
それが、イエスの言葉であるとは、誰も、判断出来ないのである。

それが、悪霊の場合もある。
浮遊霊の場合もある。
どうして、イエスの言葉なのか。
それは、マザーテレサが、そう、思い込んだのである。

マザーテレサが、成したことを、否定するのではない。
だが、インドという、土地での行為である。
あの、魔界関与の、凄まじい、差別の地での、行為である。
インドは、世界的聖者を生む土地である。そして、何人もの、聖者が出ても、何にも変わらないという、現実である。
魔界関与のインドの、聖者は、当然、魔界関与である。
それほど、最悪の土地なのである。

マザーテレサの行為は、インドにて、何の影響も与えなかった。
ただ、世界のキリスト教、や、人を助けたいという人に、影響を与えた。
広く言えば、人道主義的行為である。

だが、彼女は、主イエスに対する祈りによって、それを、根拠とした。
つまり、人道的行為でも、彼女は、カトリック信徒としての、行為である。
神様のために、という、命題があった。

もし、彼女が、一人の人間として、教会から、離れての活動ならば、それは、あまりにも、世界に対して、多くの挑戦をしたことになるが、あくまでも、カトリック教徒としての、行動である。

それは、教会の広告塔以外の何物でもないという、結論に達するのである。

孤立無援の行動ではなかったのである。
巨大教団が、後ろ盾にあるという、曇りである。

もっと、具体的に言えば、日本の巨大信仰宗教を見る。
信者からの、莫大な金集めで、トップは、世界中から、顕彰を受けている。さらに、大学の名誉教授等々の称号である。
すべて、信者の金による。
それで信者たちは、得意になるという。

世界の精神的指導者など言われているが、その根拠は、信者の金による。
この、曇りを、よくよく見れば、信者は、騙されているのである。しかし、それに気づかないほど、知的能力に欠けている。

例えば、実在のナザレのイエスは、少なくても、孤立無援の活動をした。
ユダヤ教の中にあって、神の愛を、説いた。それは、殺されるに、等しい行為である。
それを、行ったことに、私は、感動する。

組織を作り、信者を増やして、教団を作るということに、興味を示さず、孤立無援で、行為した。
そこに、後に、人が妄想を逞しくする、教えが、潜んでいた。

人を平気で、殺すほどの、教義を生んだという、悲劇であるが、それほど、強い活動の様であったと、想像する。



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2008年01月28日

神仏は妄想である 49

宗教上の原理主義者たちは、自分は聖典を読んだのだから自分の考えは正しいという考え方をする人たちで、何をもってしても自分たちの信仰が変わることがないと、あらかじめ知っている。聖典の真理はいわば論理学でいう公理であって、推論の過程によって生み出される最終産物ではないのだ。聖典こそ真理であり、もし証拠がそれと矛盾するように思えるなら、捨て去るべきはその証拠であって、聖典ではない。それに対して、私が科学者として真実だと考えること(たとえば進化)は、聖典を読んだからではなく、証拠について調査・研究を行った上で、真実だとみなしているわけである。
神は妄想である。第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか? より

ドーキンスは、謙虚である。
真実だとみなしているわけである。と、言う。
つまり、それが、覆された時には、それを、認めるということだ。

科学は、そのように、進んで、今まで、やってきた。
この、謙虚さがなければ、科学も、宗教と、同じになる。

証拠を捨てて、聖典を取るという行為は、単なる、拘りである。
つまり、拘りが、信仰である。

科学書がまちがっているときには、最後に誰かがそのまちがいを発見し、その後の書物によって訂正される。しかしそういうことは、聖典に関しては明らかに起こりえない。
ドーキンス

あるいは、新しい発見によって、聖典の解釈が、変わるということも、有り得る。しかし、聖典を、変えるということは、有り得ない。

どうしたって、都合の良いように、解釈する。
支配しやすいように、解釈すると、言う。
支配者という、権威ある者の、胸先三寸で、決まる。

私たちは、証拠が支持しているという理由で進化を信じるのであり、もし、それを反証するような新しい証拠が出されれば、一晩で放棄することになるだろう。本物の原理主義者はそんなことを言ったりしないものだ。
ドーキンス

