2008年01月10日

トラック島慰霊の旅 10 平成20年1月23日

人の死を悼む歌を詠む歌を、挽歌という。

そして、歌は、鬼神をも、泣かせるという。


ランダムに、私の、歌詠みを。


愛国の 水盃に うれいあり 若き命を かけしその意を


追悼の 思いに満ちて 宣る我は 清め祓いに 清められたり


トラックの 海は静かに 凪るとも 散華のみこと 言の葉ゆれる



いかばかり 苦悩に満ちて 行く兵士 これも愛国 これもわが身と


鬼神をも 泣かしめるかな 歌詠みの 歌も残さず 散る命なり



はるばると かけつけ祈る 我に言え その悲しみの その切なさの



今もなお 母が待つくに 我のくに 帰り戻りて 泣くものぞかし


我を待つ 恋うる心の 思い人 胸に抱きて ここに逝くなり



平らけく 安らけくかな 南洋の 海静かにて ただそのままに


忘れては また立ち返り 振り返り 水底深く 残る思いを


しかしまた すでになきなり その思い 風吹くままに 波立つままに



大伴の 歌いし賛歌 海ゆかば 空にもかかる 雲の一筋



我もまた 国の御親の 元にゆく ゆくべき国の そり胸の内


いにしえも 死を前にして 人は立つ 今も我もは 振り返らずに


この時ぞ 敵も味方も なかりけり 運命(さだめ)のゆえの ことと知れり



追悼の思い


恥ずかしく 情け無きかな わが祈り 身を切る思い 至らぬゆえに


ありがとう ただありがとう 皆様の 命のお蔭で 生き残る我


潮も泣く 山も泣くなり 過ぎし日の 戦の跡の うつつの跡の



深き海 我知らずその 深き海 深き思いを 知ることもなし


父母の 思いは篤く 胸に抱く 骨無き子らの 悲しみを抱く


大君の 野辺に 死なまし 国のため 教えを受けて 悔やむことなし



最後に


忘れずに 語り伝えよ この事実 問わずして逝く もののふの雄


紺碧の 空と海との 間には 果てない遥か 悲しみの淵



歌の良し悪しではない。

歌を詠まずに、いられないのだ。




posted by 天山 at 16:42| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月11日

神仏は妄想である 30

宗教とは、別だが、霊感、霊能というものに、ついて言う。

まず、大半が、嘘である。それは、主観である。客観性を持たない。つまり、信じることしか、出来ない。
また、それは、魔界や、悪魔から、出るもの多い。
悪魔とは、一種の妄想である。

霊感があるというのは、特殊な、感覚があるというもので、風雅を、感じるというのと、似ている。それ以上ではない。

例えば、当たる霊感としても、それが、どこからのものかが、問題である。

何によって、その霊感を得ているのか。
大半が、浮遊する霊や、怪物の霊、つまり、人間もどきである。
あるいは、少しばかり、霊界で、進化した、動物の霊である。勿論、その後に、人の霊が、憑く。

インドの聖者といわれる者に、ロクな者がいないのは、インドの地は、魔界関与が、凄まじいからだ。

フリーセックス主義の、世界の和尚と言われる者、どうしようもない者である。
言葉の綾に、皆々、騙される。
サイハバも、そのトリックを暴かれた。彼は、別次元の霊界の者であるから、奇跡めいたことは、起こすことが出来る。だから、何だというのか。

霊感があるというのは、自己顕示欲が、旺盛であると、思えばよい。
何も、とりえが無い者、よく、霊感があると言う。

霊能は、特異体質である。
霊媒体質とも、言う。女性に多い。
霊が懸りやすいのである。

トランス状態というが、脳の中で、一種の麻薬に似た物質を出している。そういう、体質である。

大半が、思い込みである。

虚言とも言う。
本人は、思い込む。
妄想症とも、言う。病気である。

霊性という言葉を使う宗教もあるが、宗教の霊性は、危ない。
観念の神や仏の霊性であるから、その実が、知れる。

大半が、精神の狂いである。
少し、狂っても、社会生活は、出来る。

ある、カトリック信者の女が、霊感があり、霊性が、云々と言うのを、聞いたが、単なる、自己陶酔、自己催眠であった。
勿論、そういう者、精神不安定になる。
祈っていると、突然、涙が出るの、未来を見るのと、ヒステリーである。

伝統宗教には、必ず、霊性の教育がある。しかし、誰一人、真っ当な霊性を持つか、否かは、解らない。

甚だしいのは、共同幻想、共同妄想、共同催眠に、陥る。

見える、聞こえる、話す。すべて、主観である。
確認の、しようがない。

何かを、当てられたから、信じるというのは、実に、愚かなことである。
人生の大半の問題は、あてずっぽうに言っても、当たること、多々あり。

最新の心理学では、相手のことを、すべて知っていると、思い込ませるテクニックがあることを、突き止めている。

霊感では、なく、それは、やまかん、である。
霊能ではなく、それは、自己顕示欲のヒステリーである。

勿論、騙されたい人が多くいる。需要があると、当然、供給がある。

女に多いが、嘘を話しているうちに、それが、現実になってくるという。まさに、病気である。
それを、信じてしまうと、ほとんど、生き地獄になる。

知能レベルが低いと、特に、そういう、自己顕示欲にある、霊感に、陥る。寂しい病である。
そういう、小さな教祖が、日本には、数多くいる。

自分が描き出した、神や仏を見て、何が憑いたというから、気の毒である。
憑いたのではなく、描き出したのである。
寂しいゆえに、である。

更に、支配欲が、加わると、最低最悪になる。
そこに、集う者、支配されて、生活自体が、滅茶苦茶になる。
そういう人を、多くみた。

前世というものは、あるにはあるが、ハイ、誰々ですと、言えない。
その一部の魂を、受け継いでいる場合、多々あり。
つまり、次元が違うのであり、誰々ですと、簡単に言えるものではない。

キリストの生まれ変わりなどと、聞くと、愕然とする。
有り得ないことである。

そして、前世を知って、どうするのかということだ。
そんなものは、終わったことであり、未来に関わりが無い。
結果、この人生は、今、目の前にいる、私しかないのである。

先祖の因縁で、云々というのも、誤りである。
肉体先祖が受けている、苦しみを受けるという、説もあるが、それは、妄想である。
霊界にいる、先祖が、救いを求めている。
それは、自業自得であり、子孫にかかっているとしたら、更に、罪を作ることになる。確かに、先祖が、子孫に、求めることがある。血縁による、関係である。
先祖の行為によって、他の霊に祟られている人もいる。

およそ、三代、四代前の先祖が多い。
この世の未練に、囚われている。それを、子孫に投影する。
よって、先祖供養という、商売が成り立つ。
実は、先祖に供養されていることが、多い。
先祖は、崇敬するものである。

障る霊より、援軍する霊の方が多いのである。
それを、知らない。
障る霊のみを、取り上げて、除霊だの、供養だのを、行う。

この迷いは、如何ともし難い。

あの、仏陀でさえ、霊界のことに関しては、言葉を発していない。
キリストに、至っては、死者は、死者に任せよ、私に従いなさいと、言うのである。

この、次元では、あずかり知らぬことである。

先祖供養で、幸せになりました。目でした目出度し。
そういう者が死ぬと、今度は、子孫に、それを、求めるという、無知であるから、ホント、救いようがない。
親がアホなら、子もアホということである。

更に言う。
先祖供養とは、アフリカの、人類発生の頃からの、先祖を言うのか。

私の知り合いに、関が原の合戦の頃からの、家系図がある人がいる。
それ以前は、知らない。
他人に見せるべからずという、家系図を見て、先祖というのは、この程度の年代を言うのかと、感慨深くした。

ホント、ご苦労さんです。

実は、親を大切に、親に感謝するということで、先祖供養は、終わっている。
それを、続けていれば、問題ないのである。
子が親に、子が親にである。

親を、放って、先祖供養ですか。
信じられません。
以下省略。

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トラック島慰霊の旅 11 平成20年1月23日

ジュニオを連れて、ホテルに戻り、着替えて、ツゥジィーさんの店に向かった。


ツゥジィーさんが、出迎えた。

ジュニオに対しても、別段不思議な顔は、しない。

通常、島の人は、入らない店である。


二人は、顔馴染みである。島の人は、ほとんど、知り合いである。

注文した、ハンバーグがくるまで、ツゥジィーさんと、ジュニオが、現地語で、話している。

内容は、解らない。


ツゥジィーさんが、英語で、言った。

先日、亡くなった、17歳の男の子がいた。

声が出なくなり、食べ物が、喉を通らない。島の病院、グアムの病院、ハワイの病院に行ったが、原因不明で、戻って来て、亡くなった。


彼女は、ブラックマジックにかかったのだと言う。それを、二人で、話していたのだ。


ブラックマジックは、誰でも、かけられる。そして、誰でも、それを、解くことが出来るという。

草木の新芽を使い、それを、煎じて作るらしい。


その17歳の男の子の、親が、熱心なクリスチャンであった。

それで、島の方法を、申し出た人が、多くいたが、断り、死んでしまったのだという。

ブラックマジックも、その解き方も、悪魔のものだというのだ。

だが、母親は、彼を葬る時に、アイムソーリィと、何度も泣いたという。


ツゥジィーさんは、ブラックマジックは、必ず解けるという。


ツゥジィーさんが、一度部屋を出ると、ジュリオが、ブラックマジックの掛けるのを、見たいことがあると言う。そして、私たちに、それを、再現してくれた。

人が寝ている時に、それを、行うという。そして、舌をレロレロレロと、口から出し入れし、呪文のように、アワアワアワアワと、と唱えるという。


その、ジュリオの表情が、おかしくて、私は笑いそうになったが、我慢した。

それをする、ジュリオ自身が、白目を剥くのだ。


野中は、風土病だという。

だから、島の草木の新芽を使って、直すのだという、意見である。


私は、それもありであり、もう一つは、島にある、元の信仰形態を知りたかった。

しかし、ツゥジィーさんも、ジュリオも、それを、知らないという。


バリ島のように、元からある、神様である。その名前だけでも、残っているはずだが、矢張り、キリスト教の支配に入り、それが、霧散してしまったのだろう。


1500年代の、スペイン統治の前には、何らかの、土着の信仰形態が、あったはずである。


二人は、ブラックマジックを解けば、彼は、死ななかったという、意見であった。


ツゥジィーさんの、母親なら、土着の信仰を知っているかもしれないと、私は、帰国して、思った。次に、行った時に、それを、聞きたいと思う。


ジュリオは、ハンバーガーを、自然に食べた。

いつも、食べているように、食べた。普段は、決して、食べられないものであるが、不自然さは、なかった。


野中が、ジュリオに、手紙を出したいが、ジュリオの所は、住所がないと、ツゥジィーさんに言うと、それなら、私の所に、送ってくれれば、届けてあげるという。

そこで、ツゥジィーさんの、住所を知ることになる。


島の大半の人には、住所が無いのである。

不思議だ。

それでも、郵便物は、届くという。

知り合いの手から、親戚の手からと、渡り、本人に届くようである。

カルチャーショックである。


いかに、島の人たちが、親しい関係を、築いているかということである。


さて、私は、ブラックマジックについては、バリ島のものも、興味があり、ただ今、調査中である。

例えば、日本人でも、それにかかる人もいるが、かからない人の方が多い。つまり、バリ島の人にのみ、通用する、ある種の、霊的作用であろうと思う。

ホワイトマジックという、それを、解く方法もある。


それが、例えば、祝詞の清め祓いで、解けるかということも、興味がある。

しかし、これについては、省略する。


四人で、歓談していると、時間が、あっという間に、過ぎた。

島が、夕暮れ近くになるので、私たちは、立ち上がった。


今度こそ、本当に、ツゥジィーさんとも、お別れである。

前回、ツゥジィーさんに、また、島に来るかと、問われて、私は、返事が出来ず、曖昧にしていたが、この時、私は、ツゥジィーさんに、来年、また、来ることを、約束した。


慰霊に訪れる日本人が、今は、激減しているのである。

もう、高齢になり、来る人が少ない。

ほとんど、ダイバーのみである。


スィユゥアーゲン、という、ツゥジィーさんの顔が、晴れやかだった。

通りすがりの旅人ではなくなったのである。

知り合いになったのである。


店を出ると、丁度、タクシーが来たので、それに乗り込む。

ホテルで、私と野中が降り、そのまま、ジュリオを村に返した。

運転手には、一ドル50セントを渡した。

通常の三倍の、料金である。


ジュリオとも、これで、最後である。

またねー、という、日本語が通じたようである。


部屋に戻って、私たちは、一息ついた。


随分と、内容の濃い時間だった。


野中が、フロントの女の子と、話に出たので、私は、一人になった。

フロントの女の子も、日系三世である。中村といった。

時給一ドルで、働いている。

信じられない、安さである。


私は、帰り支度を始めた。

夜の11時に、ホテルを出るのである。

深夜便である。

また、グアムで、手荷物検査を受けると、思うと、憂鬱になる。

グアム到着は、朝の三時半頃であり、最も、眠気の強い時間である。


今度は、冷静に、検査官の言う通りに対処しようと思う。

神妙になっている、自分に、笑った。


野中が、戻ってきた。

そして、カメラがないと言う。

ジュニオが、持っているか、ツゥジィーさんの、店に忘れたかである。

ジュニオなら、返しに来ると、思った。


暫くすると、フロントからの電話である。

ジュリオが、やって来た。

野中が、出た。

数名の子供たちを、引き連れている。

私は、野中に、ここに、皆を、呼んだら、いいと言うが、野中は、部屋を、見せない方がいいと言う。

私も、外に出ることにした。


一ドル紙幣を一枚持って、出た。

ジュリアに渡すためである。

今回で、ジュリオは、10ドル程の、収穫を得た。

彼は、父親が車椅子の生活で、必死で、家計を支えようとしている。

それが、痛いほど解る。


子供たちを見送り、私が先に部屋に戻る。

野中が、戻って来て言う。

ジュリオが、二ドル欲しいと言ったらしい。また、カメラも、最初は、解らないと言ったと。それじゃあ、あの店に、取りに行くと言うと、ズボンのポケットから、カメラを取り出して、ここにあったと言った。