一晩で、放棄するという。
科学は、このような人々に、支えられて、進歩してきた。
それは、まさに、知性である。

私が進化というものに寄せる信念は原理主義的ではなく、信仰でもない。なぜなら、もししかるべき証拠が出現したとすれば、自分は心を変える。しかも喜んでそうするだろうということを知っている。
ドーキンスは、このように、何度も、繰り返し言う。
これ、知性と、言う。

犯罪事件の捜査が、原理主義だったら、捜査は、進まない。
兎に角、犯人は、あいつだと、決定する。そして、お前が、犯人に決まっていると、言うのである。暴挙であろう。
証拠が、出て、はじめて、犯人を特定するのである。

論より証拠、とは、諺であるが、実に、その通りである。

仏教では、無常観というものを、大切にするが、実に、それに従うことはない。
無常観とは、考え方も、やり方も、流転してゆくということである。
無常観を、単に、人間が年を取り、死んでゆくという、安易な、感覚だけで、捉えているとしたら、大きな間違いである。

この世は、変化しつづけるというのである。

この変化を、捉える目を、知性という。そして、それは、感性に支えられる。更に、理性が、それを、認識させる。

千年も、二千年も、同じであるはずがない。

ただ今は、更に、進化が進んでいる。

原理主義は、千年前も、二千年前も、同じだというのである。そんなことは、有り得ない。

理解しやすい、事柄で言えば、現代の葬式は、次第に、僧侶を呼ぶ事のない、友人葬や、宗教色をとったものになっている。
ここで、葬儀の歴史を書くスペースはねないが、葬儀というものも、変転しているのである。
無宗教の葬儀が多くなったことについて、宗教家は、手出し出来ないのである。

すでに、葬儀屋が、主導権を握り、勿論、商売であから、どんどんと、客のニーズに合わせるようになる。
嘘偽りの、戒名などという、アホな、形式などは、最早、見抜かれている。

伊勢に、出掛けた時に、タクシー運転手は、言った。
もう、神道で、葬式をする人が大半だと。つまり、仏教では、訳のわからないお金が、かかるばかりだと。
伊勢とは、伊勢神宮の町である。

祖霊社という、神社があり、そこが、葬式を仕切っている。

亡くなれば、すべて、命、ミコトと、呼ばれて、葬儀が行われる。
死後、得度、つまり、仏弟子というような、戒名など、いらない。ということである。

友人の知り合いが、母親の戒名料に、400万円と言われた。
長い名前である。
そんな名前で、呼ばれても、霊界入りした人は、反応しない。
誰の名前を呼んでいるのかと、思うだけである。
実に、馬鹿馬鹿しいことをする。

仏陀は、一言も、そのようなことを言わない。

何を根拠に、戒名など、つけるのか。
私は、戒名についての、書籍を何冊も、読んでみたが、全く、意味の無い、説明である。
つまり、仏教、それも、大乗仏教の、亜流の亜流の、原理主義的、説明である。
話にならない。

もっとも、簡単な説明は、死者に対する、礼儀である。死者の自覚を促すものである。
その程度で、いい。
それならば、いくらでも、方法はある。

生前は、仏教など、何も知らない人が、突然、死後、長い仏弟子の名前を、つけられても、反応しないばかりか、変な、仏教霊界などに、輸送されては、たまったものではない。

宗教の霊界は、この世と、あの世の、隙間にある世界で、実に、おどろおどろしい。

そんな、世界から、開放されて、エネルギー満ち溢れる霊界に、入るべきである。

霊界とは、次元の違いで、数学では、証明済みである。
次に、物理学、量子力学によって、解明される日が近い。

霊能者も、びっくりの、霊界証明が、科学でなされる。
皆々、いかに、偽者かが、解る。

そうすると、ずるい宗教家たちは、そうなると、そうです、そうです、それが、お釈迦様が、言っていたことですと、なる。
どうにも、手の付けられない、ヤクザたちである。


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