本当は、カメラが欲しかったのだと、野中は言う。

そして、子供たちにも、行けば、二ドル貰えると言って、連れて来た様である。


野中に、みんなに、二ドルくれと、いったらしい。

野中は、お金は、木村が持っている。自分には無いと言ったと、言う。

野中が言う。

金があると、見ると、こういうことになる、と。

確かに、ある人から、貰うというのは、彼らには、当たり前のことである。

私は、それで、気分を悪くすることはなかった。

結果的に、カメラが、戻り、良かったのだ。


夜の九時である。

私たちは、ホテルのレストランに入り、最後の食事をした。


ビーフのミンチを、チーズで、くるんでいるような、実に、後味の悪いものだった。

本日の、お勧め、ディナーである。

一人、約10ドル。

飲み物は、水にした。


部屋に戻る。

野中が、急いで、帰り支度をする。


野中が、荷物を持って、部屋を出た。

フロントの女の子と、話すためである。


私は、時間まで、部屋にいた。


私が、一階に下りると、いよいよ、迎えの車が来た。

旅行会社に委託されている、現地の旅行会社の方である。

現地生活、20年という女性だった。その、旦那さんは、30年の現地生活であった。


彼女から、車の中で、島のことを、聞いた。

私が、感じたことを、確認するようだった。


そして、産経新聞の記事のことにも、触れた。

取材を受けたのだと言う。

それは、産経新聞の記者ではなく、JOCAの人だと言う。

独立行政法人である。青年海外協力隊などを、出している団体である。


産経新聞は、その文章を元に、記事を書いた。

つまり、記者は、取材に来ていない。

そして、それは、非常に偏狭なものだった。

そのように、書くことも出来るが、状況を誤って、理解しているというものだった。


どうしても、遺骨を、見世物にしているという、発想なのである。

確かに、遺骨は、見ることが出来るが、そこまで、見るということは、前にも書いたが、ダイビングでも、相当の経験者である。

それで、果たして、見世物にしていると、言えるのかということである。


遺骨の多くある場所を知る、案内人もいる。

そして、それは、案内するという、仕事であるから、お金を得る。見世物にして、チップを取るという感覚ではなく、それが、仕事なのである。


それを、チップを得て、遺骨を見せるという表現にも出来るということだ。


微妙な、表現の違いである。

ただ、基本的に、そのようなことは、無いと、彼女は言う。

私も、ダンピングショップの人から、聞いた話では、微妙に、ニュアンスが違うと、感じた。


だが、産経新聞の記者は、見世物にされているという、前提の元に、記事を書いたといえる。微妙な、ニュアンスの違いであるが、私は、それは、行き過ぎた書き方であると、判断した。


慰霊を終えた私には、更に、遺骨の、問題ではなくなっていた。

遺骨は、抜け殻である。

その、霊、魂は、すでに、次元を異にしている。


彼らも、後は野となれ山となれ、なのである。


出国審査を終えて、搭乗ロビーに出た。

再び、この島に来ると、信じた。また、やるべきことが、一つ増えたのである。

posted by 天山 at 16:43| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月12日

神仏は妄想である 31

世の中には、特定の宗教の強い影響のもとで育てられたが、居心地の悪さを感じていたり、その宗教を信じることができなかったり、あるいはその宗教の名によっておこなわれる悪徳に心を悩ませたりしている人間がたくさんいるのではないかと私は疑っているーーいやむしろ、確信している。

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。はじめに、より。

そういう人のために、この本を書いたという。

アメリカ。世界で、これほど、戦争の好きな国は無い。また、世界で、一番、戦争を起こしている国である。
それが、どうであろう。

今日のアメリカにおける無神論者の社会的地位は、50年前の同性愛者の立場とほとんど同じである。ゲイ・プライド運動のあと、いまでは、同性愛者が選挙で公職に選ばれることは、けっして簡単というほどではないが、可能である。1999年におこなわれたギャラップ調査では、アメリカ人に対して、その他の点では十分な資格をもつ次のような人物に投票するかどうかが質問された。女性99パーセントは投票する、ローマカトリック教徒94パーセント、ユダヤ人92パーセント、黒人92パーセント、モルモン教徒79パーセント、同性愛者79パーセント、無神論者49パーセントという結果だった。明らかに、道ははるかに遠い。しかし無神論者の数は、多くの人が気づいているよりも、もっとはるかに多く、とくに高い教育を受けたエリートのあいだに多い。この点については、すでに19世紀からそうだったのであり、だからこそジョン・スチュワート・ミルが実際、こう述べているのだ。「世界にもっとも輝かしい光彩を添えている人々のうちの、英知と徳という通俗的な評価においてさえももっとも傑出した人々のうちの、どれほど大きな比率が、宗教への完璧な懐疑論者であるかを知れば、世間は驚愕するだろう」

欧米諸国、アラブ諸国は、宗教の国々である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。
しかし、どれ程、多くの人が、それに対して、懐疑的であるかは、語られない。

甚だしい、苦痛を感じている、真っ当な人々が、無神論であると、カミングアウトすることは、不可能に近い。
イスラム圏では、死刑に相当する場合もある。

これを、無明と、言わず、何というのか。
更に、イスラム圏では、他の宗教に改宗すると、死刑に相当するという、驚きである。

妄想の神に対する、不敬が、最も重い罪とされる。
信じられないのである。

そして、もっと、驚くべきことは、それらが、簡単に戦争をするという、事実である。
それも、神の名において、である。

宗教と、共産主義が、殺した人の数は、星の数にもなる。

ホント、糞でも、食らえ、である。

対立するように、見えるものが、実際は、同じ、土俵にいるという、驚き。

私は、人類のために、宗教と、共産主義を、大罪と、定める。

これ程、愚かしく、哀れであるものは、見ることもない。
そして、これらは、すべて、無知からくるのである。
無知蒙昧という。

どんなに、議論をしても、無い物を、在ると言うのであるから、議論にならない。

人類は、宗教的であったゆえに、こうして、続けてきたのであり、宗教によってではない。宗教的というのは、自然との、共生、共感の考え方である。
宗教から、発した思想も哲学も、何も解決していないのである。
言えば、迷いを与えるものである。

無知の、ゆらぎに、付け込んでの、神だの仏だのという、妄想は、人間を救うことなく、人間を、無明の、只中に貶めた。

無明とは、仏教用語である。仏の知恵を言うが、それこそ、無知なのである。仏の知恵などない。ある訳が無い。
在ると信じて、お勉強して、多くの言葉を覚えて、迷うのが、関の山である。

仏教の教義など、支離滅裂である。
一つの言葉を取り出しても、何の根拠も無いという、仰天である。

それなのに、無知な人々は、真実の科学の知識や知恵を、宗教だと言う、アホらしさである。つまり、知能レベルが、低すぎるのである。

科学は、全体の、ほんの、少しを知った程度である。しかし、宗教の妄想とは、違う。実際に在るものを、見ている。しかし、宗教は、妄想なのである。

あれかし、と、願う心に、神や仏が、宿るのである。

マイクロソフト・ワードについている辞書は、delusion を「矛盾する強力な証拠があるにもかかわらず誤った信念をずっともちつづけること。とくに精神障害の一症候群として」と定義している。

禅とオートバイ修理技術の、著者であるロバート・M・バーングが、「ある一人の人物が妄想にとりつかれているときは、精神異常と呼ばれる。多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる」と述べているが、私はこちらを採りたい気持ちがする。

以上、そのようである。
私も、そう思う。

このエッセイでは、日本の伝統、古神道に行き着くべくの、エッセイである。
それは、宗教ではなく、実に、宗教的である。
日本には、宗教という、概念が無い。それは、つまり、日本には、宗教が無いということである。

欧米の宗教学を持って、宗教を論じるのは、かまわないが、日本の伝統を、その枠で、語ることは、出来ないということを、言うための、エッセイを書いている。

お解りか。

日本人には、宗教は、必要無いのである。
しかし、何故、こう多くの宗教が成り立っているのか。
日本の、宗教団体は、商売だからである。
故に、十分、成り立つ意味がある。

お解りか。
商売である。
宗教法人とは、株式会社と、同じように、経営の形態なのである。

お解りか。
アホ、ども。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月13日

神仏は妄想である 32

神仮説は、証拠よりもむしろ個人的な啓示にもとづく地域的な伝統の上に築かれたものだから、さまざまな変形版があるとしても驚くにあたらない。宗教史家は、未開部族のアニミズムから、ギリシャ、ローマ、北欧神話の多神教を経て、ユダヤ教およびそこから派生したキリスト教やイスラム教といった一神教にいたる発展過程を認めている。

神は妄想である。第二章、神がいるという仮説、より。

宗教の過程についてを、考察するのである。
突然、宗教というものが、現れるのではない。原始信仰体験から始まる、アニミズムから、次第に、整理整頓され、支配者に、都合の良いものとしての、宗教が、起こる。

ローマカトリックという、キリスト教も、ローマが、国教と定めてから、巨大な権威を持つようになる。それでは、それ以前の、ユダヤ人キリスト教徒は、どうなったのか。異端として、殺された。

ヨーロッパ中世史は、異端審判に、覆われている。
皇帝と、組んでの、異端審判であるから、驚くのである。
神の名において、平然として、人を殺し続けた。

むしろ私は、神仮説をもっと弁護のしようがある形で定義したいと思う。すなわち、宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説である。本書で代筆として提唱される考え方は、何かを設計できるだけの十分な複雑さを備えたいかなる創造的知性も、長期にわたる斬新的進化の単なる最終的産物にすぎないというものである。進化によって生じた創造的知性は、当然のことながら、すでにできあがっている宇宙に後から生まれてくるのだから、その設計に責任をもつことは不可能である。このように定義された意味における神は妄想である。

さらに、それは、有害な妄想である、という。

ドーキンスは、ダーウィンの進化論による、淘汰に関して、実に興味深い考察を続ける。

すでにできあがっている宇宙の後から生まれてくるのだから
つまり、宗教は、虚であるから、なんとでも、こじつけて、説明することが、出来るのである。

労働は、しないが、理屈は、三人前、いや、五人前である。
私の知り合いの、お婆さんが言った。
毎日、阿弥陀経を唱えているが、コレ、本当に、効くのかなー。どんな、意味があるんじゃー。
寺の坊主に聞いても、ようわからんしー、なー。
そんな、お経の意味を知れば、お婆さんは、仰天して、泡を吹くだろう。

どこかの、エロ小説を声に出して、読んでも、同じである。
死者は、その方が楽しくて、成仏するかも、しれません。

僧侶は、誤魔化しの専門。
自分でも、よく解っていないのである。
ただ、有り難い、有り難いと、言っていれば、爺、婆を、騙せると、思っている。
そういう、時代は、もう、終わる。

いずれ、経典についても、徹底して書く。
仏教の思想というものも、結果は、異端に対する、論戦のために、出来上がったものであり、仏陀の教えとは、何の関わりも無い。
要するに、負けないための、言葉の数々である。
議論のための、議論であるから、終わっている。

さて、一神教の大本は、多神教から、発したものである。
一神教の優越主義は、すべて、為政者によるものである。つまり、支配しやすいのである。
政治と、密接に宗教は、絡み合うのである。

ローマ皇帝は、ローマ法王により、認証される。ローマ法王は、皇帝により、認証される。
馬鹿馬鹿しいが、茶番である。
そういう、時期を経ての、世界宗教としての、カトリックである。

勿論、イスラムも、然り。
政治と、密接に結びついての、宗教体制である。
しかも、ムハンマドは、司祭職を置かなかったが、今では、宗教指導者として、司祭ではないが、それに似た権威を持つのである。
何とも、適当である。

精神的指導を宗教が、受け持つという、暗黙の了解があるということも、不思議なことである。
それは、政治よりも、実に、残虐で、許しがたい行為を、続けている。

政治が、何故、宗教を保護するのか。
今一度、考え直すへき、時期がきたのである。

日本の場合も、宗教法人という、特別税制のシステムがある。
それに、案じて、のうのうとして、貯蓄に励む僧侶たちである。
信じられないの一言。
こんな、差別税制があっていいのか。

どんなに、金を集めても、献金、寄付である。そして、税金がかからない。
これは、ヤクザよりも、酷い話である。
精神暴力団である。

さて、
進化によって生じた創造的知性は、その設計に責任をもつことは不可能である。
つまり、神という観念は、後から後から、付け足して、作り上げるものだということだ。

神は、完全ではないといことになる。
淘汰する、自然の様を、何という。

宇宙飛行士たちが、宇宙から、神を感じたという言葉を、勝手に解釈して、神の存在の証拠のように言うが、彼らが言う神という言葉は、宗教の言う神という言葉と、根本的に違う。
まあ、中には牧師になったというものもいるが、錯乱したのである。
感動が大きければ、大きいほど、言葉というものを、失う。
結果、神という言葉に託す。

仏というものも、同じである。

人知を超えたものに、感動する時の言葉が、貧弱なのである。

それなら、歌を詠めばよいが、それが、出来ないのである。
彼らは、日本人ではない。

日本人なら、和歌を詠む。
神や仏という言葉を使わずに、感動を、言葉にする。
言葉が言霊の国だからである。

それで、日本人の宗教的行為と、欧米の宗教というものの、断絶がある。
その、断絶をよくよく、知るべきである。

一神教とも、多神教とも、違うのである、日本の物の見方、考え方は。

以下省略。

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2008年01月14日

神仏は妄想である 33

19世紀以来、学術的な神学研究者たちは、「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述はない」という決定的な論証をおこなってきた。

ルカ福音書などは、歴史的にありえず、内部的に矛盾している、と、結論づけられている。

一々、その例を上げない。
面倒だからだ。
それは、研究者の、書いたものを、読むことを勧める。

聖書にしろ、コーランにしろ、仏典にしろ、それぞれは、教祖が、亡くなり、しばらく経てからの、書き物である。
二三年後ではない。仏典などは、300年以上を、経ている。


キリスト誕生の物語である、東方の星、処女懐胎、王による赤子の殺し、奇跡、復活と、昇天を含めて、イエス伝説の本質的な、特徴のすべてーーーどれもこれも一つ残らずーーーが、地中海および近東地域にすでに存在した他の宗教から借用されているという経緯を示した。

聖書が一から十まで本当だと思っている学識のないキリスト教徒がいっぱいる。
彼らは聖書を、実際的に歴史の忠実で正確な記述であり、したがって彼らの宗教的信念を支持する証拠であると、まったく真剣に受け止めている。

完全完璧に、信じる者は、騙されるのである。

私は、キリストの絶唱という、エッセイを書いた。
それは、キリストの奇跡を、現実のものとするという、考えであり、そうでなければ、キリストの絶唱というものを、書けないと、判断した。
それは、奇跡によって、イエスキリストは、今も、存在し続けていると、確信するからだ。
つまり、それは、奇跡を行えないキリスト教徒は、キリスト教徒たりえないという、ことであると、言いたかった。

前ローマ法王が、射撃されて、命を狙われた時に、ファティマの聖母が、助けてくれたというが、実際、彼を助けたのは、医者である。

こういう、医者に対する、不遜な姿勢を、キリスト教徒の代表が、行う、言うという、驚きである。

一事が万事そうである。

法王に、銃弾が弾き飛ばされたというなら、キリスト教徒であるが、撃たれて、それを、医者に取り除いてもらい、聖母のお蔭であるという、根性は、そうとうな、玉である。

神の代理者である、法王は、亡くなると、神の国、天国に入ると、信じているという、驚き。
金持ちが、天国に入るのは、ラクダが、針の穴を通るより、難しいとの、イエスの言葉が、嘘になることを、知らない。

とっても、いい気なものである。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという、新約聖書の、四福音書は、正典とされているが、実は、他にも多くの福音書がある。
しかし、
正典にされなかった福音書は、四つの正典に収められたものよりも、あきれるほど納得しがたい物語を含んでいたために、聖職者たちによって排除されたものである。

ハリーポッターより、低俗で、正典に出来なかったということである。

彼らが書いたことのほとんどは、正直な歴史を書こうとする試みではけっしてなく、「旧約聖書」の単なる焼き直しにすぎなかった。なぜならば、福音書の書き手たちは、イエスの生涯は「旧約聖書」の預言をかなえるものでなければならないと心底から信じ込んでいたからである。

要するに、新約聖書も、信じる行為から、書かれたものであるということだ。
信じる、つまり、騙されるのである。

聖書にある証拠によって神を信じるように説得された人々がいる。
しかし、それが、大嘘であるとされるのである。
どうするのか。
答えは、簡単である。
信じる者は、騙されるのであり、それを、喜ぶのである。


イエスが何らかの種類の神の地位を宣言したという歴史的な証拠はごく小さなものである。

それなのに、ああ、それなのに。
どうして、このようなことになったのか。

恐れと、不安にある人が、こうあれかし、と思う、気持ちが、福音書を書かせたのである。
そして、一度、信じてしまうと、それは、自己暗示であり、自己洗脳によって、確実になる。嘘であるが、真実であると、撹乱するのである。

私が、キリストの絶唱で、キリストの奇跡を、肯定したのは、キリスト教徒は、奇跡を行えという、メッセージである。
種一つの信仰があれば、山をも、動かすという、信仰を、実践してこその、キリスト教徒である。

その、メッセージを込めての、キリストの絶唱だった。

さて、キリスト教徒は、少し賢く、聖書を検証すべきである。
無知蒙昧では、信仰など出来ない。
また、知的レベルが、低いというのも、信仰は、出来ない。
信仰とは、実に、知的な行為である。

そこに、妄想の思い込みがあっては、ならない。

あらゆる、種類のキリスト教徒に共通するものは、信じることによる、酔いである。
思春期の女の子のような、自我意識拡大の、様を、信仰というのだから、終わっている。

世界を超えるような、自我意識の拡大は、一種の精神疾患である。

誇大妄想。
それに尽きる。

バートランド・ラッセルの言葉が、第三章に載っている。

知的な意味で著名な人々の圧倒的多数はキリスト教を信じていないが、大衆に対してそのことを隠している。なぜなら、彼らは自らの収入が減ることを怖れているからだ。

宗教の太鼓もちをすると、それだけで、収入になるのである。
そういう、学者、作家、芸術家、芸能人等、多数いる。

日本にも、大勢いる。
一人、一人を、上げていると、終わらなくなるので、省略する。


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2008年01月15日

神仏は妄想である 34

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第一章すこぶる宗教的な不信心者

ひろくおこなわれていて、私たちの社会のほとんど全員が受け入れているーー宗教的人間でない人間を含めてーーのは、宗教的信仰は、攻撃されると非常に傷つきやすいので、どんな人間であれすべての他人に対して払うべき敬意に加えて、異常なほど厚い敬意によって、護ってやらなければならないという前提である。

余計な言葉を、差し挟より、ドーキンスの書くままを、引用する。

北アイルランドでは、カトリック教徒とプロテスタントといったように、「宗教」という言葉が「共同体」に改ざんされるのだ。イラクは2003年の米英軍の侵攻の結果として、スンニ派とシーア派というイスラム教徒の宗派間の内戦状態に陥ってしまった。明らかに宗教戦争であるーーーなのに、2006年5月20日のインディペインデント紙の第一面の見出しと、記事の冒頭はいずれも、それを「民族浄化」と表現していた。この文脈における「民族」も、やはり彎曲語法である。私たちがいまイラクで見ているものは、実は宗教的浄化なのだ。旧ユーゴにおける「民族浄化」という最初の使い方もまた、ほぼまちがいなく、ギリシア正教のセルビア人、カトリックのクロアチア人、イスラム教のボスニア人がかかわる宗教的浄化の彎曲表現である。

2006年2月に、デンマークの新聞が、預言者ムハンマドを描いた12枚の風刺漫画を掲載した。
それから、一ヶ月をかけて、イスラム教徒の小さな集団によって、憤激が慎重かつ組織的にイスラム世界全体に醸成されていった。
この集団の指導者は、アラブ諸国で、好ましからざる人物と宣告されて、デンマークで、庇護を与えられていた、悪名高い二人のイマーム導師だった。
彼らは、さらに、記事の写真を捏造し、デンマークにおけるイスラム教徒への不当な処遇と称する嘘の記事を掲げて、イスラム諸国に、喧伝した。

その後の、イスラム教徒の様々な、暴力は、見ての通りである。
デンマークの大使館や、キリスト教の施設等への、暴力である。
それは、インドネシアまで広がった。

ドーキンス曰く
これらの人々がなによりも愛しているのは、本当は、地獄のような大混乱なのである。

まさに、狂人である。
信教の自由を掲げると、人権も何も無い。
裁判でも、勝利するのである。

差別に関しても、信教の自由を持ち出せば、裁判に勝利するという、摩訶不思議である。

アメリカでは、キリスト教原理主義は、平然として、同性愛は罪だ。イスラム教徒は嘘つきだ。中絶は殺人だと、叫んでもいいのである。

彼らには、静かな、信仰というものが無い。
恐ろしく、過激な、闘争による、信仰宣言がある。

ある、敬虔なクリスチャンは、正しい神の教えのための、戦争ならば、必要だと、平然として言うのである。
要するに、宗教浄化である。

例えば、どんなに穏健なイスラム教徒でも、簡単に、死刑を宣告する。
アッラーと、ムハンマドに対する侮辱罪、不敬罪として。

ジャーナリスト、アンドリュー・ミューラーの言葉。
イスラム教徒の価値観は他のいかなるものにも勝るーーーこれは、イスラム教徒の誰もが実際に思っていることで、他のどの宗教の信者も自分たちの宗教が唯一の道であり、真理であり、光であると信じているのと同じことだ。もし人々が自分の家族よりも七世紀に教えを説いた人間を愛したいのであれば、それは彼らの勝手だが、他の誰もそれを本気で受け止めるように強制されることはない・・・

信じる行為とは、完全に理性を失う故に、狂うのである。
どの、宗教信者も、我らが、唯一と、思い込むのである。
理性が狂うと、その、感性はまた、狂う。
すると、平気で、人を殺すのである。

21世紀は、この悪夢から、逃れられるのか。

世界宗教者会議という、茶番が行われている。
いくら、議論しても、はじまらない。
参加する者、皆、理性を失い、他宗教との、対話など出来ないからだ。それを、知らない。
皆で、お茶を飲み、食事をして、終わりである。
他宗教を尊重しましょうと、宣言するのが、関の山である。

しかし、そんなものは、すぐに流れる。誰も、本気で、そう思っているのではない。

前法王、ヨハネ・パウロ二世が、ギリシャ正教と、和解のテーブルについたが、ただ、それだけである。
法王の野心は、統一である。
和解など、できるものではない。
和解して、どうするのか。

現法王は、アジア人の枢機卿を解任し、白人支配に戻そうとしている。

宗教の無明は、甚だしく、理性的な話し合いなど、出来ない状態である。

私は、そんなことだけのために、誰かを屈辱したり、傷つけたりすることに賛成できないのだ。その他の点では世俗的な私たちの社会で、宗教があまりにも不釣合いな特権を与えられていることに私は好奇心をそそられ、当惑させられる。
と、ドーキンスが言う。

はっきりと、そんなことだけのため、と言う。

宗教とは、そんなこと、なのである。

20世紀前半の評論家である、H・L・メンケンの言葉。
われわれは他人の宗教を尊重しなければならないが、あくまでそれはその人の奥さんが美人だとか子供が賢いという言い分を尊重するというのと同じ意味においてのことである。

何故、宗教の信者は、その教えを、唯一の正しい、真理の教えと、思い込むかというのは、実に、簡単である。
その教えに、不安を抱いているからであり、その不安を、他宗教を、排斥、攻撃することで、解消するからである。

古神道を奉ずる私には、そういう、ものは、一切無い。

自然と、共生、共感するという、一点にある、古神道という、日本の伝統には、他を排斥し、攻撃するという、意識が無い。
何故なら、自然と共にしか、生きられないからである。
それは、理性である。
理性的であれば、他宗教を、いくらでも、寛容に受け入れられる。
甚だしい場合は、一時的に、他宗教の信者としても、行為できるのであるのである。
それによって、自分の何ものも、犯されることも、傷つくこともない。

私の先祖は、立派でした。そして、あなたの、先祖も、立派でした。しかし、私の先祖の方が、あなたの、先祖より、やはり、優秀で立派でした。
この程度の、知的レベルが、世界宗教と言われる。

そしてそれらが、皆、妄想に支えられているということである。
それを、総称して、馬鹿は死んでも、治らないという。

敬虔なクリスチャンも、熱心な、念仏者も、誇大妄想の題目者も、レベルの低い霊界の霊人から、啓示を受けた宗教を、奉じる者も、皆、一緒に、馬鹿は、死んでも治らないと、信じるべきである。

全知全能の神も、大千三千世界も、完全に妄想であることを、知るべきである。
それを、理性という。
理性は、知性を育て、感性を磨くのである。
そうすると、当たり前のことに気づく。

当たり前のこととは、自然の中でしか、生きられない人間であるということである。
太陽が、一秒停止すれば、この世は、地球は、壊滅する。

太陽崇拝の、古代人の方が、実に、真っ当である。


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2008年01月16日

神仏は妄想である 35

進化論者にとって、宗教儀礼は「陽の差し込む林間の空き地の雄クジャクのように際立った」ものだ。宗教的行動は、大掛かりな、蟻浴や東屋づくりの人間版に等しい。それは時間を消費し、エネルギーを消費し、しばしばゴクラクチョウの毛羽のように過度に装飾的である。宗教は信心深い人間の生活を危険にさらすだけでなく、他の人間の生活も危険にさらすことがある。無数の人間が宗教への忠誠心のために拷問され、多くの場合、どこがちがうのかはほとんどわからない別の信仰をもつがゆえに狂信的な他教徒の迫害を受けてきた。宗教は資源を、時には途方もない規模で、貪り食う。中世の大聖堂はその建造に100人掛ける一世紀の労働力を消費することがあったが、住居やあるいは何らかの有益な目的に使用されることはけっしてなかった。それはある意味クジャクの尾羽の建築版だったのだろうか? もしそうなら、その広告は誰に向かってなされたものだったのだろうか? 宗教音楽と宗教絵画が中世およびルネサンス期の才能の大部分を独占していた。敬虔な人々が神のために死に、神のために人を殺した。血が出るまで背中を鞭打たれ、終生の独身あるいは沈黙を誓った人は、すべて宗教への献身のためにそうしたのである。これらはいったい何のためなのか? 宗教を信じることで得られる利益とは、何なのだ?

第5章 宗教の起源 より

無知ゆえの、無明である。
仏教では、その逆で、信仰の無い者を、無知ゆえの、無明であるという。

命懸けで、伝える教えというものがある、と、思い込むのは、その人の性格である。極めて、強迫的な性格である。

それにより、自分を保つのであり、教えの良し悪しではない。

聖人になる前は、さんざんに、放蕩を尽くしていた、アグスチヌス、イエズス会の、イグナチオ・ロヨラ、数え切れないほどいる。
一転して、信仰深くなるのである。
つまり、放蕩に飽きたのである。
そして、次には、人生を信仰と、その布教に賭けるのである。
何とも、暇つぶしに、持って来いである。

越後の良寛さん。
出家する前日まで、遊郭で、女と、セックスしていた。
翌日、出家して、善人良寛さんになっという。
アホらし。
放蕩に飽きて、何も興味が持てなくて、出家である。
つまり、遊郭にいることと、一緒なのである。
女と、セックスすることも、快楽で、女を絶つことも快楽なのである。

それを、改心、回心と、判断する、自称、宗教家の面々である。
何のことは無い。単なる、生きるための、暇つぶしである。

神や仏という、善に生きると、いう、強迫症である。
つまり、そのようにしか生きられないのである。
それを、聖人だとは、笑わせる。

イエズス会は、ローマ法王の、支配地を拡大するために、世界に布教を開始する。勿論、日本にも、ザビエルが来た。
植民地政策の、第一歩である。
信仰という、野心である。

無いものを、在るという、集団が大きくなるのは、確実に、魔界関与であることを、知らないのである。
巨大教団になればなるほど、魔界が関与する。
悪魔も手出だし出来ない、魔界である。

魔界の手先が、悪魔祓いをするという、仰天である。

知的レベルが低いほど、性格が、強迫的になる。
信心深い者を見れば、一目瞭然である。

信仰という、迷いに入り込むということが、理解出来ない。また、それが、偏狭であるということを、知ることがない。

人間の知性は、そうそう、揺らぐことのないものである。しかし、その、知性の力を知らないうちに、信仰という、迷いに入り込むのである。
作られた経典ということを、知らないのか、知らない振りをするのか。
すべて、人間の手によったものである。
それでさえ、経典に書かれてある。聖書に書かれてある。
その、経典も、聖書も、大嘘だと証明されても、信じるという、無明である。

信じる行為は、手のつけようも無いほど、偏狭、頑固になる。

修正できないほど、矯正されるのである。
自己矯正である。

例えば、拝んでいた神を捨てるとなると、心に大きな穴が開いた気分になる。つまり、勝手に、心に神の居場所を作り、それを、肥大化させているのである。
穴など、空いて、いないのであるが、そう感じるのである。

人間は、思い込みによって、病も癒える性質を持つ。
戦後、成長の家という、教団の本を読み、病を癒した者が、多くいた。
その、本を読むと、心のカラクリが解るのである。
当時、アメリカの心理学を取り入れた、その著作は、画期的だった。
さらに、すべての宗教は、一である。つまり、宗教の教えるものは、すべて、同じものであるという考え方で、どの宗教に所属、どの信仰を持っても、良いという教えである。

しかし、その著作で、イスラムには、一切触れていないのである。
仏典、聖書には、多く触れるが、イスラムには、触れない。そして、自分が、元所属していた、宗教にも、触れない。
万教帰一というが、徹底していないのである。

日本の伝統である、神道も取り入れての、著作である。

病は、影である。はじめから、無いのである。人間は神の子であるから、何も恐れることがない。等、実に、プラス思考の著作であった。
そう、思い込めばよいのだ。

甚だしいのは、細菌も無いと、思えば無いのである。
風邪も引かないということになる。
教祖は、高齢まで生きた。高い霊界に入ったという、霊能者もいる。
しかし、あれほど、金を集めて、教団、わが身のために、使えば、長くも生きられる。
信者は、奉仕活動などするが、教団が、社会的に、意義ある、奉仕活動などしたと、聞いたことが無い。

思い込みを教えると、霊界の高い段階まで、上がるというならば、霊界も、大したところではない。

生きる場の、知性こそ、必要なものである。
病になれば、病を受け入れる。
それは、影でも、なんでもない。
在るものである。

知能レベルの低い、宗教の多くは、そのように教える。
病は無い。心の蔭であると。
病というものの、必要性を知らない。

仏陀が、正しい。
人間は、生老病死である。
だから、生きるによいのだ。

彼らは、人間を、化け物にする。

溺れる者、藁にも縋るという、人間の弱さに付け込むという、罪作りである。

宗教の霊性というものも、すべて、思い込みの、何ものでもない。

霊性とは、知性により、感性を高めてのみ、至るものである。

知性により、感性を高めるものとは、自然に、他ならない。
自然と、共生、共感して、成り立つものである。
何故なら、人間は、自然の中でしか生きられないのである。
宇宙を、含めた自然である。

古代人の、太陽崇拝が、実に、正しいことが、解る。

宗教は、人間の前頭葉に、錯覚を与えるものである。

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2008年01月17日

神仏は妄想である 36

ニュージーランド/ オーストラリアで在住の科学哲学学者であるキム・ステレルニーが書いた、彼らの生活の劇的な対比を浮き彫りにする文章がある。一方でアボリジニは、生きる上での実践的な技量が極限まで試されるような条件下での、卓越した生き残り能力を持っている。しかしステレルニーはつづけて、ヒトという種は知能が高いかもしれないが、その知能の高さにはねじくれたところがあると言う。自然界とそのなかで生き延びる術にそれほどまでに精通している同じ人間が、同時に、明らかにまちがっていて、「役に立たない」という言葉でさえあまりに寛大で控え目に過ぎるような信仰に心を惑わされるのである。
・ ・・・・・
ステレルニーは、「私たちはいったいどうして、それほど賢明であると同時にそれほど愚かでいることができるのか」誰か説明してほしいと問いかける。
第5章 宗教の起源 より

近頃、ある友人の付き合いのある方が、亡くなった。
非常に、知的で、理性的な人だった、その男性は、最後の最後に、カトリックの洗礼を受けて、亡くなったという。

死の、恐怖からである。
何故、知能の高い、優れたヒトが、明らかに「役に立たない」という信仰に心を、惑わすのかというのは、脳内物質の、麻薬効果を求めるからである。
死を目の前にして、その恐怖から、逃れるべく、信仰という、迷いの中に入り込むことで、紛らわすのである。

それは、日常生活にも言える。
先行き不明である。誰も、明日のことを、知らない。考えれば、考えるほど、不安になり、明日を、恐怖する。
寄るべき心の在り処が無いのである。
それが、信仰への道になる。

安心立命という、この言葉で、どれほど多くの人が、迷いの信仰に入信したか。

私の友人のクリスチャンが言う。
ボランティア活動をしても、宗教が無い人は、基本的に、ボランティアを理解出来ないと。
それは、善行をしているという意識があり、善人であるという、立場での、行動となるというのだ。
彼女は、神のために、ということである。
マザーテレサも、「神様のために、素晴らしいことを」と言う。
要するに、超越したものに、捧げる行為としての、ボランティア活動だから、良いというのだ。

天の国に、宝を積む行為をしているのであり、現世の宝ではないということである。
宗教の無い人は、現世での、行為の、報いを、その行為から得るというのだ。つまり、名誉であり、自己満足である。

宗教の無い人の、善行は、現世での、褒美を得るという意味で、意味の無いということになる。確かに、それは、一理ある。
自己満足の、奉仕活動ならば、自己のみに、その行為は、帰すのである。

だが、果たして、天に宝を積むという、行為と、無宗教の人の、善行に、違いがあるのかといえば、無い。
やることは、同じである。
受け取る側の問題になる。

相手の思いが、どうであれ、やってもらったことが、自分たちに必要なことであれば、いいのである。

行為する側の意味意識である。
それを、神に掛けるのである。
仏でも、いい。

実は、その方が、やりやすいのである。
神や仏の無い人の、善行は、実は、純粋無垢なものである。
それが、名誉であれ、自己満足であれ、相手にとっては、どうでもいいことだ。

させて、貰っているという、感覚になるという人もいる。
ボランティアによって、自分の方が、与えてもらうという、感覚である。
これは、知性の問題である。

要するに、宗教の如何に関わり無く、知性的な人は、その行為によって、何かを得るということである。その、得るものが、さらに知性を、磨くこと、感性を磨くことになるかもしれない。それで、いい。

さて、信仰は、脳内物質の、麻薬効果を生むということである。
人間の脳は、必要なものを、必要なだけ、出す能力がある。
ところが、それが、間に合わなくなるという、事態が起こる。その時、信仰という、得体の知れない、陶酔感を与えるものが、提示されると、陶酔するために、信仰を、掴む。

悩み、苦しみ、病苦にある人々などを、狙うには、訳がある。
もっとも、痛んでいる人を、狙うと、事は早いのである。

本来は、知性によって、超えるべきことを、棚に上げて、得体の知れない、信仰という、迷いに、身を投じる。
信仰の味を、一度しめてしまうと、そこから、逃れなれなくなる。
麻薬と、同じである。

そして、悪いことに、今度は、洗脳が始まる。
宗教指導者が、これが、唯一の教えであるというのである。
そして、その教えを、受け入れた人は、選ばれたのである。
次から次へと、快感を与えられる。
そして、見事に、知性を捨てて、安心立命を得るという、寸法である。

世界中で細部にちがいはあるものの、何らかの形の、時間を浪費し、敵意を呼び覚ます儀礼や、事実に反し、反生産的な宗教という幻想をもたない文化は一つも知られていない。教育を受けた一部の人間が宗教を棄てることがあるかもしれないが、すべての人間は宗教的な文化のなかで育てられるので、そこから離れるためにはふつう、意識的な決断をしなければならない。

宗教の大本は、自然への、脅威に、他ならない。
自然への、畏敬が、宗教、そして、信仰の発祥である。
古代人は、それを、太陽信仰に、高めたのである。

そして、男と女の存在である。さらに、性というものの、不思議である。
原始体験である。
生は、性であるという、事実。

自分の身にあるものであるが、その、性を、崇拝する。
世界中、至るところに、男根、女陰の、奉ずる跡がある。

そして、言葉の発見である。
それが、飛躍的に、人間を知性的に押し上げた。しかし、一方では、原始体験の意識が、見えないものへの、畏敬として、自然から離れた、物を、拝むようになる。
宗教の発生である。

そして、それは、支配につながるという、結論。
人の心の、恐れを、取り込んでの、宗教の発生は、指導者の、また、ものであった。支配するには、実に、理想的である。

現在の宗教指導者の、躁病的、メッセージを見れば、よく解る。
決して、後に引かない、プラス思考のメッセージを流し続けるのである。
その、幻想に、信者は、騙され、地獄の果てまで、着いて行くという、オチ。

北アイルランドの古いジョーク、「わかった。で、あんたはプロテスタントの無神論者なのか、それともカトリックの無神論者なのか? 」には、苦い真実が垂らされているのだ。宗教的な行動は、異性愛的な行動にせよ、普遍的とはいっても例外的な個体の存在を許さないわけではないが、そうした例外者はすべて、自分たちが離反したルールの存在をわかりすぎるくらいよく理解している。ある種に普遍的な特徴があれば、何らかのダーウィン主義的な説明が必要である。

明らかに、性行動のダーウィン主義的な利点を説明するのには何の困難もない。それは赤ん坊をつくるためであり、避妊や同性愛がそれに矛盾するように思える場合でさえ、そうなのである。しかし、宗教的行動は何のためだろう? なぜ人間は、断食し、跪き、ひれ伏し、自分を鞭打ち、壁に向かって熱狂的に首を振り、十字軍に加わり、あるいはその他の、人生を消費し、極端な場合には人生を終わらせてしまうかもしれない犠牲の大きな行いにふけるのだろう?

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。 第5章 宗教の起源 より

上記に、私は、答える。
自己の壮大な妄想に、身を投じるのである。
それは、死ぬまでの暇つぶしに、最もな、意味意識を与える。つまり、超越した絶対者を置くことで、妄想に、拍車をかけて、さらに、陶酔し、脳内物質の、麻薬効果を得るためである。
人間に与えられた、知性を捨てて、妄想に生きるのである。
馬鹿は死んでも、直らないのである。
ホント、お疲れさん、です。

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2008年01月18日

神仏は妄想である 37

宗教的な信念がストレス性の病気から人間を守るという証拠が少数ながらある。その証拠は強力なものではないが、本当だとしても驚くにはあたらないだろう。というのは、まれに信仰治療が効くことがあるのと同じ理由で、そういうこともあるだろうからだ。しかし、わざわざ付け加える必要はないかもしれないが、そのような有益な効果があったところで、宗教的な主張がもつ真の価値をいささかも押し上げるものではない。ジョージ・バーナード・ショーの言葉を借りれば、「信仰者のほうが懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っ払いのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない」
リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第5章 宗教の起源 より

日本の新興宗教、既成宗教も、奇跡のような話が好きである。
要するに、入信して、病が癒えたというものが多い。
勿論、実際は、癒える人より、死ぬ人の方が多い。

回復、全快という言葉が、大好きであるが、それは、一万人に一人、あるいは、十万人に一人とかの、レベルである。しかし、知能の普通の人は、それでも、信じるという。信じたいのである。

宗教関係の、新聞、雑誌を読むと、必ず、それを信じての、効果なるものが、挙げられる。
体験者の言葉である。
しかし、その裏では、全然効き目の無い人の方が多いのである。

要するに、宝くじを当てましたとか、健康食品を飲んで、良くなりましたという、程度と、同じであり、下手をすると、翌月は、ガン再発ということもある。

この、ブレスレットを付けると、幸運が、訪れる。という、程度である。
それが、宗教になると、さらに、オドロオドロしくなるのである。

カルトという、集団と変わらないのであるが、不思議なもので、カルトと、宗教とは、区分けられる。

一万人が集って、題目を上げるとなると、それは、気がおかしいということになるが、信じる人は、集えば、集うほど、安心する。
要するに、一人では、不安なのである。
皆、同じだと、思う、思いたい。そこにいるという、安心感である。
それを、また、宗教は、安心立命という。

そして、指導者は、躁病のように、檄を飛ばす。
勝って勝って、勝ちまくれ、であるから、実に、おかしなことになる。
要するに、宗教というものを、知らないのである。

今、宗教という、概念は、西洋思想からなる。
それは、一神教を元に、出来上がった、宗教という概念である。
実は、仏陀や、日本の古神道、その他、民族宗教と言われるものは、厳密に、西洋の宗教概念には、入らないのである。

宗教とは、一神教の、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に、言える概念であると、言う。

例えば、仏陀は、宗教を創設したのではないということは、仏陀の教えを、辿れば、わかる。仏陀は、生活指導、また、人生の生き方指導をしたのであり、宗教、つまり、絶対者を想定して、拝むことや、信仰することを、言うのではないということが、解る。

現在の日本の、仏教団体、その他、諸派の、新興宗教等々のいうところの、仏教は、仏陀のものではなく、創作したものである。
拝むという行為自体に、誤りがある。

仏陀は、行為によって成る者に成るという、考え方であり、一切の理屈は、言わない。
まして、霊的なお話や、教義、教学等という、チンケなことを、言うものでもない。

仏陀こそ、合理主義者であり、実践家であった。
例えば、鎌倉仏教という、新興宗教では、親鸞が、最も、それに近いが、しかし、思索に脱してしまった。
思い悩み過ぎた。
そして、簡単明瞭により、とんでもない、集団を作ってしまい、今は、後悔で、一杯であろう。その、組織は、宗教ヤクザとして、現在も、日本に君臨するのである。

その思索の帰路に、陶酔する者が多いが、単なる、ポーズの付け過ぎである。

思索は、思想にならない。
単に、迷いのものである。
だから、文学なのである。そうであれば、実に、納得する。
しかし、これ、宗教と言うと、大いに誤るし、宗教ではないはずである。

矢張り、生き方指導や、生き方、思索をすることを、促したと、見る方が、正しい。

宗教は、ストレスを減らすことで寿命を延ばす偽薬なのだろうか? そうかもしれない。ただし、そう主張したいなら、多くの状況において宗教がストレスを軽減するよりもむしろ引き起こすことを指摘する懐疑論者の異議申し立てをかわす必要がある。たとえば、ふつうの人間の弱さと、ふつう以下の知能しかもちあわせないローマ・カトリック教徒が、半永久的な病的罪悪感によって苛まれることで健康が改善されるというのは信じがたい。ひょっとしたら、カトリックだけを取り上げるのは公正ではないかもしれない。しかし、アメリカのコメディアンのキャーン・ランドマンが言う通り、「すべての宗教は同じ。宗教は、祭日はそれぞれちがうけれど、基本的に有罪」なのだ。

人間を支配する場合は、人間の弱さを支配すると、良い。
一番は、性欲である。
マスターベーションを禁止するキリスト教は、多い。
これは、とんでもない、暴挙であるが、そう教えられると、それに罪悪感を抱き、その度に、罪悪感に苛まれて、甚だしい場合は、ノイローゼになる。

こうして、支配するという、カラクリである。

仏教なども、徹底した、性欲セーブ教団であった。
しかし、今は、その反動か、徹底した、性欲旺盛集団になっているという、日本仏教であるから、何とも、お粗末である。

要するに、話に、ならないのである。

日本の、すべての、仏教団は、親鸞の、浄土真宗になってしまったのである。
つまり、僧の妻帯である。

すべての、宗派の開祖は、独身である。
一人身で、生きた。
しかし、今は、見る影も無い。

自分たちに、都合の良いように、いつでも、変更出来るという、宗教の、嘘偽りである。

すべてに、半人前であるが、言うことは、三人前であるから、手が付けられない。
仏陀は、言う。女の膣に、男根を入れてはならない、と。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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